2022/01/22(土) 福山城石垣見学会℃Q加 <2/4> |
それでは、この辺で、入船町2丁目の見学会現場とお別れし、福山城址公園の見学現場の方に行ってみたいと思います。
国道2号線を渡り、「シンボルロード『きたはま通り』」を、御舟町--船町--元町…と、福山市都心部の景観に眼を向けながら歩いておりまして、通過時に「木綿橋」跡をパチリ。そして、少し進んで、いつものように信号待ちを利用し、「福山とんど」のモニュメントもパチリです(^.-)☆
◆木綿橋
--- https://ytkglife.net/momen-bashi-fukuyama/ ---
・江戸時代の入り江の名残
かつて福山では、城の近くまで運河が通っていました。
福山市の福山城の特徴的な点のひとつに、海から城の近くまで入江(入川)という運河が通っていたことがあげられます。
福山駅前からななめに伸びている道路はその名残です。そして、入江には木綿橋と天下橋という橋が架けられていました。
入川には天下橋(本橋)と木綿橋(新橋)が架けられ、橋の間にある中番所が船の出入りを監視していました。橋の名前は水野勝成が天下様(豊臣秀吉)に京都の伏見城からもらい受けたことに、橋のたもとで木綿市が開かれていたことにそれぞれ由来しています。
「木綿橋」は、福山城から瀬戸内海まで「入川」が通じていた江戸時代から1938年まで、現在の船町の本通りあたりに架かっていた橋です。
今は石碑があり、バス停の名前として残っているので、ご存知の人も多いのではないでしょうか…
天満屋福山店までヤッて来まして「アイネス福山」をパチリ。
福山駅方向に向かいながら、福山駅を背景に、野田正明sanのモニュメント『いまこそ未来』をパチリとなりました(^-^)//"
JR福山駅南口に到着しますと、駅構内を抜け駅北口へ…
駅北口から石段を伏見櫓下へと上がります。が、福山城の案内板は毎回素通りのGONsanですから、タマには眼を通してみようか…と、珍しく立ち止まり、繁々と説明板を(^-^)
◆福山城
福山城は、西国鎮護の重責を担って入封した徳川譜代の臣、水野勝成が元和6年(1620)より3ヶ年の年月を費し、陸海の要衝であるこの地に完成させた平山城である。
総面積約8万坪(26.5ha)内外二重の濠をめぐらし本丸には、白亜の5層6階の複合天守と多数の櫓を構築、その偉容は、全国城郭中屈指の名城とされていた。
その後、水野5代、松平1代、阿部10代の居城となり、明治になって濠は埋められ、月見櫓をはじめ多くの櫓が取り壊され、残された天守閣・湯殿等も第二次世界大戦の戦火により焼失した。
幸いにも、築城当時、伏見城から移築した伏見櫓・筋鉄御門は、昔日の姿を留め、貴重な遺構として重要文化財の指定を受けている。
なお、現在の天守閣等は、昭和41年市制50周年記念事業として、市民の浄財で外観復元がなされ、城跡は国の史跡となっている。
城名 鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)
別名 葦陽城
…と、説明板にはこんな記載ですけど、う〜ん、初めて眼を通しましたねぇ〜
石段を伏見櫓下へと上がりまして、右側の筋鉄御門を覗いてみましたら、うん、うん、工事も既に終わったようですねぇ〜
◆福山城筋鉄御門(ふくやまじょうすじがねごもん)
福山城本丸の正門で西向きに建っている。元和8年(1622年)伏見櫓と共に伏見城から移築したものといわれている。
下層の各柱には根巻き金具を付け四隅に筋金具を打ち、鏡柱の見付けと見込みに大小の乳金具を打ち付けている。門扉は内開き二枚建てで12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾っている。
上層は正面左端に出入口を設け、正面中央・右端と南側にそれぞれ格子窓を設け、内部床は拭【ぬぐい】板敷き、小屋梁天井となっている。
外部は柱・土台・長押の木地型を出し、たるき・屋根妻・破風板・懸魚にいたるまですべて白亜塗りとしている。
伏見櫓下を左に進み、見学現場にと向かいますが、要所要所には現場関係者の方が待機しておられまして、見学者を誘導です。
晴天ではありますけど、冷たい中で待機しておられまして、お疲れ様でございますですm(_ _)m
案内に従って伏見櫓下を西方に下り、「神辺二番櫓跡」の発掘調査現場に向かいますと、既に30名ばかりの方々が見学中でありました。
受付けを済ませますと、資料を頂きましたので、早速、資料を拝見です。
頂きました資料は、
@史跡福山城跡石垣(二之丸西側上段石垣)の発掘調査
-- 2022年(令和4年)1月22日(土)現地見学資料 福山市 --
福山市では、史跡福山城跡の整備を行うため、昨年の10月から二之丸の西側上段で発掘調査を行っています。この度、城に関する石垣遺構が新たに堪忍されましたので、調査現場を一般公開します。
二之丸西側上段の石垣は、福山城の中でも石垣石がほとんど抜き取られ、最も明治時代以降の改変が著しい場所です。調査の結果、古絵図で神辺二番櫓(外七番二重御櫓)跡とされる場所の西側で、地表から約2mの深さから、南北の長さ約4mにわたって櫓台の石垣が確認されました。(図・写真@)
また、昨年11月に公開した神辺二番櫓跡の南側石垣東隅で、明治時代以降に改変された石垣の下から、城の石垣の入隅部(屈折部)が確認されました。(図・写真A)
※ 発掘調査場所は別紙の広域地図にも記載しています。
写真@--神辺二番櫓跡西側石垣
写真A--神辺二番櫓跡南側石垣東側石垣東隅の入隅部。(屈折部)
A福山城古写真・安永絵図・地形測量図から見る二之丸西側櫓群の位置
福山城安永絵図(二之丸西側上段石垣付近絵図)
B福山城(今と昔)
C福山城全景復元図
D年表
…等で、まず、受付近くの「神辺二番櫓跡西側石垣」から見学となりました(^-^)//"
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