福山市神辺町 チャレンジウォーク in 要害山 <2/5> |
■要害山城跡
要害山城は天神山城とも呼ばれ、高屋川を挟んで神辺城と向かい合っています。要害山城は戦国時代の神辺城合戦に登場します。
戦国時代になると、備後の地は領地拡大を図る島根県の尼子氏と山口県の大内氏の争いの渦に巻き込まれていきます。
1543年6月、神辺城主・山名理興は大内氏を裏切り尼子氏と結びました。大内氏は山名理興を攻撃するため、弘中隆兼を西条(東広島市)守護に任命し、弘中氏と毛利氏が神辺城を包囲しました。1544年、尼子氏は山名理興を支援するため田総・布野に侵入しましたが、毛利支配下の三吉氏・上山氏によって撃退されています。
大内氏は五ヶ庄(大門・能島・野々浜・津之下・引野)を竹原小早川氏に預け、因島村上氏に鞆の浦内10貫文の土地を与え、小早川隆景を鞆に布陣させました。1547年4月末、山名氏方の坪生要害(竜王山城)を落城させます。
1548年5月1日、山名氏方の要害山城・宮次郎左衛門慰を落としました。6月から神辺城の総攻撃を始めましたが落城しません。1549年2月26日に神辺城麓合戦、4月16日は七日市の戦い、翌17日は籠屋(固屋・小屋)口の戦いがありました。
さて、同年4月に平賀隆宗が毛利氏に「一城を取るべきが為に大軍を客地に置くは不利なり。隆宗、山名に宿怨あれば、隆宗に命じられたし。」(『大内氏実録』)と申し出、大内氏は承諾しました。『平賀大に悦、「さらは向城を構え候はんに御扶助を得候へし」と願けれは、(陶)隆房総陣へ人夫出す可し触廻し、向ひ城如形に築き、平賀に渡して、陶・毛利・吉川・小早川巳下の人々は陣を払って帰られけり。』(『陰徳太平記』巻之十七「備後国神辺城合戦の事」)とあり、築城されました。安芸高屋保(東広島市)の平賀氏の城だから、ここの地名が「秋(安芸)丸」となったのです。
平賀氏は神辺城を攻撃しますが、7月3日26歳で病没し、遺臣たちが志を継いで攻撃を続行し、9月4日山名理興は出雲へ逃走しました。
要害山は南北朝期(14世紀)に宮氏によって築城され、室町時代に神辺城主山名氏の家臣・山名清左衛門慰時英が居城したと伝えます。また、宮若狭守秀景・宮民部左衛門貞親の名前も伝えられています。要害山西側の徳田分に「戸井(土居)」「堀」の字があり、城主の屋敷の存在が推定されます。
要害山城は、独立丘陵の山頂(標高95m)とそこから南東に延びる尾根先端に郭群があります。山頂郭群の最高所にある主郭の北・東・南を横堀が巡り、その周囲を帯郭が取り巻く構造をしています。特に南東斜面には5段の帯郭が設けられ、先端部の郭群と合わせ考えると、南東方向に意識した築城といえます。
主郭は二重の土塁と空堀に囲まれており、東端の土塁は、直線でなく互いに食い違わせて造られており、敵が攻め込むためには城門を二度曲がらないと内部に入ることができないという複雑な仕組みになっています。
先端部の郭群はピークに主郭を置き、南に郭を配し北西側には標高50mあたりに堀切を設けて、山頂郭群との間を画しています。
--- 当日頂いた資料より ---
↑↓ 要害山山頂からの眺望です(^.-)☆
■細川良助生家
細川家は、幕府領の箱田村の庄屋を代々勤めた家です。細川家の墓地にある「妙法 真照院殿清孝日保大居士参百五拾逐忌供養塔」によれば、祖先の細川掃部助清孝は1565年に没していますので、このころ箱田村に定住したのではないかと思われます。
細川良助は1790年に箱田村庄屋細川園右衛門直友を父に、母卜部氏の次男として産まれました。
1986年、伊能忠敬(1745〜1818)が第5次測量で山陽道側の海岸線・島や山陰地方の海岸線と隠岐を測量しますが、このとき、細川家と伊能忠敬が初めて会ったのではないかと思われます。
翌年、細川良助は兄と江戸に上り伊能忠敬の内弟子となりました。これ以降、良助は細川姓を使わず箱田姓を使うようになりました。
1809年、伊能忠敬の第7次測量に参加することになり「一札之事」という誓約書を父と地理学者であり伊能忠敬の弟子でもある谷東平(1774〜1824 井原市大江町出身)と連盟で提出し、伊能忠敬の規則を守らず役に立たなければその場に捨て置いてもよいと言い切っています。この西下の11月27日に伊能忠敬は神辺本陣に宿泊し、菅茶山が訪問しています。二人の邂逅はこれが初めてでしたが、伊能忠敬は早くから菅茶山との出会いを求めていました。
1811年閏2月12日、伊能忠敬は九州からの帰途、箱田村に宿泊し、「庄屋園右衛門、箱田親ノ家」と日記に記し、郷里・佐原(千葉県)への土産である畳表購入を園右衛門に依頼しています。1812年、伊能忠敬の第8次測量にも参加し、伊能忠敬は再び神辺で菅茶山と交わり、銅販板の万国図を菅茶山に贈っています。1814年。菅茶山は福山藩主の命令で江戸に行きますが、江戸滞在中に箱田良助や伊能忠敬に深く交わっています。
1815年は伊能忠敬の第9次測量ですが、伊能忠敬は高齢で参加せず、箱田良助は中心的に働きました。1816年、内弟子筆頭となった箱田良助は第10次測量任されました。この年から「大日本沿海與地全図」の作成に取り掛かりますが、6年かかり1821年幕府に提出されました。ここでも中心人物の一人でした。
1822年、箱田良助は、御徒士榎本株を50両でで買い入籍し、五人扶持五十五俵となりました。翌年、妻榎本富は長女を残して病没しました。榎本良助は林氏を妻に迎え、翌年幕府天文方に出仕します。1833年西の丸御徒目付、1833年御勝手掛、1840年右大将付本丸勤務、1844年御勘定となり旗本になりました。1846年小普請組になります。
1860年8月6日に没しますが、親戚に送った書簡で、「倅勇之助は講武所へ出没…次男釜次郎は御軍艦操練教授方出没」と記しています。この次男が函館の五稜郭にたてこもり、後に明治政府の大臣を歴任した榎本武揚(1836〜1908)です。
--- 当日頂いた資料より ---
(左)箱田良助生家です(^.-)☆
(左)(中)(右)箱田良助生家です(^.-)☆
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