広島県宮島町 厳島神社 <1/5>
厳島神社の由来

 太古の時代から、宮島の景観には人々が霊気を感じ、島そのものを神として、信仰の対象にしていました。社殿の創建は、推古天皇即位元年(593年)、佐伯鞍職によると伝えられています。

 神社の敷地を州浜に求めたのも、島そのものを神と見たためと思われます。
 厳島神社は、弘仁2年(811年)にはじめて日本の歴史に記録され、『日本後記』には伊都岐島神を名神に列しています。

 平清盛の時代には、平家一族の拝するところとなり、仁安3年(1168年)ころには社殿が造営されました。平家一門の権勢が増大するにともない、社を崇拝する度合も高まり、多くの貴族を始めとする人々の知るところとなり、社運はますます盛大になりました。

 京都からは、皇族、貴族が訪れ、当時の平安文化が積極的に取り入れられました。舞楽が始まったのもこの時代です。平家滅亡後も、源氏一門に厚遇され、安定と隆盛の時代でありました。

 社殿は、承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)に火災にあい、これら災害の修復が行われましたが、たび重なる火災で神社の規模も移り変わったと思われ、弘安の時代(1278〜1288年)に記された社殿の図は今の配置と異なっています。その後、正中2年(1325年)台風で現在の配置に近い姿であったことがうかがえる記録が残されています。

 鎌倉時代から戦国時代にかけて政情が不安定になると、社殿は徐々に衰退し、荒廃の時代を迎えますが、弘治元年(1555年)、毛利元就が厳島の合戦で勝利を収め、社殿を支配下に置き、神社を深く崇敬した頃から社運はふたたび上昇しはじめました。豊臣秀吉も、九州遠征のさいに立ち寄り、安国寺に大経堂の建立を命じています。

 太古からの人々の信仰を集め、時の権力からも崇拝をうけ、たぐい稀な建築様式と文化を併せ持つ厳島神社は、現代にも生き続ける日本文化と歴史の象徴であり、日本の人々の心の情景でもあります。

  

(左)(中)いずれも夕方の宮島行きフェリー乗り場です(^.-)☆ (右)フェリー内から大鳥居を

   

  

  

(左)(中)(右)台風接近であいにく早朝から降雨 観光客は私のみの現状でした(^.-)☆

   

大鳥居(国重文)

 厳島神社の朱丹の大鳥居は、観光日本のシンボルとして外国にも広く知られています。

 この鳥居の形式は、四脚造りで、楠の自然木を使った典型的なものです。平安時代の記録では、鳥居はあったことになっていますが、形式はどのようであったかわかりません。今の鳥居は平安時代から8代目で、明治7年10月17日に建立にかかり、明治8年7月に完成したものです。

 主柱の用材は九州宮崎県と四国香川県から選び、総高53.3尺(16m)、主柱の高さ44.5尺(約13.4m)、主柱のまわり33尺(9.9m)、棟の長さ77.8尺(23.3m)、本社の拝殿より108間、火焼前より88間の海面に、自然の重みで立っています。

 大鳥居の額の文字は、小野道風、並びに僧空海の筆であったと言い伝えられていますが、(一節には小野道風と紀貫之ともいわれております)いつの頃からか亡失して今では伝わっていません。現在のは有栖川宮熾仁親王の染筆で沖側「厳島神社」、神社側「伊都岐島神社」、額の裏面に「明治7年甲戌四月二品熾仁親王謹書」と記されたものが掲げてあります。

  

   

 

平清盛

 平清盛は、宮島と最も縁の深い歴史上の人物といえます。久安2(1146)年、安芸守に就任した清盛は、海上運輸の要衝である瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげる一方で、信仰の面でも宮島を深く信仰したことで知られています。

 厳島神社の創建は今から約1400年前佐伯鞍職によるといわれますが、現在の社殿の元になる建物を造営したのは平清盛です。『平家物語』によれば、清盛が宮島に着目したのは高野山での大塔修理の際にお告げを聞いたためといわれ、仁安3(1168)年より開始された社殿の造営は、数年を費やし完成されました。

 島の人々の清盛への愛着は深く、昭和29(1954)年には、清盛の霊を祭った清盛神社も建てられています。
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