紅葉の福山城公園 <2/2>

   

(右)福山城を築城しました「水野勝成公」の像です(^.-)☆

 

   

   

   

↑↓ 紅葉が大変キレイでありました(^_^)v

 

 

 ■阿部正弘公

 阿部正弘は文政2年(1819年)に5代藩主阿部正精の6男として江戸に生まれた。文政9年(1826年)に父正精が死去し兄阿部正寧が6代藩主を継ぐと、正弘は本郷(文京区)の中屋敷へ移った。しかし、正寧は10年後の天保7年(1836年)に正弘を養子にして家督を譲ったため、正弘は7代藩主に就任することになった。翌年(1837年)に正弘は福山(広島県福山市)へのお国入りを行った(正弘が国元へ帰ったのはこの一度のみである)。天保11年(1840年)5月には寺社奉行見習となり、11月には寺社奉行に任じられ、感応寺(台東区谷中)の破却などを行った。

 正弘は天保14年(1843年)に25歳で老中となり、辰の口(千代田区大手町)の屋敷へ移った。同年、老中首座であった水野忠邦が天保の改革の挫折により失脚したため、老中首座となる。第12代将軍徳川家慶、第13代徳川家定の時代に幕政を統括する。嘉永5年(1852年)には江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増される。老中在任中には度重なる外国船の来航や中国でのアヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。

 幕政において正弘は弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲、戸田氏栄、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震、など大胆な人事登用を行った。更に、人材育成のため、嘉永6年(1853年)には自らが治める備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」(せいしかん)に改め、身分に関わらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。前年(1852年)から加増された1万石も殆どを誠之館に注ぎ込んだといわれる。

 嘉永元年(1848年)、アメリカ合衆国の東インド艦隊が相模国浦賀(神奈川県)へ来航して通商を求めると、正弘は鎖国を理由に拒絶したが、嘉永6年(1853年)に再びマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には長崎にロシアのエフィム・プチャーチン艦隊も来航して通商を求めた。

 この国難を乗り切るため正弘は朝廷を始め外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募ったが結局有効な対策を打ち出せず時間だけが経過していった。また、嘉永6年(1853年)には松平慶永や島津斉彬らの意見により水戸徳川家の徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政へ介入するきっかけとなり、結果的に幕府の権威を弱めることにもなった。尚、正弘自身は異国船打払令の復活を度々諮問しているがいずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく徳川斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。

 こうして正弘は積極的な展望を見出せないまま、事態を穏便に纏めるかたちで安政元年(1854年)日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。しかし、日米和親条約締結に反対した徳川斉昭は条約締結後に海防掛参与を辞任することになる。ところが、安政2年(1855年)、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の老中松平乗全、松平忠優の2名を8月4日に罷免したことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買い、孤立を恐れた正弘は同年10月、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。

 こうした中、正弘は江川英龍(江川太郎左衛門)、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や洋楽所、長崎海軍伝習所などを創設した。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和、など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。しかし、安政4年(1857年)正弘は老中在任のまま急死する。享年39歳。ちなみに、正弘は蘭学の導入に積極的であったが、自らは蘭方医を最後まで拒んだという。尚、正弘は13代将軍徳川家定の後継者問題では一橋慶喜(徳川慶喜)を推していた。
--- フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より ---

↑↓ こちらにも仲睦まじいご夫婦が紅葉を楽しんでおられました(^_^)v

 

 

 

(左)永年、放置されたままの福山城の石垣用の“石”です(^.-)☆

 永年放置されたままのこれらの石なんですけど、中国新聞sanの記事よりますと、ヤッと復元の運びとなりましたようですネ(^_^)v

 《石垣崩れ40年 福山城跡復元始動》

 --- 2006/08/19 中国新聞 ---

 福山市教委は近く、国史跡「福山城跡」の本格的な整備に向け、計画策定を担う検討委員会の準備会を発足させる。城下町・福山のシンボルである城の石垣の一部は、四十年以上前に崩落し放置されてきた。その石垣は準備会発足により、ようやく復元への一歩を踏み出すことになる。(古川竜彦)
 
 崩落しているのは、天守閣の西南に位置する二之丸の石垣の一部。断続的に幅二百メートル以上にわたり崩れ、落ちた石は周囲に野積みされている。市教委によると、一九六四年に城跡(約三万三千平方メートル)が国史跡に指定された際、既に一部は崩れていた。しかし、崩落に関する記録はなく、野積みの中には城の周辺整備で出土した石も含まれているという。
 
 市教委が年内に発足させる準備会は、近世史や城郭建築などの専門家ら学識経験者で構成。崩落している石垣や関連遺構について調べ、復元に向けた課題を整理する。さらに伏見櫓(やぐら)や筋鉄御門(すじがねごもん)(いずれも国重要文化財)など文化財の保存状況も把握する。
 
 続いて市教委は二〇〇七年度にも、準備会のメンバーを中心に正式な検討委員会を設置。福山城跡の全体整備計画策定に入る予定でいる。
 
 福山城は一六二二年、初代福山藩主の水野勝成によって築城された。天守閣は一九三一年に国宝に指定されたが、四五年の空襲で焼失。伏見櫓などは戦災を免れた。市は六六年、市制施行五十周年記念事業として天守閣や月見櫓などを再建した。しかし、文化財としての史跡整備は未着手のままとなっていた。
 
 石垣の復元などを四十年余も棚上げしてきた点について市教委文化課は「天守閣などを除き、城の全景写真や実測図などの資料が戦災などで焼失し、原型を復元するような計画策定が困難だった」と説明する。
 
 一方で文化庁は最近、文化財保護の観点から安易な現状変更に歯止めを掛けてきた姿勢を軟化させた。「適切な調査、検討作業を経た現状変更の計画ならば、審議対象となる」(記念物課)としている。こうした動きを受け市教委は、福山城跡の整備計画策定に乗り出すことを決めた。

 …と、こんな経緯もありましてヤッと復元への道が開けましたようですネ(^-^)
 ここを通ります度に、これらの放置されたままの石が眼に入りますから、GONsanも気になっておりましたけど、これでスッキリとしますかも(^.-)☆

   

 

(右)これは何の句碑なんでしょうねぇ〜

 

(右)福山城公園内の散策を終え、また福山駅北口から月見櫓を眺望です(^-^)//"

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