2016年 12/11(日)は、久し振りに松山行きとなりました(^.-)☆ <1/14>

 ■2016年12月20日23:17
 12/11(日)は、久し振りに松山行きとなりました(^.-)☆


 毎年この時期になりますと、次から次に年賀欠礼状が届きます。
 退社して我が家にと戻って来ますと、毎日、こぅした年賀欠礼状に眼を通しますけど、今月に入りましてスグでしたか…一枚の欠礼状に眼が止まってしまいました。

 GONsanの亡き祖母の姪、亡き母からみますと従妹の関係ですから、GONsanはどんな関係と言いましたら宜しいのでしょうか…
 叔母とでも表現しましたら宜しいのかも…
 こんな関係ですから親戚とは言いましても、もぅ遠縁となりますネ。

 ですが、GONsanが小学生低学年頃までは、よくお会いしておりました。
 ですから、叔母的存在ではありましたネ。
 この方が本年3月に亡くなられました事を、年賀欠礼状が届きますまで全く知らずにおりましたGONsanです。
 こんな事情がありまして、12/11(日)には慌てて久し振りに松山行きとなりました。

 A.M.9:00過ぎの到着を予定し、A.M.7:00少し前に我が家を松山に向け出発となりましたGONsan。
 しまなみ海道をノンビリ走行した積もりですけど、来島海峡大橋を渡り来島海峡SAに到着はA.M.7:40。走行車輌が多くありませんでしたから随分速く到着です。
 この調子ですと、松山城近くの本町には9:00前に着いてしまいそうですから、ここで暫し時間潰しも兼ねまして休息タイムとなりました。

 その際、SAから撮りましたのがこれらの画像。
 今まで何度も同じアングルから撮っています眺望ですけど、何度目にしましてもノンビリとした気持ちに陥りますイィ景観です(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 松山城近くの本町4丁目には、時間調整のお陰で予定通りA.M.9:00少し過ぎに到着となりました(^.-)☆
 早速、仏前にお参り、そして墓前へのお参りとなりました。

 GONsanが幼少時には、よくお会いしておりました叔母…
 GONsanが社会人となりましてからは、ほとんどお会いする機会には恵まれませんでした叔母…
 亡くなりました事も知らず、年賀欠礼状で初めて逝去を知りました叔母…
 GONsanの祖母もお寺の娘でありましたが、お寺の娘として松山のお寺にと嫁ぎました叔母…
 
 墓前にたたずみ、過ぎ去った遠い昔に想いを馳せておりますと、実に哀しい気持ちに襲われてしまいましたネ…
 この歳になりますと、色んな方々との別れが年々多くなってしまいます。
 定めとは言いましても、やっぱり哀しい気持ちですネ(^-^)//"

 

 

 墓前でのお参りを済ませますと、叔母が70年ばかり暮らしました松山で、もう少しノンビリと留まりたい…こんな思いから、道後公園(湯築城跡)を少し散策してみます事に致しました。

 ◆道後公園

 道後公園(どうごこうえん)は、愛媛県松山市道後町にある湯築城跡とその周辺からなる愛媛県立の都市公園(総合公園)である。
 公園内の丘陵の上の湯築城跡は、現在展望台となっている。桜の名所で、花見の時期は大勢の観光客で賑わう。道後公園の桜は、松山地方気象台が標本木に指定しており、桜前線の目安とされている。また、外堀と土塁は現在も残っている。

 ・歴史

 1886年:道後植物園を設置
 1888年:植物園を廃止し県立道後公園を設置
 1953年:園内に愛媛県立道後動物園を設置
 1987年:動物園を伊予郡砥部町に移転させるため廃止(翌年に愛媛県立とべ動物園が開園)
 2002年:湯築城の復元整備、「湯築城跡」として国の史跡に指定される

 ◆湯築城

 湯築城(ゆづきじょう)は、愛媛県松山市道後町にある城跡。堀や土塁が現存する。国の史跡に指定されている。

 ★歴史・沿革

 建武2年(1335年)前後、伊予国の守護であった河野通盛の代に築城され、一族本貫の地である風早郡河野郷(現松山市河野)より移住した。
 天文2年(1535年)頃、通直(弾正少弼通直)によって外堀が造られたとされる。
 天正9年(1581年)以後、四国征圧を狙う土佐国の長宗我部元親が伊予国に侵入し、通直(牛福丸通直)は元親と交戦した。
 天正13年(1585年)、四国征伐をめざす羽柴秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が侵攻して金子城主の金子元宅を攻撃の末滅ぼし、湯築城の河野氏も約1ヶ月の篭城の後に降伏した。城に留まっていた通直は命は助けられたが、2年後に病没した。城は隆景に与えられたが、彼の所領は筑前に移された。
 天正15年(1587年)、福島正則が城主となるが、程なく国分山城に居城を移したため、廃城となった。
 慶長7年(1602年)、勝山(城山)に松山城の築城が開始され、以降加藤氏(のち蒲生氏、松平(久松)氏)が伊予国松山藩主となる。建築にあたっては、湯築城の瓦等の建材が流用されたことが発掘調査により判明している。
 明治21年(1888年)、県立道後公園として整備される。
 平成14年(2002年)9月20日、国の史跡に指定される。
 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(80番)に選定された。


 …と、こんな歴史のあります道後公園(湯築城跡)でありますようです(^.-)☆
 きっと、訪れます方も少なく、ノンビリと物思いにふけりながらの散策が出来るものと思っておりましたら、意外にも訪れます方々はそれなりにおられまして、叔母との想い出にふけります訳には行きませんでしたかも(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とりあえず展望台にと上がってみます事に…
 途中、眼下にカメラを向けておられます方々が3名ばかり…
 勿論、立ち寄り「何を撮ろうとしておられますのですか?」と尋ねますGONsanです。

 「○○を撮ろうと待っているのですよ…」と教えて頂いたのですけど、『カワセミ』でしたか…違うかも…少し早口でGONsanには聴き取れませんでした。それに、鳥類はGONsanには無縁のジャンルでもありましたから、聞き返しはしませんでしたけど(^-^)
 それにしましても、3名の皆様が高級そうなレンズを装着ですから、凄いなぁ〜との想いも少々(^.-)☆

 それからまた、展望台への上り道を歩行続行となりましたGONsanでありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

← 戻る  Contentsに戻る  トップページに戻る  進む →