福山市鞆の浦 対仙酔楼 内部一般公開 <2/5> |
■対仙酔楼 特別公開 --- 山柴水明の舞台 ---
福山市鞆の浦歴史民族資料館では、見出しの特別展を11月27日(月曜休館)まで開催中です。
この展覧会にあわせて、往事の町並みや自然を一体的に楽しんでもらう「鞆まるごと博物館」を提唱しています。この魅力を更に増すために、「対仙酔楼」(門楼)の内部を一般に初めて公開します。
この「対仙酔楼」の名前は、文化11年(1814)10月16日(新暦では11月27日で、ちょうど今頃です)、鞆きっての豪商・大坂屋が、鞆の浦に滞在中の漢詩人・儒学者の頼山陽(1781〜1832)へ門楼の命名を依頼し、付けられたものです。
今でも頼山陽がそれを揮毫(きごう)した書(本展で展示)が残っています。また、この命名の経緯を山陽自身が細かに「対仙酔楼記」(本展で展示)に書いています。
その巻末には「山柴水明(さんしすいめい)」が記されています。一般的に、この言葉は古くから中国や国内で使われていたと思うところですが、山陽がこの時に歴史上初めて書いたという「目からウロコ」の画期的な説を昨年、広島市の池田明子氏が発表されています。
「日東第一形勝」の絶景、鞆の浦。この鞆の浦には国内外の多彩な文人が立ち寄りました。更に、経済力のある鞆の商人が当代一流の文人を迎え入れ、支援しました。自然・文化・経済に恵まれた鞆の浦から、頼山陽が「山柴水明」を誕生させたと思われます。
山陽は、この後も対仙酔楼を訪れ「再登仙酔楼」という漢詩を創り、この仙酔島に面した門楼を大変気に入っていたようです。また、河野鉄兜、篠崎小竹(小竹散人)、中島棕隠、広瀬旭荘など当代一流の文人もここから多くの漢詩を詠っています。
大坂屋は、酒造業のほか幅広い商品を扱う問屋なども行う言わば総合商社のようなものでした。かっての江戸時代、この門楼・対仙酔楼の一帯には、連なる蔵、母屋など大坂屋の商家群が勇壮に建ち並んでいました。
対仙酔楼は、仙酔島などの箱庭のような詩情あふれる絶景を望める場所で、ちょうど弁天島の真向かいの絶好な立地にあります。木造2階建て、入母屋造で、1階は銅板葺き、2階は本瓦葺きです。長屋門の上部に大広間と茶室を備えた楼閣を乗せた風雅な建物です。2階の広間は、眺望をパノラマのように楽しめるように設計されており、内部は数寄屋風(雅な茶室風)に造られ、客人を迎えるには最高の迎賓館のようです。建物は江戸時代後期のものですが、1階は後世に改修がなされています。2階は修繕をしているものの、ほとんどが当時のままに伝わります。
鞆の雅な文化を象徴する貴重な文化財で、そこには鞆商人の「見栄」も見てとれます。
--- 福山市鞆の浦歴史民族資料館より頂いた資料より ---
(左)(右)命名者・頼山陽自筆の「対仙酔楼」の書です(^_^)v
(右)中島棕隠の書の掛け軸です(^.-)☆
(右)対仙酔楼から眺望しました弁天島の浸食されました岩です(^.-)☆
(右)格子戸越しに眺望します弁天島もイィものですネ(^-^)/
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