2022/08/26(金) 福山市草戸町「草戸山城跡」散策 <7/9>

 

 

 

 

 

 このキノコの付着した樹木を通過し少し進みますと、う〜ん、「←番神社 ?半坂 草戸山神社→」の案内標識まで戻って来ました(^.-)☆
 往路では、この標識で右折しなくてはなりませんでしたけど、何故か、画像に納めただけで「草戸山城跡」を見落としてしまいました(^-^;
 それでは、草戸山城跡に向かいます。
 標識から西に向かいますと、またスグに「草戸山城跡→」の標識です。この道は、結構、蜘蛛の巣が張っていますから、掻き分け掻き分け前進です(^-^;
 そして、程なく、「草戸山城本丸跡」にと到着となりました(^.-)☆
 本丸跡には案内板と、朽ちて地面に倒れました表示板が(^-^)
 案内板には、こんな記載がありました。

 
◆草戸・川西歴史街道 散策路 <21>草戸山城本丸跡

 --- 草戸の歴史を愛する会 ---

 中世、このあたりに勢力を持った渡辺氏の山城と考えられる。応仁の乱で東軍は西軍が構えた草戸の山城を追い落とし、鞆の浦に進出したという下記の記録がある。
 「十六日備後の坪生という所まで出陣し、草戸に押し寄せ、敵城を攻め落とし、二十二日鞆浦に陣を移した。近所の敵陣は全て一両日中に攻め落とすつもりである」
 (文明三年(1471年)四月二六日付備後守護山名是豊書状の要旨)

 左の地形図は田口義之氏作成で図中左にある曲輪(くるわ)、切岸などの場所が草戸山城本丸跡と考えられる。

 
--- 2013年10月 この事業は、福山市協働のまちづくり募金を活用して実施しています ---

 

 

 

 草戸山城本丸跡を見廻しながら、WEB上で「草戸山城跡」を検索してみますと、こんな記載が…

 ◆草戸山城にゆく 其の四:草戸山城本丸跡

 --- 2015/02/09 18:00 http://19760725.blog.fc2.com/blog-entry-26.html ---

 戻ってから調べたのですが、この一帯は、最近調査が行われ、城跡だということが判明したそうです。
 山頂部に径20メートルで楕円形の曲輪が残るほか、20メートル北に下った地点に井戸跡2ヵ所、更に数段の曲輪が確認できるようです。
 草戸山城は、室町時代後期に地元の土豪・渡辺氏によって築かれたと推定されており、すぐ近くには、初代鞆奉行・荻野新右衛門重公の墓、やや南の小山に草戸中山城跡も存在するとのこと。
 ただ崖を下っていくことになりそうなので、訪れるのは難しいような気がするのですが…機会があれば調べてみようと思います。

 ◆草戸山城跡について(福山市草戸町松茸山)
 備陽史探訪の会 2012年4月1日 草戸山城跡について(福山市草戸町松茸山)管理人中世史 「備陽史探訪:165号」より 田口 義之


 --- https://bingo-history.net/archives/12590 ---

 ここのところ縁があって、草戸町の声田川西岸「川西地区」を足繁く訪れている。地元有志の方で「草戸川西街道」という地域史再発掘のグループが立ち上がり、指導に招かれたためだ。そんな中で、問題となったのは「中山城跡」の所在地である。
 県の報告書では、草戸山南端の小さな丘が城跡の所在地となっており、簡単な縄張り図が紹介されている。ところが、この城跡に関しては異論もあった。それより小さな峠を挟んで北の山にも「曲輪」の跡らしき平坦地が存在し、更に半坂の今は土砂採取で取り崩された、近藤氏の居城とされた城跡がそれだとする説もあった。私も以前、松永の郷土史家藤井高一郎氏と踏査した際に、草戸山から東南に伸びた尾根に、曲輪跡が連続に連なるのを見た記憶があった。
 そこで、昨年十一月半ば、尾根を縦走して城跡を確認することとなった。すると、登りはじめて30分ぐらい経った辺りから、曲輪状の平坦地が見え始めた。さらに、十二月一五日、改めて確認のために登ってみると、草戸山山頂の通称「松茸山」から南に三百メートルほど下りたところに、山城の遺構を確認することができた。そこは標高百四メートルの小さな山頂で、径二〇メートルの楕円形の曲輪跡が残り、周囲に明確な「切岸」が確認できた。更にそこから北に二〇メートル下りたところに井戸跡と、数段の曲輪跡が残っている。これはもう中世の山城跡に間違いない。
 問題は、この新たに確認された山城跡が「中山城」の遺跡かどうかである。調べてみると、中山城の名が登場するのは大正末期の『沼隈郡誌』らしい。それより古い『備陽六郡志』や『福山志料』は草戸村の古城跡として「鷹取城」(これは平城だ)を書き上げているのみで、山城跡については『西備名区』に「草戸山城」と「半坂山城」の記載があるのみであった。半坂山城は既に破壊された近藤氏の城跡だから、残る「草戸山城」が今回確認された城跡ということになる。
 思うに、明王院裏山の草戸山に築かれた山城は、今まで中山城とされていた南端の城跡を含めて、一つの城とした方が良いのではなかろうか。その場合、今回確認された城跡はその本城と見て差し支えない。草戸山城跡として紹介する所以である。現在、この城跡は看板や遊歩道の設置など、地元の皆さんの手で整備が進められている。是非、一度訪ねてもらいたい。

 …と、こんな記載でありました。
 それでは、この辺で、「草戸山城本丸跡」を後にします事に(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 来た道を戻り、明王台団地の住宅地まで出て来ましたので、次は「草戸山展望台兼配水池(貯水タンク)」に上がってみます事に。
 後方を振り返りますと、芦田川の河口堰・芦田川大橋・小水呑橋が…そして、付近には傘の形をした屋根下にベンチが設けられ、チョッとした休憩場所が…随分前には、ここからも180度の眺望が可能でしたけど、今では樹木が成長し取り囲まれ、180度の眺望はご覧の通り不能です(^-^)
 それでは、草戸山展望台にと向かいます(^-^)//"

 

 

 

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