栃木県“佐野市・栃木市”・茨城県“古河市” <6/8> |
古 河城
古河城は、室町時代から戦国時代に かけてこの地方を治めた関東公方足利氏の居城でした。
江戸時代には徳川幕府が古河の地を重要視したため、譜代大名11家が めまぐるしく交替しました。その度に菩提寺も変わったため、市内には由緒ある寺院が数多く存在します。
古河城は、大正年間の渡良瀬川改修 工事のため取り壊され、現在は河川敷となっています。古河総合公園に古河公方館跡が、歴史博物館敷地に古河城出城跡などが残るのみです。しかし、市内には 今も土蔵造りの商家や武家屋敷などが点在し、城下町“古河”のたたずまいを現在に伝えています。
鷹
見泉石 古河藩(現古河市)は江戸時代には常陸国ではなく下総国に含まれていた。古河は水陸ともに交通の要地であり、江戸にも近いことから幕府要職を任じられた 譜代大名家が多く入封している。 鷹見泉石が仕えた土井家は、大老となった土井利勝(どい・としかつ)のときに初めて古河藩に入封した(1633年)譜代の名門である。一時別地への移封が あったが古河に再封され(1762年)、以後は明治の版籍奉還(1869年)まで長く古河藩藩主の座にあった。鷹見泉石が仕えたのは土井利位(としつら: 藩主在任1822〜1848年)である。 利位は、幕府要職のエリートコースである奏者番、寺社奉行、大坂城代を歴任した。利位が大坂城代だったときに「大塩平八郎の乱」(1837年)が起きた が、泉石は利位を助け事態の収集に当たっている。 利位はさらに京都所司代、老中と登り、水野忠邦(みずの・ただくに)の幕政改革を助けた。改革の行き過ぎのために水野忠邦が失脚したあとは老中首座 を勤めている。ときは幕藩体制の崩壊が表面化してきた天保期である。困難な問題が山積している時期だったが泉石はよく利位を補佐した。 |
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