2022/08/26(金) 福山市草戸町「草戸山城跡」散策 <1/9> |
■2022年09月18日23:30
8/26(金)の午前中は、草戸山城跡を散策でした(^.-)☆
8/26(金)の午前中は、ウォーキングを兼ねまして「草戸山城跡」を散策となりました(^.-)☆
「草戸山城跡」を訪れますのでしたら、車で草戸山公園駐車場まで上がり、そこから歩きますとスグなのですけど、久し振りに明王院からノンビリと上がってみます事に(^-^)/
明王院入り口には、こんな案内板が…
◆草戸・川西歴史街道 散策路K明王院の石垣
明王院下屋敷の石垣に、珍しい形の石が見られる。扇形、丸(杯または月)、瓢箪(瓢箪)の形をしている。この石垣が出来た時期は不明だが、石工が同じではないかと思える扇形の石垣が荒谷街道の民家の石垣にみられる。(写真1)。荒谷街道は北は岩見に通じ、南は草戸の明王院を通り鞆に通じる街道である。この街道は江戸時代には存在していたのは明らかで、したがって、明王院下の石垣も同年代と思える。何故こういう石が積まれたかは不明であるが、石工の心意気ではないかと言われている。
備後地区にある類似の積み石に一宮さん(備後国吉備津神社)がある。(写真2)
この一宮さんは備中国一宮の吉備津神社より分祀されたもので、桃太郎にゆかりのある桃の形をした積石などが見られ、大正時代に構築された。
--- 2013年10月 この事業は、福山市協働のまちづくり基金を活用して実施しています ---
他には、「草戸千軒町遺跡について」の案内板も…
WEB上で『草戸千軒町遺跡』を検索してみますと、色んな記載がありますネ。
◆草戸千軒町遺跡
--- https://tabi-mag.jp/hm0172/ ---
広島県福山市を流れる芦田川(あしだがわ)河口付近の中州とその周辺に位置する中世に繁栄した遺跡が草戸千軒町遺跡。鎌倉時代から室町時代にかけて、付近の三角州で栄えた集落が草戸千軒町で、その存在は長らく幻といわれていました。草戸千軒町は瀬戸内海の交易で繁栄し、明王院の本堂や五重塔の建築にもその財力が関係しています。
・町の誕生、消滅の理由は未だ謎!
江戸時代中期に福山藩士が編纂した『備陽六郡志』には、寛文13年(1673年)の洪水で滅びた町として草戸千軒は記述されていましたが、草戸千軒町に関して具体的な情報は皆無。
その存在が明らかになったのは、大正末から昭和初期で、芦田川の河川工事により、五輪塔などとともに陶磁器や古銭などが多数出土したことによります。
本格的な発掘調査が実施されたのは、昭和36年からで、中世の瀬戸内海に栄えた湊が実際にこの地にあったことが判明したのです。
遺跡からの出土品2,930点は、広島県草戸千軒町遺跡出土品として国の重要文化財に。
瀬戸・美濃焼、常滑焼、唐津焼、伊万里焼など国産の陶器・陶磁器などの他、中国産、ベトナム産、朝鮮産の陶磁器も数多く出土し、中国産磁器は17世紀前半(1620〜1640年代)のもの。
草戸千軒町遺跡は、現在では川中にあるので、法音寺橋橋上より見学するのが無難。
詳細は、広島県立歴史博物館の草戸千軒展示室「よみがえる草戸千軒」に行くことが賢明です。
「草戸千軒」のを町並みを実物大で復原して、室町時代の初夏の夕暮れを再現。
さらに遺跡から出土した「重要文化財広島県草戸千軒町遺跡出土品」を用途別に展示しています。
ちなみに、『備陽六郡志』には洪水で滅びた町として記述されていますが(「其後寛文十三年癸丑洪水の節、下知而、青木かはなの向なる土手を切けれは、忽、水押入、千軒の町家ともに押流しぬ。此時より山下に民家を建並、中嶋には家一軒もなし」)、発掘調査の成果から、草戸千軒が町として機能した最終段階は室町時代の16世紀初頭であることが判明しています。
洪水で埋まったような痕跡も発見されていないので、消滅の理由は未だに謎のままなのです。
◆草戸千軒町
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
草戸千軒町(くさどせんげんちょう)は、現在の広島県福山市にあった、鎌倉時代から室町時代にかけておよそ300年間存在した都市(大規模集落)である。
瀬戸内海の芦田川河口の港町として栄えた。遺跡の発掘調査から、時期によって町の規模は変遷しているが草戸千軒町は近隣にあった長和荘などの荘園や地頭、杉原氏や備後国人で一帯の領主であった渡辺氏の保護の元、他の地方との物流の交流拠点として繁栄しており、数多くの商工業者がいたと見られ、遠くは朝鮮半島や中国大陸とも交易していたとみられている。また近くには現在も存在する草戸稲荷神社と明王院があり、その門前町としても繁栄していたものとみられている。
・草戸千軒町遺跡
江戸時代初期の備後福山藩 水野家の入封時に流路改修が行われるまで芦田川は、今では廃川となった旧鷹取川方面や現在の福山駅前方面へ流れる流路が本流であり、当地は土砂が堆積した中州地帯の上にできた。
今日の光景からは想像しがたいが、江戸期の大規模な干拓事業が行われるまでは、今の野上町付近より南東は瀬戸内海に直接面していた。昭和時代後期(20世紀末)まで草戸千軒町の遺跡は芦田川と旧鷹取川が分かれる中州付近にあったが、遺跡の大部分が、昭和初期に国により行われた芦田川の洪水対策工事のために拡張・浚渫工事で取り除かれた。また推定であるが、芦田川東岸の河川敷にも遺跡が存在する可能性があり事実、草戸町1丁目付近の古道沿いの水路などにその痕跡が残る。
遺跡からの出土遺物は広島県立歴史博物館で保存・展示されていて、国の重要文化財に指定されていて、同博物館には往時の草戸千軒町の町並が実物大のジオラマで一部再現されている。なお、往時には瀬戸川河口に広がる沖積地に町があり、東方には福山湾が広がっており交通の要所にあったことから発展したと見られている。
また、遺跡からは多くの栽培植物も出土している他、4千点にものぼる大量の「中世木簡」(室町期)が出土しており、1982年には正式報告書『草戸千軒 木簡一』として紹介されている。
・草戸千軒町の発掘
「草戸千軒」の名は、江戸時代の中頃(元文から安永年間)に備後福山藩士・宮原直?によって書かれた地誌『備陽六郡志』の中に、「草戸千軒という町があったが、寛文13年(1673年)の洪水で滅びた」という伝承が記載されていたことから付けられたもので、町についての様子は書かれていなかったため、想像上の幻の町といわれていた。
昭和時代に入った1930年前後の河川工事によって、遺物が出土しようやく存在が確認され、戦後になって1961年から約30年間にわたり断続的に行われた大規模な発掘調査で全容が判明した。
長年埋もれた後に昭和時代になって発掘されたことから「東洋のポンペイ」ないし「日本のポンペイ」といった呼ばれ方をされているが、最盛期に埋没したポンペイとは違い、洪水で完全に川の底に埋まった時期には、既に町としては廃絶に近い状態であったとみられている。これは鎌倉・戦国期には度重なる戦乱の舞台となったことで、荒廃し福山城が築かれた頃に行われた芦田川の改修事業により洪水対策の流路として改築されたのもあり、江戸時代には既に無人であったろうと想像される。
明王院入り口には、「明王院縁起」の説明板が…これらは、こんな記載がありました。
◆明王院縁起
明王院は大同二年(807年)弘法大師の開基と伝えられている。
古来当寺は観音応現の霊場として信仰された。
平安時代より江戸時代に至るまで、この寺の山下には、門前町として繁栄した草戸千軒という港町があり、遠くは朝鮮、中国、南方諸国とも貿易した。
江戸時代初期までは、西光山理智院常福寺と称した。
本堂(観音堂)は鎌倉時代末、元応三年(1321年)の建立で、和様を主とした折衷様式の現存中最古級の建物である。
昭和三十九年国宝に指定された。
五重塔は南北朝時代の貞和四年(1348年)の建立で、純和様である。
現存五重塔中五番目に古い貴重な塔である。昭和二十八年国宝に指定された。
その他、山門、庫裡、書院、護摩堂、鐘楼、五輪塔、七重石塔寺の文化財指定物件がある。
庭園は、江戸時代初期に作庭された平庭として見るべきものがある。なお、本尊十一面観世音菩薩像は、平安時代伝教大師最澄の作と
伝え、重要文化財に指定されている。
--- 平成二十七年九月吉日 明王院現住 弘雄敬白 --
--- 平成二十七年九月二十三日 縁起板修復 福山中央ライオンズクラブ ---
石段を進み山門に向かう前に、まずは庭園を拝見です。今まで、庭園内に入った事がありませんから(^-^)
庭園には、「法悦」の記載が…「庭園は、江戸時代初期に作庭された平庭として見るべきものがある」との事ですけど、GONsanには難解なのかも…さほど、感激もしませんでしたけど…
◆明王院(福山市)
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
明王院(みょうおういん)は、広島県福山市草戸町にある真言宗大覚寺派の仏教寺院である。
・概要
草戸千軒町遺跡(後背に明王院)
芦田川に面した愛宕山の麓にあり草戸稲荷神社が隣接している。かつては常福寺と言われており律宗の寺院だった。中世には草戸千軒町が門前町として栄えていた。本堂と五重塔は国宝に指定されている。また、中国三十三観音霊場第八番札所、山陽花の寺二十四か寺第十八番札所となっている。
・歴史
寺伝によると、明王院の前身である「常福寺」は807年(大同2年)に空海(弘法大師)によって創建されたという。この由来の根拠は江戸時代に作成された棟札によるものであるが、ほぼ同時期に作成された棟札がもう1枚あり、こちらには大同年中に「初住持沙門」と呼ばれる僧侶によって創建されたと記されている。当寺の本尊十一面観音像は平安時代前期にさかのぼる作品であり、寺の草創もその頃にさかのぼるものと推定される。中世には門前に草戸千軒町(川底に埋もれた中世遺跡として著名)が栄えた。江戸時代には福山藩主となった水野家・阿部家の庇護の下で繁栄した。
◇文化財 国宝
・明王院本堂(附:厨子1基、棟札3枚)
入母屋造、本瓦葺き。桁行(間口)、梁間(奥行)とも5間(「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。内陣蟇股の墨書から鎌倉時代の元応3年(1321年)の建立と判明する。
和様建築に鎌倉時代以降の新様式である大仏様(だいぶつよう)、禅宗様を加味した折衷様建築の代表例とされている。内部の外陣に見られる輪垂木(わだるき)を用いたアーチ型の天井は、近世の黄檗宗寺院の建築には見られるものだが、中世には他に例がない。
外面の桟唐戸、断面が円形に近い虹梁(こうりょう、堂内の柱間に架けた水平材)などは大仏様の要素であり、粽(ちまき、柱の上部をすぼめること)、台輪(柱上の板状の水平材)、渦巻文様の木鼻(貫などの水平材の端部の装飾彫刻)などは禅宗様である。虹梁を柱頂より一段高く持ち上げるために、斗(ます)や絵様肘木を複雑に組み合わせた架構を見せるが、これも他に類例のないものである。
堂内は手前の梁間2間分を外陣、奥の梁間3間分を内陣とし、両者の間は結界で厳重に仕切る。内陣の両脇に脇陣を設けるが、これは参籠所として用いられていた。外陣が開放的な構えであるのに対し、内陣は窓がない、暗く閉鎖的な空間である。
・明王院五重塔
南北朝時代の貞和4年(1348年)に建立された純和様の五重塔。初層内部の四天柱(仏塔の初層内部に立つ4本の柱をさす)、板壁などには極彩色の仏画や文様が描かれている。初層の来迎壁(仏壇背後の壁)の「兜率天曼荼羅図」は江戸時代に寺外に流出し、現在は東京国立博物館の所蔵となっている。
相輪の刻銘には、この塔が当時の繁栄した草戸千軒の経済力を背景に、ささやかな民衆の浄財を募って建立されたことが明記されている。
◇重要文化財(国指定)
・木造十一面観世音菩薩立像(本尊)
平安時代前期の作で像高148.5cm。頭上面は髻(もとどり)の頂に阿弥陀仏一面、地髪上前面に菩薩面三・左側面に忿怒面三・右側面に牙をむく忿怒面三・背面に大笑面一の計十一面を頂く。作られた当時は彩色されていたようであるが、現在では褪色している。
◇広島県指定重要文化財
・明王院山門
・明王院書院
・明王院庫裡
・木造弥勒菩薩坐像及び両脇侍(不動明王・愛染明王)坐像
◇福山市指定重要文化財
福山市指定重要文化財のうち、木造弥勒菩薩坐像及び両脇侍(不動明王・愛染明王)坐像は、1993年(平成5年)に「木造大日如来坐像及び両脇侍(不動明王・愛染明王)坐像」の名称で指定されていたが、2016年(平成28年)に福山市文化財保護審議会が再調査したところ大日如来坐像ではなく「弥勒菩薩坐像」であることが判明し、福山市教育委員会会議で名称変更が行われた。手に宝塔を置くと推測される穴が開いていた事、五重塔の伏鉢とに「弥勒菩薩と縁を結ぶために建立された」という意味の文が書かれていた事等が決め手となった。
・木造南無仏太子像
・木造五大虚空蔵菩薩懸仏
・木造阿弥陀如来立像
・木造不動明王立像
・木造不動明王立像
・木造制多迦・矜羯羅童子立像
・墓石群
・明王院鐘楼
・七重石層塔
・草戸愛宕神社本殿
・石層塔残欠
・絹本著色釈迦二十二部衆像
・絹本著色不動明王像
・絹本紺地金泥種子両界曼荼羅図
・紙本著色訶梨帝母乾闥婆王像(童子経曼荼羅)
・紙本著色十一面観音像千仏図
・紙本墨画不動明王像
・護摩堂本尊背障壁裏絵
明王院には、ほかにも庭園がありますから、この庭園は、言ってみれば「前庭」ですネ(^-^)
それでは、明王院の境内に上がってみます。
石段を上がって下りますと、石段左の傍らに地蔵尊が…下部に文字の記載がありますので、近付いてよくよく見ますと、『山陽花の寺霊場 第18番札所明王院 このはなさかす地蔵尊』と刻まれておりました。
山門前にと上がりまして、左側した方向の「前庭」を再度、眺望です。そして、山門右側に眼を向けますと、不動明王坐像と手水鉢が…傍らでは、暑い中、草取りに従事しておられます方が…
山門の正面には、明王院本堂(国宝)です。
◆本堂(国宝)
中道山圓光寺明王院(真言宗大覚寺派)・本尊は十一面観世音菩薩(国宝)・両脇侍は不動明王と毘沙門天
それでは、山門を潜って境内へ(^-^)//"
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