2022/11/20(日) 「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域散策 <8/12> |
旧恵利家住宅≠フ見学を終えましたら、丁度、集合時間が到来です。
みろく自然公園≠後にしますと、次は久本古墳≠ヨと向かいます。場所的には、屋島の南方のようであります。
バスが入れませんから、古墳近くで下車し、周辺の田園風景に眼を向けながらノンビリと歩行となりました(^.-)☆
久本古墳に到着しますと、古墳脇に説明板が…
◆久本古墳
--- 史跡 昭和50年3月13日 高松市指定 ---
久本古墳は、横穴式石室をもつ円墳である。
石室全長10.8Mで、遺体を埋納する玄室は、長さ4.5m、高さ3.3m、通路に当たる羨道部は、長さ6.3m、高さ2.1mである。
北方の山下古墳とともに巨大な横穴式石室をもつ巨石墳である。周辺に大きな勢力と高度な文化をもった集団が存在したといえよう。
玄室奥に、県内唯一の石棚がみられる。棚の下には、遺体を安置する陶棺が置かれていた。
石棚は、和歌山県・徳島県の古墳に多く見られ、広範囲にわたる文化交流がうかがえる。仏教文化の影響が色濃い承台付銅鋺が、県下で初めて出土している。須恵器が多量に副葬されており、古墳名が六世紀末に築造され、七世紀初頭まで追葬が行われていたことが判明している。
久本古墳には「祭礼などのとき、塚が膳・?を貸してくれていたが、村人が壊すなどの不始末を起こし返さなかった後は、塚はもはや膳・?を貸してくれなくなった。」という?貸しの伝説≠ェ伝えられている。
--- 高松市教育委員会 ---
WEB上で久本古墳≠検索してみますと、こんな記載も…
◆久本古墳
-- 更新日:2019年1月18日 --
・史跡
指定区分 市指定史跡
指定年月日 昭和50年3月13日
所在地 新田町
・解説
墳丘の盛土はかなり流出してしまっているが、直径36メートル、周溝を含めた直径は46メートルを測る円墳であることが判明している。石室は全長10.8メートル、玄室長4.6メートル、幅2.6メートル、高さ3.5メートル、羨道長6.2メートル、幅1.6メートル、高さ2メートルを測る両袖式の横穴石室で、奥壁には石棚が付いている。この石棚の直下の奥壁に沿って土師質の亀甲型陶棺が納められていた。副葬品には、須恵器、土師器、鉄鏃のほか、承盤(しょうばん)付銅椀があり、6世紀末から7世紀初頭頃に築造されたと考えられる。
石棚付石室、土師質亀甲型陶棺、承盤付銅椀はいずれも県内唯一のものである。石棚付石室は和歌山県や九州北部に多く分布するものであり、その伝播には紀氏およびその同族関係氏族との関連性が関わったとする説がある。また、土師質亀甲型陶棺は奈良県に類例があり、久本古墳の陶棺も奈良県からの搬入品である可能性が高い。本来仏具として使用される貴重な銅椀を有することからも大和朝廷との関係も注目される。
なお、「村の祭事には塚(古墳)が膳や椀を貸してくれたが、あるとき村人が借りた膳椀を返さなかったところ、以後貸してくれなくなった」という民話が残っており、地元では「椀貸塚」とも呼ばれている。
◆久本古墳
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
久本古墳(ひさもとこふん)は、香川県高松市新田町にある古墳。形状は円墳。高松市指定史跡に指定されている。
本項目では久本古墳の北にある山下古墳についても解説する。
・概要
香川県中部、高松平野東部の立石山西麓に築造された古墳である。これまでに墳丘は大きく削平を受けているほか、1975年(昭和50年)・2002年度(平成14年度)に発掘調査が実施されている。
墳形は円形で、直径36メートルを測る。墳丘周囲には幅10.5メートル(南側)・5メートル(西側)の周溝が、その外側に幅3.5メートルの周堤が巡らされ、周溝を含めた直径は46メートル、周堤を含めた直径は53メートルを測る。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する。石室全長10.8メートルを測る大型石室であり、石材には安山岩の巨石が使用される。石室奥壁に石棚を付すという特徴を有し、石棚下には土師質の亀甲型陶棺が据えられる。石室内は盗掘に遭っているが、発掘調査では副葬品として多量の須恵器のほか、承盤付銅椀・鉄鏃・土師器が検出されている。
この久本古墳は、古墳時代終末期の6世紀末葉-7世紀初頭頃の築造と推定され、7世紀後半頃までの祭祀が認められる(埋葬回数は1回か)。いずれも香川県内では唯一となる、石棚付石室・土師質亀甲型陶棺・承盤付銅椀の点で特色を示す古墳になる。周辺では巨石墳として小山古墳(非現存)・山下古墳(後述)の築造も知られるほか、後背丘陵上では群集墳が営造されており、久本古墳・小山古墳・山下古墳の3基は一帯の首長墓(綾公氏や秦氏の墓か)と想定される。また当地の豪族と、北方における屋嶋城築城との関連性の点でも注目される。
古墳域は1975年(昭和50年)に高松市指定史跡に指定されている。
・来歴
1975年(昭和50年)
石室・墳丘の保存整備に伴う調査:第1-2次調査(久本古墳発掘調査団、2004年に報告書刊行)。
3月13日、高松市指定史跡に指定。
2002年度(平成14年度)、市道改良に伴う調査:第3次調査(高松市教育委員会、2004年に報告書刊行)。
・埋葬施設
埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り。
石室全長:10.8メートル
玄室:長さ4.6メートル、幅2.6メートル、高さ3.5メートル
羨道:長さ6.2メートル、幅1.6メートル、高さ2メートル
石室の石材には安山岩の巨石が使用される。石室(および墳丘)の構築に際しては高麗尺(1尺=約35.6センチメートル)の使用が推測され、玄室の奥壁が墳丘の中心として基準になる。玄門部の立柱石は内側に張り出し、その上部には?石を置くという九州系横穴式石室の特徴を示す。また羨門にも立柱石が認められ、羨道部は複室構造の前室のような形態を取る。羨門立柱石は鑵子塚古墳(観音寺市)でも知られ、関係性が指摘される。
また玄室には、奥壁に接する位置に石棚を付し、石棚を有する石室としては香川県では唯一の例になる。両側壁にかけて渡した一枚石(長さ約3メートル・幅1.5メートル・厚さ0.5-0.6メートル)を棚とし、床面から棚下は1.7-1.8メートルを測る。石棚の多い九州・紀伊地方では石棚を奥壁・両側壁に組み込むのに対し、中国・四国地方では石棚を両側壁のみに組み込んでおり、本古墳も後者の例に属する。棚下では後述の土師質陶棺が据えられることから、この石棚は棺を庇状に覆う役割とされる。
玄室内の石棚下には土師質陶棺が据えられており、確実な土師質陶棺の出土としては香川県では唯一の例になる。亀甲型陶棺であり、突帯幅は1.5-2センチメートルと狭いものになる。当該時期の陶棺は大和地方に集中し、本古墳の陶棺も狐塚2号横穴(奈良県奈良市)の陶棺と似ることから、大和地方との関係性が指摘される。
…と、こんな久本古墳≠ナあります(^-^)//"
古墳の中に入ってみますと、両袖式の横穴石室で、奥壁には石棚が付いております。
石棚付石室は、和歌山県や九州北部に多く分布するとの事ですけど、GONsanは初めて石棚付石室の中に入りました。石棚の上には何が置かれましたのでしょうねぇ〜
石棚の上に副葬品を置くと言う訳ではなく、この石棚は、棺を庇状に覆う役割とされたようですねぇ〜
古墳から出まして、古墳の後方(北方)に眼を向けますと、台形の屋島が(^-^)//"
石室から出ますと、GONsanも古墳の上に上がってみます事に…
この古墳も盗掘に遭っていますのでしょうから、墳頂と言うか天井部分の石はありませんで、上から石室内が見下ろせます(^-^)
石棚も、上からですと、よく分かります。
墳丘から下りますと、古墳の周囲を見てみます事に。こぅして古墳廻りを見ておりますと、墳丘の盛土は、かなり流出してしまっている状況がよく分かりますネ(^-^)//"
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