GW前半は お見舞いと若狭路散策でありました(^.-)☆ <3/5> |
■孝子与七の碑
自分は貧しい暮らしをしながら、親にはごちそうを食べさせ、孝行の限りを尽くしたという与七の墓碑です。その志は、当時の小浜藩主に褒めたたえられたということです。
↑↓ 仮屋地区の田園風景です 近年シカの出没で田畑の多くはこぅして防護ネットでシカの進入を防いでおられます(^-^)
2007/04/29(日)
翌日・若狭滞在2日目は、A.M.11:00過ぎにまたお見舞いで病院行きとなりました。
お見舞いとは言いましても、通常は看護士さん達にお世話になっておりますから特にお手伝いする事もありませんし、せいぜい食事時間に伺い、会話しながら少し食事のお手伝いをします程度。
日頃あまり伺えませんから、出来るだけ一緒に過ごそうとは思いますけど、食事が終わりますと眠ってしまわれますから…
この日も、昼食を終え暫く経ますと眠ってしまいました。
で、この時間を利用しまして若狭探訪の散策で、「荘園の里・太良庄」&「常高寺」に出かけてみることにしました。
この若狭路には歴史的な色んな史跡も数多く存在しますけど、毎回、若狭を訪れますたびにチョコチョコと散策のGONsanなんです。が、色んな史跡が存在しますにも拘わらず、意外と地元の方々も凡てを散策してはおられませんようですネ(^-^)
事あるごとに嫁さんに尋ねましても「知らない」「行った事はない」ですから困惑してしまいますよ(^-^)
…と言う訳で、「荘園の里・太良庄」、「常高寺」及びその周辺の景観を画像でご案内致します(^.-)☆
■荘園の里「太良庄」福井県小浜市
◆越前若狭探訪◆ --- 東寺文書が解き明かす中世の農村の暮らし ---
太良庄は、小浜の市街地から東へ約4kmの農村集落で、その入口に「荘園の里・太良庄」と書かれた看板が立っています。ここは鎌倉時代の仁治元年(1240)から、南北朝の動乱期を経て室町中期まで、約250年にわたって京都・東寺(教王護国寺、東寺真言宗の総本山)が領有する荘園でした。
東寺に残された国宝「東寺百合文書」(合はフタ付きの器を数える単位。百の桐箱に収められた膨大な量の文書)には、太良庄関係の史料が数多く含まれています。土地台帳や年貢の計算書、地頭による不法を荘民が訴えた書状など、それらから中世の太良庄をつぶさに知ることができます。
当時、荘民はいくつかの階級に分かれていました。荘園の年貢収納などを担当した公文を筆頭に、1〜3町の田を保有して本百姓とも呼ばれた数名の名主、零細な農地しか持たない小百姓、そして田地を持たず、名主や小百姓の下に属した人々など。
これら荘民を実質的に支配した地頭の横暴はすさまじく、田畑を力づくで奪い、新たな名目を付けて金銭を徴収し、また、用水の利用を水盗人としてとがめるなど、さまざまな言いがかりをつけて罰金を責め取りました。稲盗人を寄宿させたとして、夫婦らが身売りさせられた例もあります。重い年貢と地頭に苦しめられ、生活に困窮して逃げ出す人も多かったといいます。
こうした過酷な支配のもとで、太良庄の人々は命がけの抵抗を続けました。東寺から新たに派遣された預所の代官(荘園の管理者)を通じて、それまでの地頭の不法を京都の六波羅探題に訴え、寛元元年(1243)に荘民勝訴の判決を得ています。
鎌倉幕府の滅亡後は、混乱に乗じて荘内への乱入略奪が繰り返され、その警護のため東寺が任じた地頭代官は、荘民を私用に召し使い、その家屋を壊して城郭を造るなどしました。それを東寺に繰り返し訴えたものの聞き入れられず、建武元年(1334)には59名の荘民が代官の罷免を求める起請文を作り、一味神水(神に供えた水を回し飲みして集団誓約を結ぶ儀式)のうえ連署し、一揆を起こしています。
いま太良庄を訪ね、荘園の運営に深くかかわっていたという小野寺(東寺の末寺)や、一味神水の場になったと伝えられる丹生神社の境内に立つと、荘園のころの様子が目に浮かぶような気がします。広い屋敷を持つ家々、春の暖かい日差しを浴びた田畑ののどかでゆったりとした風景…しかし、この大地には、苦難の時代をたくましく生き抜いて田地を守り継いだ人々の血と汗が深く染み込んでいます。
『若狭の語り部』を務める岡村昌二郎さんは、「太良庄は東寺の荘園として多くの文書が今日に伝わったことから、中世荘園研究のスポットが当てられ、詳しい歴史が解き明かされました。ほかの多くの農村も、同じ時代、太良庄と同じような状況だったのだろうと思います。太良庄の歩みを、自らのふるさとを知る手がかりとしてもらえたらいいですね」と話されています。
--- 関西電力の地域交流誌「越前若狭のふれあい 2007 bV」より転載 ---
(左)(右)太良庄の集落風景(正林庵のある太良地区)
(左)太良庄の集落風景(正林庵のある太良地区) (右)養老元年(717)の開基と伝えられる小野寺(東寺の末寺)の山門
(左)(右)昭和36年の台風で倒壊し、同49年に再建された小野寺の仮本堂。巨石の石垣が往時の面影を偲ばせます。
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