紅葉の福山城公園 <1/2>
 2006/11/16(木)

 県北辺りに出かけますと紅葉も大変キレイなのでしょうけど、別段、何処に出かける訳でもありませんGONsanですから、今日は昼食時間を利用しまして、駆け足で福山城公園の紅葉を楽しむ事になりました(^.-)☆

 独りで福山城を散策しますのもチト寂しいものですから、嫌がる同僚を引っ張り出し出かけてきましたけど、それなりに美しい紅葉でありました(^_^)v
 公園内を散策しておられます方もチラホラお見かけ致しましたけど、熟年のご夫婦が仲睦まじく散策しておられますのを眼にしますと、実に微笑ましい感じでありました。

 GONsan夫婦もこぅありたいものですけど、この方達の年齢に到達しました時には、こぅして仲睦まじく散策していますでしょうか…
 それはさて置きまして、何度も撮りました福山城公園の景観ですけど、画像でご案内させて頂きます(^-^)/

JR福山駅北口から福山城公園を眺望です(^.-)☆

  

(右)前方に熟年のご夫婦が、いたわり合いながら階段を上がっておられました(^.-)☆

   

(左)福山駅北口の景観です(^.-)☆ (右)伏見櫓です(^-^)/

 

   

(左)筋鉄御門です(^.-)☆

  

(左)福山城鐘櫓です (中)筋鉄御門です (右)ここにも熟年のご夫婦が…撮ってあげたり撮られたりで仲睦まじいお二人でした♪

 

(左)天守閣 (右)福山城鐘櫓

   

(左)筋鉄御門 (右)福山城鐘櫓

 ■福山城鐘櫓

 んっ、故障中?! そぅ言えば少し前に中国新聞sanのこんな記事がありましたネ。

 《時告げぬ鐘櫓、故障修理へ》

 --- 2006/10/26 中国新聞 ---

 福山市重要文化財の福山城鐘櫓(やぐら)から響く鐘の音が、昨年末から途絶えている。JR福山駅周辺に「時」を告げてきたが、太陽電池で動く自動鐘突き装置は故障したまま。管理する市教委は「予算不足」を理由に放置してきたが、市民から苦情も届き本年度中の修理を決めた。

 鐘は高さ1.4メートル、直径0.85メートルで青銅製。1日4回、重厚な音で時を告げてきた。今の鐘は5代目で江戸後期の作とされる。


 …と、こんな記事でありましたけど、どうせこの正午をとっくに過ぎました時間では、例え正常でも鐘の音を聞く事は出来ません(^-^;
 夕方の6時には何度か聞いた事がありますのですけど、お寺の鐘より少し響きが悪いかも(^-^)

 まぁとにかく、早く修復されまして、また鐘の響きを耳に出来ますと宜しいですネ(^.-)☆

 

(左)伏見櫓 (右)鐘櫓

 

(右)湯殿

 

(左)湯殿 (右)天守閣

 

(右)月見櫓

 

(右)鏡櫓文書館

 ■福山城

 福山城は、徳川譜代家臣水野勝成によって築城された城である。
 水野勝成は、三河の刈谷城主水野信元の弟忠重の嫡男として岡崎で誕生した。忠重の姉が徳川家康の生母であるので、徳川家康とは従兄弟の関係になる。
 訳あって若い頃の勝成は諸国を放浪し、この備後の地にも約一〇年ほど浪人の身として滞在していたことがある。
 関ヶ原の戦いに先立ち、勝成の父水野忠重が西軍によって暗殺されたことで、家督をついで刈谷城主となる。
 安芸の福島正則の改易によって、安芸に浅野氏がそして備後一〇万石に水野勝成が入封されることになる。
 水野勝成は、東の岡山藩の池田氏、西の浅野氏への押さえとして配置されたと言われている。
 勝成は、福山城が完成するまで、備後支配の拠点であった神辺城に在城した。勝成は、この神辺城から、福山の城下町建設のグランドプランを描き、指揮した。

 しかし、水野氏は五代目勝岑(かつみね)が夭折し、跡目が無かったためお家断絶の悲劇に見舞われる。
 そのあとをうけて入封してきたのが、山形城主松平忠雅である。しかし松平氏の時代は短く、10年ほどで桑名藩へ移封。
 そのあとに入ってきたのが、宇都宮城主だった阿部氏である。
 阿部氏も徳川譜代家臣で、歴代城主いずれも幕府中枢の要職を占める生え抜きであった。中でも福山城主七代の阿部正弘は、幕末の動乱で揺れ動く時代にあって、開明的な老中として活躍したことは有名である。

 福山城築城にあたっては、幕府の肝いりもあって、豊臣秀吉の伏見城の遺構が取り壊されて、各所に使用された。
 その一つは、福山城正門として使用された鉄筋御門で、今一つが、伏見櫓である。戦災で天守閣などは焼失した中で、この二つの伏見城の遺構は戦災を免れている。
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