第12回 べいふぁーむ笠岡マラソン大会 <2/3> |
■2008年12月06日
先日・11/23(日)は“第12回べいふぁーむ笠岡マラソン大会”でありました(^.-)☆B
GONsanが笠岡総合スポーツ公園を後にしまして2時間少々の旅に出ました後は、ゴンchanと嫁さんは、そのスグ後にスタートしました「小学1・2年と保護者のペア“1.5km”」の様子を観戦しましたようですねぇ〜
勿論、GONsan達にはこんなレースの様子は見れませんけど、お父さんやお母さん達と一緒に走りますチビッコ達、仲々楽しそうですねぇ(^.-)☆
画像を拝見しておりますと、子ども達はしんどそうですけど、お父さんは楽しそう(^-^)
マラソン大会の微笑ましい一コマですネ(^_^)v
その合間には「かさおか太陽の広場」も散策しましたようですネ(^.-)☆
この細長い公園内にはこんな噴水もありますし…
確かこの噴水、夏場の夜にはライトアップされていましたような…もぅ随分前に何度か夜に立ち寄り散歩した事もありますけど、結構キレイではありましたネ。
GONsanは、残り3kmばかりをこの細長い公園に沿って競技場にと戻って来ますけど、競技場までズッと一直線。
普段、河川敷を走っていますからこんな一直線のコースには強いGONsanのハズなんですけど、大会となりますと別なんです。
単調な一直線のコースを青息吐息で走りますから、哀しいですよ(^-^)
画像2段目の監察車…ハーフの部の最終ランナーの後に付いて走行ですけど、この監察車にGONsanの上司が8km以降はズッと乗っておられましたとは知る由もありませんGONsanでありました。
大会の翌々日の出社時に聴きましたけど、何と、職場の上司、8km地点でリタイアされましたとか…
う〜ん、これでは折り返して来られます方々を凝視しておりましても分からないハズですよ(^-^;
なんでも、8km地点までトップ集団に付いて快調に走っておられたようですけど、この地点で突然の足の引きつり。
うん、うん、これでは走れませんよねぇ〜お気の毒に…
結局、断腸の想いで続行は断念されリタイア。
心中お察し致しますよ、さぞ無念のお気持ちだったものと思います。
それにしましても、8km地点までトップ集団とは、やっぱり凄いですよ。あのスピードに付いて走りますのですから…
GONsanなんぞは最初から8kmコースのマラソンでありましても、とてもトップ集団には付いてはイケません。
スピードが違い過ぎますから(^-^)
GONsanが折り返し地点を通過し戻って来ていましたら、デビルマンが沿道の熱い声援の中を楽しそうにノンビリと走っておられました。
そして、その後方を監察車が…
この時点では、まさかこの車輌の中に上司がおられますとは夢にも思ってもいなかったのですけど…
う〜ん、そぅでありましたか…
このリベンジで、次回の大会は6年振りに復活しました『吉備路フルマラソン』を考えておられます上司。
GONsanもこの吉備路フルマラソンを何度か走っておりますけど、6年前に交通事情で大会中止となりまして以降はフルマラソンとは縁遠くなってしまいました。
それが、今年の10月頃でしたか…新聞紙上に「吉備路マラソン復活」の記事掲載がありまして喜びましたねぇ〜“あの、想い出多い吉備路マラソンが復活とは実に嬉しい…”との想いは強いのですけど、今からではとても準備は間に合いませんGONsanです。
が、上司はこれにエントリーを考えておられますから、凄いですよ。
GONsanもフルマラソン復活となりますと、準備期間は1年を要しますネ。
タイミング良く今日・土曜日に「ふくやまマラソン大会」の申込書が郵送で届いておりましたけど、多分、GONsanはこの大会で走ります事になりますでしょうねぇ〜
それにしましても、ファミリーマラソンの皆さん、大変楽しそうに走っておられます。
どんなスポーツでも、原点はまず『楽しく参加する』事のようですネ(^-^)//"
■2008年12月06日
先日・11/23(日)は“第12回べいふぁーむ笠岡マラソン大会”でありました(^.-)☆D
どんなマラソン大会でも“名物男”の一人や二人はおられるもので、この方もそんなお一人と言いましても宜しいかも(^.-)☆
昨年のこの大会では、笠岡市をアピールします大きな看板を背負って走っておられましたけど、んっ?!今回は『思軒全集』とは…何なんでしょうねぇ〜
で、早速、Web上でお勉強となりました。
“森田思軒(もりたしけん)”で検索してみますと、うん、うん、ありましたネ(^.-)☆
■森田 思軒
生没年(享年)文久元年(1861)-明治30年(1897) (37歳)
諱(いみな)文蔵(ぶんぞう) 字(あざな) 通称 雅号思軒(しけん)
出身地備中(岡山県)笠岡師の名矢野龍渓、
坂田警軒官職等郵便報知新聞記者、萬朝報社員代表的著作『随見録』(ユゴー原著の訳)
◆伝記
思軒居士は、備中(岡山県)笠岡の裕福な商家に生まれました。慶応義塾大阪分校で矢野龍渓に師事し、龍渓の上京にしたがって上京し、慶応義塾本校で英文学を学びましたが、中途退学し帰郷します。その後、岡山の興譲館に入り、坂田警軒に師事して漢学を修めました。
明治15年、再び上京して、矢野龍渓の経営する郵便報知新聞に入社しました。
明治17年、師・矢野龍渓の著書『経国美談』に漢文の頭評と後序を書いて評判になり、世間に思軒の名が知られるようになります。同じ年、先輩記者であった藤田鳴鶴の『文明東漸史』にも漢文の頭評を書き、外篇の序を書いています。
明治18年、清国へ特派され、「訪事日録」「北京紀行」などの紀行文が報知新聞に掲載されました。同年、欧米視察中の矢野龍渓に呼ばれ、通信事務担当として欧米巡遊に同行し、「龍動(ロンドン)通信」「回船記要」などを発表しました。また、この洋行中に購入した多くの文学書が後の翻訳に生かされることになります。
明治19年、矢野龍渓は、報知新聞の改革に着手し、文芸欄「報知叢談」を設け、思軒らに翻訳作品等の発表を競わせました。思軒は、ジュール・ベルヌ原作の『鉄世界』、『瞽使者』等を訳載し、翻訳文学者としての名声を勝ち得ました。また、報知新聞社と友好関係にあった徳富蘇峰の「国民之友」に、ビクトル・ユゴー原作の『探偵ユーベル』、『クラウド』、『懐旧』等を発表し、これがわが国におけるユゴー紹介の嚆矢となりました。
また、思軒は報知新聞編集長として辣腕を振るいました。
明治24年、報知新聞が瓦解の危機に瀕したとき、思軒は門下生の原抱一庵、村上浪六らの筆の力を結集し、報知新聞を文学新聞に改造しましたが、年末に突然辞職します。藤田鳴鶴が実権を握り、思軒が編集長として思いのままの紙面づくりをすることができなくなったためといわれます。
明治24年、「国会新聞」に客員として入社し、同28年の廃刊まで社員でした。この間、同紙のほか、「太陽」や「少年世界」等にも執筆しています。
明治29年「少年世界」に発表したジュール・ヴェルヌ原作の『十五少年』は、名訳として後に岩波文庫にも入り、読みつがれました。
明治26年、思軒は山路愛山の『頼襄を論ず』に触発され、『国民の友』に『山陽論に就いて』の連載を開始し、明治30年に没するまで山陽論を書き続けました。これらは彼の没後、徳富蘇峰によって『頼山陽及其時代』として一冊にまとめられました。思軒の評論家としての才能は、この書において見るべきです。
明治29年、思軒は、黒岩涙香の『萬朝報』に、月給百円という破格の高給で迎えられます。しかし、翼明治30年、黒岩涙香宅へ花札を引きに行ったあと、腸カタルを発病し、腹膜炎を併発して死去します。享年37。
…と、こんな記載がありましたけど、ふ〜ん、笠岡が生みましたこんな人物でありましたか(^.-)☆
優秀な方でしたのでしょうけど、享年37歳とは随分若くしてお亡くなりです。
それにしましても、毎回、趣向を凝らしてエントリーして来られますこの方、出場者名簿からお名前は存じ上げているのですけど、どんなお顔をしておられますのでしょうねぇ〜
きっと、昨年と同じお顔だとは思いますけど(^-^)
昨年は看板を背負っておられましたからお顔は充分拝見できましたけど、こぅしてお顔が見えませんと、どんなお顔か見てみたい衝動に駆られてしまいますよ(^-^)
とにかく、マラソン大会の微笑ましい一コマであります(^-^)//"
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