2022/01/18(火) 笠岡市関戸「関戸廃寺跡・関戸八幡神社」散策(^.-)☆ <1/2> |
■2022年01月27日12:13
1/18(火)は、笠岡市関戸「関戸廃寺跡・八幡神社」を散策でした(^.-)☆
もぅ数年前の事となりますけど、笠岡市関戸辺りを車で走行中に、「関戸廃寺跡」の案内板を見掛けた事がありまして、いつの日か機会があれば、出掛けてみようか…との想いがありました。
で、1/18(火)は、運動も兼ねまして、急に思い出したように出掛ける事となりました(^.-)☆
いつものように、Googleマップ上でマップコードを確認し、これをナビに入力し、これまたいつものように走行ルートはナビ任せ(^.-)☆
関戸廃寺跡には、我が家を出まして50分程度で到着です。
廃寺跡ですから、『塔の心礎』以外に特に何にもありませんけど、こんな説明板がありました。
◆岡山県指定史跡 関戸廃寺跡
7世紀後半、笠岡市内で初めて建立された本格的な寺院が関戸廃寺である。建立にあたっては、柱の基礎に大きな礎石をすえ、屋根を瓦で葺くなど、当時の新技術が導入された。現在では発掘調査の結果、おおまかな伽藍配置が明らかになっている。
この説明板の裏側に大きな石が露出しているが、それが塔の心礎である。心礎は塔の中心に有り、直径約95mの心柱を支えていた。
塔の北側には金堂(本尊をまつる中心的な建物)があった。東の一段高い所にも大きな礎石建物(講堂か)があり、寺院の西側には境界の築地塀があった。築地塀の外側には、当時の南北往来が通っていた。
寺院の敷地は、南北、東西とも、最大で約130m。航空写真を見ると、現在でも水田のあぜ道が一直線にそろっているが、これは当時の区画の名残である。
出土遺物から、この寺院は白鳳時代の7世紀後半に建立され、おおよそ400年の間存続したが、平安時代の11世紀に主要な建物が焼失し、やがて、廃絶したことがうかがえる。
--- 昭和38年8月1日指定 笠岡市教育委員会 ---
WEB上で検索しましたら、こんな記載もありました。
◆関戸廃寺跡
---出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
戸廃寺跡(せきどはいじあと)は、岡山県笠岡市関戸にある古代寺院跡。塔跡は岡山県指定史跡に指定されている(指定名称は「関戸の廃寺跡」)。
・歴史
-- 古代 --
創建は不詳。発掘調査によれば、白鳳期の7世紀後半頃の創建と推定される。笠岡市内では最古の本格的寺院であり、造営氏族としては笠臣(笠氏)や小田臣(小田氏)とする説が挙げられている。一帯の小田郡甲努郷は、古墳時代の5世紀末頃に長福寺裏山古墳群の営造が停止したのち、6世紀以降は小池古墳など笠岡市内で最も古墳が集中して築造される地域であり、甲努郷・出部郷で盛んな鉄生産を掌握して畿内勢力と結びついたことで関戸廃寺の建立に至ったと推測される。
奈良時代の8世紀後半頃には伽藍が改修されており、備中国分寺との瓦の同笵関係から、同寺ひいては備中国府との密接な関係がうかがわれる。その後、平安時代の12世紀頃には廃絶したと推測される。
-- 近代以降 --
近代以降の変遷は次の通り。
1958年 (昭和33年)、笠岡市指定史跡に指定。
1962年 (昭和37年)12月、塔跡の発掘調査(鎌木義昌・間壁忠彦・間壁葭子ら、1965年に概報刊行)。
1963年(昭和38年)8月1日、塔基壇周辺が「関戸の廃寺跡」の名称で岡山県指定史跡に指定。
1994-1995年度(平成6-8年度)、伽藍配置確認調査(笠岡市教育委員会、1997年に報告書刊行)。
寺域は南東側が欠けた五角形で、東西約130メートル・南北約130メートルを測る。西側は築地塀による区画が確認され、築地の外側には南北道が検出されている。主要伽藍として、塔・金堂が南から配され、東に講堂が配される。遺構の詳細は次の通り。
・金堂 -- 本尊を祀る建物。寺域西寄りに位置する。基壇は東西17.3メートル・南北16.55メートルを測る。基壇化粧として基壇端に平瓦が立て並べられる。
・塔 -- 釈迦の遺骨(舎利)を納めた塔。寺域西寄り、金堂の南側に位置し、金堂に次いで建立されている。基壇は一辺約12メートルを測る。基壇化粧は石積基壇。塔心礎の周囲に焼痕が認められることから、火災で焼失したと推測される。
・講堂 -- 経典の講義・教説などを行う建物。寺域東寄り、塔の東側で東西6間以上・南北4間の大型建物が検出されたことから、講堂跡と推定される。建物は数回の建て替えが認められる。礎石の石材は流紋岩。
金堂・塔の周囲には回廊が巡らされたと推測されるが、発掘調査では明確な遺構としては検出されていない。また門についても未だ検出には至っていない。
寺域からの出土品としては、多量の瓦がある。奈良時代の軒丸瓦・軒平瓦は、備中国分寺(総社市)と同笵になる。出土品の様相によれば、創建期は白鳳期の7世紀後半頃で、奈良時代の8世紀後半頃に改修され、平安時代の12世紀頃に廃絶したと推定される。
◆県指定 史跡 関戸の廃寺跡(せきどのはいじあと)
--- https://www.city.kasaoka.okayama.jp/soshiki/39/2457.html ---
所在地:笠岡市関戸字唐臼/所有者:笠岡市
指定年月日:昭和38年8月1日
関戸には、笠岡で最初に建てられた大きな寺院の跡がある。
この寺は飛鳥時代(7世紀後半)にはじまり、平安時代(11世紀)に焼失したらしい。今では大部分が水田となっているが、発掘調査の結果、金堂や塔の跡などが確認され、おおよその伽藍配置が明らかになった。また、土器や鉄釘のほか、おびただしい量の瓦が出土している。
現在廃寺跡を訪れると、露出している巨大な礎石が目に付くが、これは塔の中央にある柱の礎石である。寺院であった頃の敷地の区画が、今でも水田の畦の形に反映されているところが興味深い。
主な出土品は、笠岡市立郷土館に展示されている。
◆関戸の廃寺跡(せきどのはいじあと)
飛鳥時代に創建された寺院の跡です。今では大部分が水田となっていますが、発掘調査の結果、金堂や塔の跡などが確認され、おおよその伽藍配置が明らかになりました。また、出土した瓦から7世紀後半に金堂、次に塔が建立されたと考えられます。建物の瓦溜まりに混じって出土した土器から、平安時代の11世紀に主要な建物が失われたことがうかがえます。
現在廃寺跡を訪れると、露出している巨大な礎石が目に付くが、これは塔の中央にある柱の礎石です。また、寺院であった頃の敷地の区画が、今でも水田の畦の形に反映されているのは興味深いものです。
主な出土品は、笠岡市立郷土館に展示されています。
…と、こんな「岡山県指定史跡 関戸廃寺跡」であります(^-^)//"
白鳳時代(7世紀後半)創建の古代寺院で、奈良時代、平安時代にも修理がなされたが、平安時代の終わりに廃絶。1辺130mの方形の敷地をもち、塔、金堂、講堂、回廊などが配置されていたことが明らかになっている。塔の心礎は長さ2.6mの巨
石で、ここに直径1mの柱が据えられようですネ。
白鳳期軒丸瓦、白鳳期鬼瓦、奈良時代軒丸瓦・軒平瓦、奈良時代鬼瓦等、各時期の瓦のほか、塔の相輪、風招などの破片も出土していますようです。
それでは、「関戸廃寺跡」とはお別れですけど、スグ近くに八幡神社が存在しますので、チョッと立ち寄り、お詣りして退散したいと思います(^-^)//"
ふ〜ん、結構、立派な神社であります。鳥居には「八幡神社」と記載ですから、「関戸八幡神社」とでも呼びましょうか(^-^)
関戸廃寺跡、関戸八幡神社点等の存在から、関戸は昔から人も多く繁栄しています地でしたのかも…
それにしましても、「八幡神社」は全国各地に存在しますけど、何故なのでしょうねぇ〜素朴な疑問が湧いてしまいます。WEB上で「日本全国に八幡神社が多い訳は?」と検索してみますと、ふん、ふん、こぅした問題に関する記載がありましたネ(^.-)☆
◆「八幡神社」はダントツに多い神社系統。最強11神社はこれ
--- https://www.gentosha.jp/article/20189/ ---
「八幡さん」や「八幡様」などと親しみを込めて呼ばれる“八幡信仰”にかかわる神社は、町を歩けばいたるところに鎮座していることに気づきます。実際、日本全国約8万社の神社の中でも、その数は圧倒的。次に続くのが“伊勢信仰”の神社だそう。そして次に続くのは…日本の「最強11神社」の歴史や特徴を解説した『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』(島田裕巳著、幻冬舎新書)から、信仰の広がりが見える順位をご紹介します。
そうした問題はさておき、神社の総元締めである神社本庁が、その傘下にある7万9,355社の神社を対象に、平成2(1990)年から7年にかけて行った「全国神社祭祀祭礼さいしさいれい総合調査」によると、神社としてもっとも多いのは八幡信仰にかかわる神社だとされている。これは八幡神社や八幡宮、若宮神社と呼ばれるものだが、その数は7,817社だった。以下、信仰別に次のようになる。( )内はそれぞれの信仰にかかわる神社の主な呼び方である。
2位:伊勢信仰 4,425社(神明社しんめいしや、神明宮しんめいぐう、皇大こうたい神社、伊勢神宮など)
3位:天神信仰 3,953社(天満宮てんまんぐう、天神社、北野神社など)
4位:稲荷信仰 2,970社(稲荷神社、宇賀うが神社、稲荷社など)
5位:熊野信仰 2,693社(熊野神社、王子神社、十二所じゆうにしよ神社、若一王子にやくにちおうじ神社など)
6位:諏訪すわ信仰 2,616社(諏訪神社、諏訪社、南方みなみかた神社など)
7位:祇園信仰 2,299社(八坂やさか神社、須賀すが神社、八雲やくも神社、津島神社、須佐すさ神社など)
8位:白山はくさん信仰 1,893社(白山神社、白山社、白山比唐オらやまひめ神社、白山姫神社など)
9位:日吉信仰 1,724社(日吉ひよし神社、日枝ひえ神社、山王社など)
10位:山神信仰 1,571社(山神社など)
さらにこの後には、春日信仰、三島・大山祇おおやまぐみ信仰、鹿島かしま信仰、金毘羅こんぴら信仰と続いていく。
この調査で対象になった神社の数は、7万9,355社のうち祭神が明確に判明した4万9,084社で、現存する神社全体が含まれているわけではないが、それにしても、八幡信仰の7,817社はダントツである。2位の伊勢信仰とはかなりの差があり、これだけを見ても、八幡信仰がいかに広がっているかが分かる。
実際、周囲を見回してみると、いたるところに八幡神社や八幡宮が鎮座していることに気づく。私は世田谷区の経堂きようどうに住んでいるが、地元の氏神は世田谷八幡宮である。経堂から小田急線で新宿へ向かう途中の下北沢駅近くには北澤八幡神社があり、代々木八幡よよぎはちまん駅には小説家の平岩弓枝氏の夫君が神主をつとめてきた代々木八幡宮がある。経堂の駅の北、京王線に向かうと勝利しようり八幡神社があるし、京王線には八幡神社にちなむ八幡山という場所もある。
八幡神社として著名なものとしては、鎌倉の鶴岡八幡宮、京都の石清水いわしみず八幡宮、博多の筥崎宮はこざきぐう、大分の宇佐神宮うさじんぐうなどが挙げられる。ほかにも、富岡八幡宮、手向山たむけやま八幡宮、鹿児島神宮などがよく知られている。
地元にある八幡神社や八幡宮は、親しみをこめて「八幡さん」とか「八幡様」と呼ばれることが多い。ほかの神社の場合にも、「天神様」や「住吉さん」、「お稲荷さん」のように、同様に親しみをこめて呼ばれるところもあるが、八幡の場合がいちばん、そうしたことが起こりやすいのではないだろうか。それだけ、八幡信仰は庶民の間に広がっている。
-- 以下、省略 --
要するに、島田裕巳著『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』の書籍を購入して読んで下さい…と言う事のようでありました(^.-)☆
そんな事はさて置きまして、散策を兼ねて「関戸八幡神社」に参拝です(^-^)//"
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