2020/08/23(日) 井原市西江原町「道祖溪」& 井原市野上町「那須与一公墳」 <3/6> |
水量が豊富ですと「竜門の滝」は、こんな感じになりますのでしょうネ。また機会がありましたら訪れてみたいと思います。
竜門の滝を横目に進んで行きますと、前方の石段の先が開けてきました。どうやら明治池にと辿り着きましたようですネ(^.-)☆
石段を上りきり明治池沿いの道に出て来ますと、ここに「道祖溪案内板」が…
この「道祖溪案内板」によりますと、近くに「竜門の滝」を見下ろせます「天狗岩」が存在しますようです。今回は天狗岩には向かいませんでしたけど、明治池の水量が豊富で、豪快な「竜門の滝」を眼に出来ます機会がありましたら、再度、訪れてみたいものであります。
「道祖溪案内板」の脇には『三村政太郎遺跡』と刻まれました石標が…
「三村政太郎」sanとは何者なのでしょう?…早速、WEB上で検索しましたら、こんな記載が(^-^)
◆三村政太郎
--- 井原市文化財センター 古代まほろば館 ---
三村政太郎は、後月郡山野上村(現在の井原市野上町)に生まれる。家業の酒造業に励むかたわら自宅に塾を開いて多くの人に文字や漢学を教え、人々からは「先生」と尊敬されていた。
明治9年、28歳の若さで副戸長になり、明治11年には戸長となり、その所管は西方・門田・木之子・東江原・神代・山野上の6か村にわたった。明治12年、政太郎が31歳のとき、初めて岡山県議会が開かれた際、坂田警軒とともに、後月郡から初代の県会議員に選出された。初期からの3回連続当選は、当時県内の他郡にはその例がなく、いかに人望が厚かったかがわかる。
明治15年の大干ばつに見舞われ、政太郎は地域の農民の窮状を救うため私財を投じて救済に当たるとともに、西江原村の地主大山邦一と謀り、明治19年、池の用地を山野上村と青野村の境にある渓流の落ち合うところの口の淵に場所を定め溜池の計画を立てた。
明治21年、着工し政太郎は自らその工事長となり、大山を庶務長に任命し、毎日握り飯を持って監督に通った。2年7ヶ月の歳月をかけ、明治24年、溜池は明治池と命名され、西江原町の才児・戸倉地域の水田面積は大幅に拡大された。
…と、こんな方でありました。うん、うん、『明治池』建設の功労者でありました(^_^)v
道祖溪は、この明治池を源流とし、「竜門の滝」は、明治池の水位が一定水位を超えませんと豪快な姿を見る事は出来ませんようですネ(^-^)
うん、うん、ここから明治池の水が「竜門の滝」へと流れ込みますのですねぇ\(^o^)/
周辺の景観を画像に納めておりましたら、「井原市長大山文雄書『明治池記念碑』」が(^.-)☆
碑は、井原市の初代市長・大山文雄により昭和34年頃に造られて、池の事を語り継ぎ、先人の苦労を偲ぶ碑となっていますようです。
◆大山文雄
--- 井原市文化財センター 古代まほろば館 ---
大山文雄は、後月郡西江原村(現在の井原市西江原町)に生まれ、義之小学校、精研高等小学校で学んだ後1年ほど興譲館で漢学を学んだ。さらに学業を修めたかったが父が病気のため家にもどり、西江原村役場、後月郡役所に勤めた。
しかし、19歳のとき、高等官になるという決心し、上京し、日本法律学校(後の日本大学)の夜学へ苦学して通い、明治37年に、判事・検事の登用試験に合格し、翌年より陸軍軍法会議裁判所に勤めた。
昭和17年には、陸軍法務中将となるが、昭和20年、予備役となり、郷里の西江原町へ戻り、西江原町長となる。戦後、東京裁判で再び上京し、法務局長となり約4年間勤務する。東京裁判終了後、帰郷し岡山で弁護士を開業していたが、昭和28年、井原市制施行により市長に推され、同年から井原市長として3期務め、井原市の基礎を築いた。
…と、これまたWEB上で調べてみますと、こんな偉人でありました(^-^)/"
明治池に眼を向けますと、お独りの若者が釣りを楽しんでおられます(^.-)☆何を釣っておられますのでしょうネ…
明治池の水量は豊富のようではありますけど、道祖溪に大量に流れ込みます水量ではないようですねぇ〜
では、そろそろ下山です。
涼を求めて訪れました道祖溪ではありますけど、明治池に到達まではズッと上り道ですから、それなりに大汗を(^-^;ですけど、復路は下りですから、ノンビリと下りて行きますと涼しさを多少は味わえますかも(^-^)//"
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