2022/11/20(日) 「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域散策 <7/12>

 

 こぅして展示品に眼を向けておりますと、どれも皆、懐かしさが…自然と、幼少時に眼にしました光景に想いが向かってしまいます。
 でも、中には、全く分からないモノも…この古めかしい小川式挽場機 裏穴貝釦(ボタン)型付機≠ノ眼が止まってしまいましたけど、これは、何なんでしょうねぇ〜
 WEB上で検索してみましたら、有る事は有るのですけど…
 製造工程/奈良・川西町にある高級貝ボタン【川西ボタン倶楽部】≠フページが出て来まして、この会社で、よく似た古めかしい機会を使用しておられます。よく分かりませんけど、きっと、高級貝ボタンの型付け作業に使用していました機械なのでしょうねぇ〜

 ◆川西ボタン倶楽部
 -- http://web1.kcn.jp/kawanisityou-syoukoukai/process.html --

 ・オートメーションではなく、人の手による細かな作業が、高品質の川西ボタンを生み出す。
 手挽き--ボタンの型付け作業は、通常15mmまでのものは機械で、それ以上のものは職人による「手挽き」で行う。回転するチャックにボタンを入れ、職人の感覚や音を頼りに削り方を調整する。
 変形加工--ボタンは丸いものだけでなく様々な形状や切込みがあるものもある。専用の機械を駆使し、職人の感覚を頼りにひとつずつ丁寧に加工している。

 ・数多くの工程を経て、天然素材のボタンが生まれる。
 ブランク--当初は原貝を直接輸入し日本で刳り抜いていたが、近年は現地で刳り抜いたもの(ブランク)を輸入している。そのため「刳り場」という工程はなくなった。
 摺り場--ブランクはでこぼこしているため、回転している砥石で平らにする作業。微妙な色の見比べやボタンの厚み調整などを行う重要な工程の一つ。
 挽き場--「型付け」とも呼ばれる。ボタンの表面に膨らみや溝などの型を付ける工程。使用する刃物(バイト)の調整も重要で、行える職人は稀少。
 穴明け--ボタンに穴を明ける工程で、2つ穴・4つ穴はポピュラーだが、近年は細い穴や間隔の狭い穴などがデザイン性としてトレンドとされている。
 化車(がしゃ)--ボタンのカドに丸みをつけ、小割や筋をとる工程。化車(がしゃ)と呼ばれる箱の中にボタンと水・磨き粉を入れて約3〜6時間回転させ、周りのバリを取り除く作業。
 艶出し--テッポウと呼ばれる桶の中に熱湯とボタンを入れ水溶液(塩酸や硫酸)を点滴のように垂らしながら、およそ1時間回転させる。ボタンの表面を少しずつ溶かしながら艶を出す。
 ロウつけ--伊保田(いぼた)ロウというロウを付着させたモミや小麦などを、ボタンと一緒に「モミ化車」でさらに1時間程度回転させる。ロウが貝ボタンになじみ手触りがとても良くなる。
 選別--通称「よりわけ」と呼ばれ、良品とキズやカケのある欠陥品とを選別する。経験を活かした眼力と指先による確かなチェックを経て良質なボタンが市場に届けられる。


 …との事で、高級貝ボタン製作の過程では、人の手による細かな作業が続きますようですねぇ〜

 ◆しゃちほこ
 鯱の起源は、鴟尾(古代の宮殿・寺院の主要建物の大棟両端につけられた1対の棟飾瓦)と考えられます。
 鯱とは想像上の生き物で、大変強い海獣だそうです。
 鯱が屋根に上がった理由は、雷雨を呼ぶ生き物とされていて、燃えやすい木造建築に対するお守り的な意味がありました。

 ◆鬼瓦
 大棟または下棟の端に用いられる飾瓦。
 奈良時代には軒平瓦(軒先に葺く平瓦)と同じ蓮華文や獣面様が併存したが、鎌倉時代以降に角のある立体的な鬼の形に変化して、一般に鬼瓦と呼ばれるようになった。
 鬼瓦は、魔物を怖がらせて家から追い払う魔除けの意味もあったと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歴史民俗資料館内の見学を終えますと、今から40分間の自由行動となります。
 この間に、各自昼食タイムです。
 皆さん、弁当持参ですから、思い思いにみろく自然公園%烽フ適当な場所へ。GONsanは、藤棚下のテーブルへ(^-^)
 日差しがありませんこの時期なんですけど、風が有りませんから冷たさも無し。とても、行楽日和とは言えませんけど、持参弁当は美味しいものでありました(^.-)☆
 昼食を終えますと、皆さん、三々五々、みろく自然公園%烽散策です。GONsanは、再度、みろく自然公園≠フ案内マップを確認の上、スグ近くの展望台に上がってみます事に…
 展望台に向かっておりますと、どなたかの銅像が…台座には軒原庄蔵氏像≠ニ刻まれています。ふ〜ん、水利土木功労者の軒原庄蔵《anですネ(^.-)☆
 歴史民俗資料館内に、こんな説明書きがありましたネ。

 ◆水利土木功労者・軒原庄蔵

 文政11年、富田中村に生まれる。当時の庄屋・軒原庄蔵は漏水甚だしい「みろく大掛井」の惨状に苦慮し、玄光谷より三ツ石に至る山底の掘り抜き導水を企画、安政2年ようやく許可を得て、東西双方より昼夜3年の掘り抜き工事を実施。庄蔵の卓越せる技術によって安政4年、105年間に及ぶ石穴が完通した。
 この偉業により富田中村の田は永久に水利の便益をうける事となった。文政5年、弥勒池普請成就の功により郷侍格(ごうふかく)を申しつけられた。なお、工事監督した田面村の多田信蔵(画家霞岳)、更に地勢の高低を測定して両穴の連結を方向付けた富田中村の算数学者、萩原栄次郎があった事を忘れてはならない。
 その後、明治2年8月、高松藩より満濃池穿さく工事御用を任命され明治3年3月、30間5尺余の穿さく工事に成功した。その土木技術のすばらしさは、さぬき溜池史にさん然と輝いている。明治23年、63歳で逝去された。


 …と、こんな方でありまして、仲々立派な方でしたのでしょうねぇ〜
 この銅像の後方には、イノシシ捕獲用の箱罠が…う〜ん、ここでもイノシシが出没しますようですネ。
 展望台に到着しますと、どなたもおられません。チョッとした広場で確かに展望台が設けられてはおりますけど、眺望は今一。
 即、下山となりました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 軒原庄蔵氏像≠ワで下りて来まして、「んっ!?…」と眼が止まりましたのが、像の裏側の説明板。像を拝見しています時には気付きませんでしたけど、うん、うん、裏側に説明板がありましたネ(^-^)
 説明番には、

 ◆治水の功労者 軒原庄蔵

 富田中村の庄屋軒原庄蔵は、水不足に困る弥勒池の貯水増のため、三ツ石山の岩盤を掘り抜き、砕石谷からの導水に成功し多くの農民を救った。
 隧道工事は、田面村の工事監督多田信蔵(霞岳)、富田中村の数学者萩原栄次郎の協力を得て、安政2年(1855年)から安政4年にかけて、長さ105間(191m)の石穴を貫通させる難工事であった。
 この画期的な工事を完成させた功績により、高松藩から郷侍格に取り上げられた。
 後、明治2年(1869年)満濃池のゆる石穴工事を命じられ、明治3年30間余(約56m)の石穴を完成させ、讃岐の治水に貢献した。このため、満濃池の恩人とあがめられ、満濃池畔の松崎神社に合祀されている。
 明治23年63歳でふる里に没した。

 大川町歴史民俗資料館の落成を記念し、その遺徳を顕彰してこれを建立する。
 
--- 平成2年3月吉日 大川町 ---

 …と、こんな記載がありました(^.-)☆
 昼食をとりました広場まで下りて来まして、周辺を見廻しましても人影はありません。皆さん、何処へ…
 そぅしておりましたら、重要文化財 建第1812号 旧恵利家住宅≠フ案内表示が眼に入りましたので、向かってみます事に(^-^)
 旧恵利家住宅前の広場に立ち見廻しますと、6〜7名の方々のお姿が…ふ〜ん、ここにおられましたか(^-^)
 早速、GONsanも旧恵利家住宅≠見学です。

 ◆重要文化財 建第1812号 旧恵利家住宅

 --- 指定年月日 昭和46年6月22日(文部省告示第165号) ---

 ・概要
 旧恵利家住宅は、17世紀にさかのぼる県下最古の農家住宅で、周囲を瓦葺きの庇とせず軒先まで茅で葺き降ろす形式が建築年代の古さを物語っている。

 ・歴史
 この建物は山あいの新名と言う集落にあり、かって村の百姓役であった藻玉氏のものと言われている。藻玉氏は判明している先祖が、元禄12年(1699)に亡くなっている旧家で、その後、江戸後期にその所有が恵利氏に移ったとされている。

 ・構造
 旧恵利家住宅は桁行7間、梁間3間半の寄棟造、茅葺の建物で背面に桁行1間半、梁間2間半の角屋が突出する。間取りは広い土間と、それに沿って板敷きの広間が並び、上手は座敷と納戸になる。現状の角屋は当初からあったものではなく、納戸を拡張したものである。なお、恵利氏は納戸を奥≠ニ呼び、また、新名にあった当時、床は竹を半割にして敷き詰め、これを竹座と呼んでいた。

 ・規模
 平面積112u(33.9坪) 軒面積144u 屋根面積254u

  
 …と、案内板によりますと、こんな旧恵利家住宅≠ナあります。
 当時の農家住宅としましては、仲々の豪邸でしたのかも(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

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