ふくやま美術館
2023/04/23(日) ステンドグラス展・近代美人画百花繚乱=E所蔵品展』鑑賞 <1/2>

 ■2023年05月13日22:20
 4/23(日)、場違いとは思いながらふくやま美術館″sきのGONsanでした(^.-)☆


 4/23(日)は、嫁さんに誘われてふくやま美術館″sきのGONsanなのでありました(^.-)☆
 こぅしたジャンルには、日頃から知識もありませんし、関心も薄いのではありますが、話しのネタに、GONsanの絵日記の話題になれば…と、イヤな顔もせず従う事となりました(^-^)
 嫁さんの目的は、ステンドグラス展=B
 ステンドグラス創作を嗜む方々の作品がズラッと並んでおりまして、「凄いなぁ〜キレイだなぁ〜」と眼を奪われます。
 プロの方々の作品ではありませんから、写真は撮ってもイィものと思いましたら不可≠ナすから、チト残念。鑑賞のみとなりました(^-^)
 ステンドグラス展≠見終えますと、丁度、近代美人画 百花繚乱≠フ特別展が開催中でしたから、こちらの方も…
 近年は、こぅした美術館等では「高齢者無料」のケースが増えていますので、念のため受付で確認しますと、近代美人画 百花繚乱∞ふくやま美術館所蔵品展∞ふくやま書道美術館∞駐車料金≠ェ無料との事ですから、それぞれ無料の入場チケットを手に、順番に鑑賞して廻ります事に(^_^)v
 まず、近代美人画 百花繚乱%チ別展から鑑賞です。


 ◆特別展「近代美人画 百花繚乱 −松園、清方、深水、夢二− 培広庵コレクションを中心に」

 「美人画」は近代日本画において主要なジャンルの一つです。その前身となる江戸時代の浮世絵では、「役者絵」や「風景画」とともに「美人画」が爆発的な人気を誇りました。花魁や芸妓等のブロマイド的な用途となった浮世絵美人画は、近代へと時代が移行するに従って廃れていき、絵葉書や写真が入れ替わってその役割を果たしました。一方明治期以降、欧米化が進む近代日本画壇においても、人物は重要なモチーフであり、中でも女性美という万人の感じる美しさを表現した「美人画」は、大正期から昭和初期に最も輝きを放ちました。

 培広庵コレクションはまさにこの黄金期の優品を集めたもので、「美人画」といえばまず名前のあがる上村松園、鏑木清方、伊東深水、竹久夢二をはじめ、先駆的な役割を果たした渡辺省亭や幸野楳嶺、特異な画風の島成園や北野恒冨、岡本神草など、まさに百花繚乱とうたわれるべき魅力に満ちています。

 また特別出品として、近隣の美術館収蔵品からも数点加え、これまでの培広庵コレクション展とは少し違ったニュアンスを加味し、「美人画」の魅力を堪能できる内容としています。当館では1995年に開催した福冨太郎コレクションによる「明治・大正・昭和 近代美人画名作展」からおよそ28年ぶりの「美人画」展となります。選りすぐりの約90点により、華麗で優美な世界をお楽しみいただきます。


 福山市のホームページには、こんな記載がありましたけど、ふん、ふん、「特別出品として、近隣の美術館収蔵品からも数点加え、これまでの培広庵コレクション展とは少し違ったニュアンスを加味」していますから『特別展』と言う訳ですねぇ(^.-)☆
 竹久夢二の作品の展示もありましたけど、岡山に暮らしていました時ですから、もぅ20数年昔となりますけど、夢二生家記念館∞夢二郷土美術館≠ノは何度か出掛けていますから、妙に懐かしさが(^-^)
 とにかく、入場し鑑賞です。勿論、写真撮影は不可ですが(^-^)
 近代美人画 百花繚乱%チ別展の話題は、後日、4/25の中国新聞朝刊紙上に記事掲載がありましたネ(^-^)//"

 近代美人画 百花繚乱%チ別展の鑑賞を終えますと、次はふくやま美術館所蔵品展≠フ鑑賞です。
 作品の一部は写真撮影OK≠ナすから、これは嬉しいですねぇ〜作品をジックリと鑑賞と言いますよりも、とりあえず画像に納めますのが優先となりましたGONsanなのであります(^-^)//"

 う〜ん、残念。白滝幾之助《anの説明文がピンボケで読めない(^-^;
 で、WEB上で検索しますと、こんな方でありました(^.-)☆

 ◆白滝 幾之助(しらたき いくのすけ)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年(明治6年)3月17日-1960年(昭和35年)11月25日)は、兵庫県出身の日本の洋画家。作風は写実的作品を発表し続けた。

 ・来歴

 1873年(明治6年)3月17日、兵庫県但馬国に生まれる。幼少時に父を亡くし、女手一つで育てられた。
 1890年(明治23年)、17歳時に鉱山技師を目指して上京、築地の工手学校に入学。1894年(明治27年)、第4回内国勧業博覧会にて「待ち遠し」が入選。褒状を受け有栖川官家に買い上げ。1896年(明治29年)、下宿先で同居していた同郷の和田三造に誘われて山本芳翠の生巧館画塾に入る。後に生巧館画塾が黒田清輝に譲られ、天心道場となった後は黒田清輝に師事。同年東京美術学校西洋画科に入学。1897年(明治31年)、東京美術学校卒業。同年白馬会展に「稽古」を出品。この出品作は国民新聞に掲載された。
 1903年(明治36年)、学習院女子部の築地水交社発卯園遊会で発表される公演の背景画として山本芳翠が下岡蓮杖に依頼した依頼画の制作に幾之助も参加した。この依頼は依頼主である山本芳翠、下岡蓮杖のほか和田三造、北蓮蔵、玉置金司、湯浅一郎などが手伝った。
 1905年(明治38年)、絵画勉学のためアメリカ合衆国に渡り、更にその後イギリスのロンドン、フランスのパリを巡る。留学中に肖像画に興味を覚え、後の作風に反映された。イギリス在留中の1908年(明治41年)に三井物産ロンドン支店長、三井財閥・室町三井家第11代当主の三井高精と知り合う。2人の交流は長く続き、高精が現役を退いて隠居した後、大正末期頃から蒐集を始め、1940年(昭和15年)11月21日より麹町の自宅敷地内で一般公開した日本人・外国人画家の作品約200点を集めた洋画コレクションである三井コレクションを完成させる際にも白滝が協力している。
 1911年(明治44年)帰国。同年第5回文展に出品した「老人肖像」「裁縫」の2点が褒状を得る。
 1913年(大正2年)、日本水彩画会創立に際し発起者37名に名を連ねる。
 1920年(大正9年)、第2回帝展に「芍薬」「コンデル博士の像」を出品。この年より帝展審査員をしばしば務めるようになり、以後出品作品が無監査となる。
 1936年(昭和11年)4月、明治神宮外苑聖徳記念絵画館に奉納された日本画・洋画80枚のうちの一点として「ポーツマス講和談判」を奉納。
 1952年(昭和27年)、「洋画界に尽くした業績」に対し日本芸術院賞恩賜賞。
 1960年(昭和35年)11月25日、脳軟化症のため東京都大田区の自宅で死去。

 ・ふくやま美術館 白瀧幾之助 日本洋画 所蔵一覧

 『チューリップ』1905-10 (M38-43)頃、『帽子の婦人』1905-10 (M38-43)頃、『婦人像T』1908-9 (M41-42)頃、『婦人像U』1908-9 (M41-42)頃、『室内』1908-9 (M41-42)頃


 …と、こんな洋画家でありました(^.-)☆

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