| 2026/09/16(水) ��カンカン石・本田彗星発見の地・福井八幡神社�℃U策 <1/3> |

■2026年09月18日21:32
9/16(水)は��カンカン石・本田彗星発見の地・福井八幡神社�≠フ散策でした(^.-)☆(01)
先月のいつでしたか…朝刊の折り込みチラシの中に、こんなご案内が(^_^)v
「敬老の日 ご愛読者感謝プレゼント」への応募で、応募者全員に��クリップ付きルーペ�≠�もれなくプレゼントとは、嬉しいですねぇ〜
ここ最近は、GONsanも朝刊に眼を通しておりますと、時たま、読み辛い時もチョコチョコ(^-^;
で、早速、応募。受取日は、一昨日(9/16)で、中国新聞瀬戸販売所で引き渡しとの事でありました。水呑販売所での受け取りでしたら助かるのですけど、瀬戸販売所まで出掛けますのも少々億劫。でも、仕方ありません。
…と、こんな事情で、9/16(水)の午前中は中国新聞瀬戸販売所行きとなりました(^-^)
せっかく瀬戸町まで出掛けますのですから、少し遠廻りして、以前から立ち寄ってみたいと思っておりました、「�@カンカン石・�A本田彗星発見の地・�B福井八幡神社」を訪れてみます事に(^-^)/
我が家を出ますと、洗谷から��広島県道72号福山沼隈線�≠ノ入り��フタバ自動車学校�&�向に走行です。自動車学校入り口を過ぎ300mばかり進みますと右手に存在します��カンカン石�=B
��カンカン石�≠ニ刻まれました石標が存在し、以前から��何なんだろう?�≠ニ興味深く眼を向けておりましたけど、訪れますのは今回が初めて。
��カンカン石�≠ニ言うくらいですから、叩けば「カン、カン」と音がするのかも…と、勝手に想像しておりました。が、いざ、訪れてみますと、この石標付近には、それらしき石も見当たりません。で、スマホで��カンカン石�≠�検索してみますと、こんな記載がありましたネ(^.-)☆
◆カンカン石
--- 広島県/福山市/瀬戸町長和 史跡 ---
--- https://apese.net/?id=5957275 出典:www.google.com 2026/2/1(日) ---
・カンカン石の特徴
県道72号線沿いに位置し、石柱が印象的です。道標と題目碑が周辺にあり見応えがあります。バス停名にも使われるカンカン石の存在感。
カンカン石はバス停名にもなっています。カンカン石といえば、香川県や奈良県二上山等、国内でも讃岐平野を中心とする限られた場所でしか見つからない、硬い安山岩(サヌカイト)の別名です。
三豊市の紫雲出山がある半島が突き出る方向に沼隈半島はあります。地質的に関係があり、サヌカイト安山岩が見つかる場所なのでしょうか。(余りあり得ない説。火山この辺に無いもの。)
もしくは、サヌカイトは石器や楽器に使われていたそうですから、そうした古代の遺物が出土した地点なんでしょうか。だとすると、讃岐平野と備後は古くから交易があったことになります!福山多度津航路開設よりうーんと昔から。洗谷遺跡や鞆も近いですしね。
熊野文化連盟さん。解説板を設置してくださいね〜そばにある短い石柱は、沼隈街道の道標みたいですね。旧道がここを通っていたかは不明なので、移設でしょうか。
県道72号線に石柱があります道標と題目碑が周辺にありますが、どの石がカンカン石なのか分かりません。
石柱はまだ新しく、平成五年熊野文化連盟建之。
…と、こんな記載がありましたけど、本年2月に訪れましたこの方も、どれがカンカン石なのか分かりませんでしたようですネ。
もっと検索してみますと、福山市のホームページにこんな記載が(^_^)v
これは、福山市の「広報ふくやま」(1999年9月号)に掲載されたもののようですけど、「カンカン石」の石標の後方に��南無妙法蓮華経�≠ニ刻まれました法界碑が『カンカン石』でありました(^_^)v
・小石を投げると「かんかん」と鳴るのでついた名前のかんかん石。
・…熊野境で再び峠越えとなります。この峠に宝暦13年(1763年)の法界石があります。「かんかん石」として親しまれ、往来する人が安全を祈りました。
ふ〜ん、この法界碑は「サヌカイト安山岩」で創られましたのかも…
法界碑ですから、『かんかん』と鳴りますのか石を投げて確認します訳にもいきませんし、木片で叩いてもバチが当たりそうで(^-^;
とにかく、この法界碑が��カンカン石�≠ナあります事は確認出来ましたネ(^.-)☆
それでは、次に��本田彗星発見の地�≠ノ向かってみます事に致します(^-^)//"






■2026年09月20日01:45
9/16(水)は��カンカン石・本田彗星発見の地・福井八幡神社�≠フ散策でした(^.-)☆(02)
��カンカン石�≠ゥら��本田彗星発見の地�≠ワでは、こんなルートで向かいます。
距離にしまして2.3kmですから、5分程度で到着です。
今年の3月頃でしたか…たまたま、この逆ルートで水呑方面に向かっておりまして「本田彗星発見の地」の存在を知りました(^.-)☆
後日、また改めて訪れよう…と、水呑方面に走行続行。そして、我が家に帰りWEB上で��本田彗星発見の地�≠�検索しますと、こんな記事が…
◆福山市ゆかりの天文家たたえ石碑 生涯で彗星12個発見
--- 2024/11/30(最終更新:2024/11/30) 中国新聞デジタル ---
広島県福山市ゆかりの天文家を顕彰するグループ「黄道光(こうどうこう)の会」が、生涯で彗星(すいせい)12個を発見した本田実さん(1913〜90年)の偉業をたたえる石碑を設置した。30日、本田さんが勤めた同市瀬戸町の観測所跡で除幕式を開催。「彗星発見の地」を後世へ伝えていくことを誓った。
石碑は幅90センチ、奥行き15センチ、高さ130センチ。37年に建てられた施設の跡地を示す「国際天文同盟 瀬戸黄道光観測所跡」の文字を刻んだ。ことし1〜7月に寄付金を募り、市内外の46人から集まった101万円を活用。寄付者や情報提供などの協力者の名前を記した芳名板も設けた。
黄道光は日没後や日の出前に太陽の通り道(黄道)に淡い光が見える現象。同観測所の所員だった本田さんは戦前から戦後にかけ、彗星を5個発見した。倉敷天文台(岡山県倉敷市)や晩年に建てた岡山県吉備中央町の星尋山荘でも観測を続け、新星も11個見つけた。
除幕式には、同天文台や本田さんの出身地の鳥取県八頭町にある本田実記念館の関係者たち約20人が参加。同会の神谷和孝代表(85)は「福山に大きな足跡を残した人。多くの人に知ってもらいたい」と話した。
同会は昨年10月、観測所跡に本田さんの業績を伝える説明板も設置している。児玉英夫会長(77)は「本田さんの活躍は戦後の日本人に勇気を与えた。日本を彗星発見王国に導いた発祥の地を永く伝えたい」と意気込んでいた。(江川裕介)
…と、福山市ゆかりの天文家の偉業をたたえる石碑でありまして、半年経ましてヤッと再訪のGONsanです。
石碑近くには、こんな説明板がありました。
◆本田彗星発見の地
この丘は、本田實氏が、戦前戦後を通じて、5つもの彗星を発見し、日本を「彗星発見王国」に導いた記念すべき場所です。
・「国際天文同盟黄道光中央局」「瀬戸黄道光観測所」
日本で最高品質の畳表の「藺草」を育てていたこの瀬戸村に、1937年3月28日、気象観測所も備えた黄道光観測所が出来ました。土地は瀬戸村が提供し、建物は村民が勤労奉仕で建てました。黄道光は、日没後や日の出前に、太陽の帰り道(黄道)沿いに淡く見える光で、当時は天文現象か、地球の大気現象か、分かっていませんでした。(天文現象です)
・この地で、彗星発見!
京都大学の天文学教授で、「東亜天文学会」会長の山本一清博士が、荒木健児氏と本田實氏を観測隊員として送り込みました。本田氏は1913年2月26日、鳥取県八頭郡八東村生まれ。高等小学校卒業後、農業の傍ら、独学で天体観測をしていて、その熱意が山本博士に認められたのです。本田氏は、観測所の口径15センチ反射望遠鏡で、彗星発見にも努め、ついに、1940年10月4日、最初の彗星を発見しました。次いで、1941年1月21日にも二つ目の彗星を発見しました。彗星には、世界で最初に発見した人の名前が付けられます。
・地元、宮宗家の慧(さとる)さんと結婚
慧さんは、この丘の麓の、宮宗家出身で、「沼南実業学校」教諭時代、生徒を引率して観測所を見学するなど、本田氏と家族ぐるみの交流がありました。その後、慧さんは、「静岡県女子師範学校」の教諭をしていましたが、本田氏に召集令状が来ると、急遽帰省して、結婚しました。夫の實さんは、その2日後の1941年8月1日に出征しました。
・戦地でも彗星発見
本田氏は戦地でも、イギリス軍が残していったレンズを利用して、回帰彗星を独立発見し、そのニュースが、1942年6月の新聞に載り、妻は夫の無事を知ることが出来ました。
黄道光観測所は、戦時中は対空監視哨になったりしましたが、戦後取り崩されました。
・戦後、この地での彗星発見が、日本人に勇気を与えました。
本田氏は1946年6月29日に復員し、宮宗家に身を寄せていましたが、1947年11月14日、宮宗家裏庭の観測塔、新彗星を発見しました。その後も1948年6月3日には肉眼で、1948年12月6日にも新彗星を発見して、世界的に有名になりました。本田氏の快挙は、敗戦で自信を失っていた日本人に、大きな勇気を与えました。
・彗星発見世界一になる
1952年には、倉敷天文台の主事となって観測を続け、1968年8月31日には12個目の彗星を派遣して、世界一のコメットハンターになりました。また多くの後輩を育て、日本を「彗星発見王国」に導きました。
・新星発見も世界一
1981年からは、倉敷市街の光害を避けて、30キロ北の、岡山県賀陽町黒岩山頂に「星尋山荘」観測所を作り、1990年8月26日、77歳で亡くなる直前まで、倉敷から星尋山荘に1453回通って、彗星の他に11個もの新星を発見しました。これも世界一です。その観測所は、奥様が教員の退職金でプレゼントされたものでした。
・地球の水や生命の起源
彗星は近年、自動機械による発見が主流となりましたが、地球の水や生命の起源と考えられ、本田氏のこの地での業績は、日本が世界に誇る小惑星探査にもつながっています。
-- 福山市瀬戸町交流館、黄道光の会、アストロクラブふくやま、義倉 --
◆黄道光観測所アルバム
★昭和12年(1937年)2月9日付新聞記事
-- 黄道光観測所 福山市外と決まる 資金難から位置変更 --
一旦、尾道市外高須村に決定した京都帝大花山天文台の黄道光観測所は、地元負担の寄附が集まらぬため設置場所変更のやむなきに至り、倉敷市及び兵庫県赤穂郡大汐などが争奪戦を演じていたが、7日夜山本一清博士の観測テストにより、福山市外瀬戸村星見山高原に決定、地元瀬戸村及び福山市で直ちに観測所敷地5万坪と第一期建築工事費8千円寄附承諾、さらに第二期工費31万8千円に対しても15万円を地元で負担することを誓約、博士は8日帰洛した。地元では直ちに建築に着手し、月末までに第一期工事を終わるので、3月1日から観測を開始。これがため明年ストックホルムで開催の国際天文協会総会へ我が国から提出する黄道光観測資料の蒐集には何ら支障を来さぬ事になった。(福山発)
★昭和12年(1937年)3月2日付朝日新聞広島版記事
-- 黄道光観測所 厳かな地鎮祭 瀬戸村星見山頂にて --
黄道光観測に乗り出した沼隈郡瀬戸村の京大瀬戸臨時黄道光観測所では、荒木技師、本田助手が毎夜星見山頂上で肉眼観測を続けているが、昨今では午後7時40分から約1時間にわたって西の空にはっきりと描き出され、絶好のコンディションに恵まれ、懸命な調査を続けている。なお仮観測所設置に決定した地元瀬戸村では、1日午前11時から星見山頂上大塚村長はじめ村内有志、京大側荒木技師、本田助手、福山市より中野市長、瀧宮都市計画課長等参集、貫井草戸稲荷社掌斎主となって、厳かな仮観測所建設の地鎮祭を執行したが、同建物は約50坪平屋建て、15日迄に竣工、京大側より直に各種観測器具を設置し、山本博士も来所、本格的観測にかかるはずで、黄道光観測所本極りとともに瀬戸村では福山市と提携、天体研究のため来朝する外人の観測施設その他につき、早くも基礎的調査を始めている。
施主:黄道光の会(アマチュア天文クラブ・アストロクラブふくやま内)
協力:公益財団法人・倉敷天文台
鳥取県八頭郡八東町・本田實記念館
東亜天文学会
日本天文学会
一般財団法人・義倉
-- 令和8年(2026年)3月 --
…と、仲々興味深い説明板でありました(^_^)v
で、��本田彗星�≠フ事をもっと知りたい…と、WEB上に検索を続けますと、
◆本田彗星((C/1955 O1)
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
本田彗星(C/1955 O1)(ほんだすいせい、英語: C/1955 O1 Honda)は、1955年に日本のアマチュア天文家本田実が発見した非周期彗星である。同年8月18日に地球から0.272auまで接近した。本田は戦時中もシンガポールの駐屯地で望遠鏡を自作し彗星捜索を行う熱心なアマチュアであり、この彗星は発見した12個の彗星のうちの7個目である。
-- 観測史 --
・発見
本田は1955年7月29日3時45分に、口径12cm20倍双眼鏡を使用してオリオン座の中に拡散した8等級の像としてこの彗星を発見した。翌日7月30日に京都大学大学院理学研究科附属花山天文台の松井宗一・三谷哲康がこれを確認し、東京大学東京天文台(現在の国立天文台)の萩原雄祐よりコペンハーゲン天文電報中央局へ打電された。そして8月1日に国際天文学連合回報で発見が認められたことが公表された。
・その後の観測
8月前半は概ね6等級の明るさだったこの彗星は、8月24日になるとかろうじて肉眼で見えるようになった。9月には一時5等級まで明るくなったが、これは彗星から断片が分裂するなどでアウトバーストが起こったことによる増光と考えられている。
最後に報告された観測は同年11月20日に、マックス・ベイヤー(英語版)がヘルクレス座に13等級でいるところを捉えたものである。エリザベス・レーマーとハミルトン・ジェファーズ(英語版)が翌1956年の2月から3月にかけてリック天文台から再観測を試みたが、彗星を検出することができなかった。
・軌道
2022年に発表された研究では、この彗星の軌道の(50000)クワオアーとの最小交差距離が0.099auしかないことが算出されている。
◆本田 實(ほんだ みのる)
--- 1913年2月26日〜1990年8月26日 倉敷市名誉市民 旧八東町(鳥取県)名誉町民 ---
--- https://www.kuraten.jp/about_honda/ ---
本田實は生涯に新彗星12個・新星11個を発見し、「天体発見王」とも呼ばれた世界的アマチュア天文家です。長年「倉敷天文台」の天文台主事を務め、この倉敷の地を拠点に次々と彗星や新星を発見。倉敷、そして岡山県の名前を世界に轟かせました。彼の偉業は、現在も世界のコメットハンターや天文愛好家たちの間で語り継がれています。
本田實が星や天体観測に興味を持ったのは10歳ごろだと伝えられています。望遠鏡が欲しくてたまらなかった本田少年は、1年分のおこづかいを貯めて口径28ミリのレンズを購入。望遠鏡を自作し、星の観測をスタートしました。それから77歳で亡くなるまで、本田實は子どものような純粋さと超人的なパワー、誰にも負けない情熱で星を愛し続け、天体観測に生涯を捧げました。観測データの整理中に永眠した本田實は、満月の夜と雨の日を除いて観測を休むことはなかったそうです。
いっぽう、「社会福祉法人若竹の園」園長として多くの子どもと関わり、園児たちからは「星の王子様」と慕われていた本田實。この「倉敷天文台」でも子どもたちに「星を見る楽しさ」を教え、倉敷の天文学の発展と普及にも貢献しました。
さらに、書や詩歌をたしなんでいた本田實。星や宇宙に関する美しい詩歌を数多く遺しているほか、歌人の若山牧水が新見市哲西町で歌を詠んだ場所を実地調査して突き止めた逸話もあるほど、その探究心の強さや魅力的な生き様が、天文愛好家だけでなく多くの人々に影響を与えています。
◆本田 実
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
本田 實(ほんだ みのる、1913年2月26日 - 1990年8月26日)は、世界を代表する日本のアマチュア天文家。独学による天文観測で、生涯に彗星12個、新星11個を発見した。
鳥取県八頭郡八頭村(現・八頭町)出身。八東町名誉町民第1号。八東尋常高等小学校(現・八頭町立八東小学校)卒業。1976年日本天文学会神田茂記念賞受賞。1985年第19回吉川英治文化賞受賞。1987年フランス天文学会100周年記念賞受賞。
-- 生涯 --
本田は1923年ごろ(当時10歳)、生家の星空の美しさを意識し始め、ためた小遣いで口径28mmのシングルレンズと焦点距離25mmのラムスデン式接眼鏡を買った。32倍の屈折望遠鏡を自作して下弦の月を見たのが、望遠鏡による初めての天体観測となった(当時17歳)。対物レンズは桐の小箱に大切に保管され、「我ニ太陽ノ黒点ヲ 木星ノ四大衛星ヲ 土星ノ環ヲ 最初ニ見セテクレタレンズ 28ミリシングルレンズ」と表書きがされている。
1930年ごろ、東京天文台の神田茂著『彗星の話』を読んで、彗星発見を決意。1932年には金星のそばに彗星らしきものを発見し、京都大学の花山天文台に報告したが、「恐らくゴースト」と指摘するハガキが届いた。これを契機に、同天文台長・山本一清の指導を受け、日食や黄道光を観測した。黄道光観測所(当時・広島県福山市)時代の1940年に初の彗星発見となる岡林・本田彗星を発見。1941年から、岡山県倉敷市中央の全国初の民間天文台である倉敷天文台で活躍した。
戦争中も、戦地のマライ半島では星図もなかったが、星雲状の移動天体を捜索、「彗星発見か」と、シンガポールから東京天文台へと送られた。新彗星ではなかったものの、グリグ・スケレルプ周期彗星であることが判明し、「空に科学する兵士」と報じられ、内地の慧夫人に居場所を知らせることになった。
本田には「プレアデス星団(日本名・すばる)の星が27個見えた」との逸話があるが、1941年、従軍中の旧満州から滋賀県の田上天文台の山本一清に宛てたハガキにある「プレアデスを数えてみますと、實に27個の星を数えました」の記述により実証された。
倉敷の街が明るくなり、新天体発見が困難になったため、暗い空を求めて移動観測していたとき、賀陽町(現・吉備中央町)の地域の人のはからいで、1981年に私費で建設した観測所を「星尋山荘(せいじんさんそう)」と名付けた。星尋山荘で通算1453回目の観測を行った2日後の1990年8月26日、倉敷天文台内で死去。倉敷市名誉市民となった。
-- 業績 --
生涯で発見した天体の中には周期彗星として番号登録された45P 本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星や、1.7等級まで増光した新星はくちょう座V1500星、10年近くにわたる増光期間という特異な光度変化を示し新星と確定する以前は特異天体「本田・桑野天体」とも呼ばれたこぎつね座PU星などが含まれる。
小惑星の名前の中に、本田實((3904)本田)と慧(さとる)夫人((8485)慧)、そして星尋山荘((11442)星尋山荘)がある。
…と、本田 實さんに関します色んな記載がありましたけど、この場所でも観測しておられたとは感激ですよ\(^o^)/
ところで、この石碑建立のため協力されました��寄附者�≠フ方々のお名前を確認しておりますと、水呑町の方がお二人ばかり(^.-)☆
お二人とも、よく存知上げております方なんですけど、どんな経緯で寄附を…今度、お会いしましたら、どんなご関係なのかお尋ねしてみようかと(^-^)
『本田彗星発見の地』ですか…大変感激してしまいましたネ(^-^)//"















■2026年09月20日23:38
9/16(水)は��カンカン石・本田彗星発見の地・福井八幡神社�≠フ散策でした(^.-)☆(03)
��本田彗星発見の地�≠�後にしますと、中国新聞瀬戸販売所へと向かいます。
距離にして、2km少々ですから4分程度で到着です。そして、75歳以上の読者への「敬老の日ご愛読者感謝プレゼント��クリップ付きルーペ�=vを受け取りとなりました(^.-)☆
当初のご案内では、決して高価とは思えません��クリップ付きルーペ�≠�、GONsanのように遠方から訪れます読者に、申し訳ない…と言う気持ちが生じられましたのでしょうか(^-^)
��クリップ付きルーペ�≠ノ加えて、箱入りの『2LEDライト付きルーペ��みるみる�=xも貰えましたから、嬉しいのなんの\(^o^)/
いゃいゃ、LEDライト付きですから、これはイィですねぇ〜ラッキー、ラッキー(^_^)v
有難く戴き、お礼を言って退散すれば良かったのでしょうけど、せっかく瀬戸販売所までヤッて来ましたのですから、今回の件で要望を(^-^)
「次回、このような機会がありましたら、朝刊配達時に郵便受けに投入して貰うのはダメなんでしょうか?」とGONsan。
そぅしましたら、所長さんらしき方が、「��渡した�∞�受け取っていない�=cと言うようなトラブルが生じるから難しい…」と。
なら、「瀬戸販売所までヤッて来なくても、水呑販売所での受け取りとしたら…」とお願いしようとしましたけど、「人手不足で難しい…」と返って来そうで、口に出しますのは断念。お礼を言って退散となりました(^-^)//"






■2026年09月21日22:35
9/16(水)は��カンカン石・本田彗星発見の地・福井八幡神社�≠フ散策でした(^.-)☆(04)
次は、水呑への帰路の途中に存在します��福井八幡神社�≠ノ立ち寄りです。
中国新聞瀬戸販売所からは、距離にして1.2kmで所要時間は3〜4分。到着しますと、まずは、参道・鳥居の右側に存在します��忠魂碑�∞�戦役記念碑�∞�彰徳碑�≠�拝見です。
参道の石段を上がります前に、WEB上で少し予備知識を(^-^)
◆福井八幡神社
--- https://fukuihachiman.com/fukuihatimanjinjya/ ---
・福井八幡神社のご祈願
ご祈願とは、皆さまのお願い事が叶いますよう、神様と皆さまの仲をとりもつ神職が願いを神様にお伝えし、祈りを捧げる儀式のことです。古くより日本人は、妊娠や出産、七五三など人生の節目に、日ごろの感謝を神様に伝え、祈りを捧げてきました。ご祈願とは御神殿に昇殿し、神様に向き合いご神徳をいただく、より丁寧な参拝です。
福井八幡神社は、参拝者の皆さまが神様と向き合うご祈願を大切にしています。ご家族皆さまで御神殿へ昇殿いただき、玉串を奉りてご拝礼いただきます。ご祈願は厳かに執り行われ、神職が祝詞を奏上し、お一人お一人のお願い事を神様に丁寧にお伝えします。皆さまの願いが成就されますよう、福井八幡神社のご祈祷をお受けください。
・由緒
当神社は康和元年(1099年)宇佐神宮より分霊され長和の福井山に鎮座し奉る。当時は長和・草戸・佐波・水呑の四郷の総氏神にして、山名・毛利の國主時代には信仰浅からず社人12人、巫女8人、社領50貫の大社なりしに福島氏の至り社領全部を召上げられ社殿荒廃に帰す。明暦3年拝殿を再建、現今は長和、地頭分の氏神にして明治25年保存会を創設基金を造成せり、その後明治40年村社に指定され、昭和6年本殿幣殿拝殿を改築する。大祭は三体の神輿渡、御式後馬場にて流鏑馬が盛大に行われた。
・ご祭神
応神天皇 神功皇后 仲哀天皇
御祭神の応神天皇・仲哀天皇は、親子であり国の基礎を固めるため、大陸の進んだ技術(養蚕、紡績、織物、裁縫、鍛冶、造船など)や優れた大陸文化を輸入され、日本文化の興隆を図られた御神徳があり、国家鎮護の神、学問や農業、商工業の守護神として崇敬されてきました。
そして神功皇后は、応神天皇の母で、仲哀天皇の皇后です。記紀の新羅遠征説話の主人公として知られ、神託に従って三韓征伐を成し遂げました。
身ごもっているにもかかわらず新羅遠征を行い、降伏させたという伝説があることから、安産のご利益があるとされています。
また、息子を亡き者にしようと反乱を起こした王子に立ち向かい息子を守ったことから、子育てや子守りの神様として信仰されています。
◆福井八幡神社について
--- https://fukuihachiman.com/fukuihatimanjinjya/ ---
-- 子守りの、はちまんさま --
福井八幡神社に鎮まる「神功皇后」は、栄える美しさと、子を産む母の強さを象徴する女性神。安産・子育ての神として、家族を見守り続けてきました。我が子の安らかな誕生を願うとき、健やかな成長をよろこぶとき。折にふれて感謝を伝え、これからの幸せを祈りましょう。
永く確かに続きますように。
…と、こんな「福井八幡神社」でありますけど、こんな興味深い記述もありましたネ(^.-)☆
◆福井八幡神社
--- mixiユーザー 2011年12月01日 17:29 ---
--- https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1818324&id=17275628 ---
福井八幡神社 福山市瀬戸町長和に鎮座する。
創建は承和元年(834年)京都男山八幡宮(石清水八幡宮)より勧請し、長和庄福井に鎮座したとされる古社だ。古くは長和、草戸、佐波、水呑4村の氏神とし、社人が12名もいたとされる大社であった。
社殿は山名氏が再興し、毛利時代には足利義昭が再建し、現在の社殿は昭和六年に改築された。
以上が広島県神社誌に記されているが、承和元年(834年)に京都男山八幡宮(石清水八幡宮)より勧請したとあるのは間違いである。男山八幡宮は貞観二年(860年)清和天皇により宇佐から勧請し創建された神社だ。
恐らく山名氏が男山から勧請し再興したものだと思う。清和天皇により創建された男山八幡宮は清和源氏の守護神となり全国制覇をした。これがために戦国の武将達は、この武運にあやかろうと、こぞって男山から勧請し各地に八幡神社を建てていったのだ。
京都男山から勧請し建てられた八幡神社は、その土地の戦国武将の守護神と思って間違いない。ただ、武運にあやかることの出来なかった武将が多い…。境内には吉備津彦を祀った五社神社もある。昭和六年に再建された本殿は、福山藩の標準とされる三間社入母屋造で向拝付き銅板葺き屋根だ。平井隆夫氏が書かれた「おもしろふくやま史」に水呑八幡神社とこことの面白いやりとりが記されているので、水呑八幡神社で紹介しよう思う。
◆水呑八幡神社(みのみはちまんじんじゃ)
--- https://z80kamo.stars.ne.jp/161-minomi-hatiman/161-minomi-hatiman.html ---
所在地 広島県福山市水呑町西郷1794
この神社の縁起が面白い。創建は永禄十三年(1570年)8月とされるが永禄十三年は4月23日で元亀(げんき)へ改元している。それまでの水呑村は、瀬戸町長和に鎮座する福井八幡神社の氏子であったが、秋祭りで喧嘩が起こり水呑の若衆が福井八幡のご神体を奪って逃げたのだ。
福井八幡から峠を越えれば水呑村の洗谷だ。ご神体を取り戻すために追う長和衆も必死だ。
追いつかれそうになった水呑衆はご神体を隠した。騒ぎが落ち着いてからその場所へ水呑八幡神社を建てた。しかし水呑の中心地からは遠く、あまりに不便なために現在地へ遷座させたとある。
旧社地には石碑が建てられている。平井隆夫氏は「おもしろふくやま史」の中で、数村合同の神社では、力を付けた村は独自の神社を欲しがっていた。同じようなご神体の奪い合いが坪生庄新中八幡社でも起こり、水呑衆はそれを知っていて機会をうかがっていたのではないかと記されている。
奪われた新中八幡社と奪って創建された大門八幡神社、また訪ねてみたい。庄園が解体された時代のことである。祭神は応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、いわゆる八幡神だ。
本殿は三間社入母屋造、向拝付き銅板葺き屋根。拝殿は五間社入母屋で本瓦葺き、向唐破風向拝を持つ。現在の本殿は明治三十六年に再建されたものだ。
-- 備後の歴史を歩くコミュの水呑八幡神社より --
…と、��福井八幡神社�∞�水呑八幡神社�≠フ関係は、仲々興味深いものであります(^-^)/
それでは、社殿へと向かいます(^-^)//"







| ← 戻る Contentsに戻る トップページに戻る 進む → |