2021年 鞆の浦 de ART 2021 <11/13> |
それでは次に、「太田屋住宅・新藏」のアート作品を拝見です。
う〜ん、ここには、7〜8名の方々で密状態。サッサとアート作品を画像に納めて退散です。
制作者は、「Mayumi Ono」sanですけど、お名前を検索しましても何にも出て来ませんでしたネ。詳細は、非公開なのかも分かりませんねぇ〜
◆太田家住宅・新蔵
--- http://tomonoura.com/tomoart/ootake/ 2021.09.01 ---
1655(明暦元)年に大阪から鞆に移り住んだ中村吉兵衛は、1659(万治2)年に漢方薬酒・「十六味地黄保命酒」の製造・販売を始めました。
「保命酒屋」(旧中村家)として、江戸時代の間は醸造販売権を独占し、隆盛。まさに鞆の経済の中心だったのです。
幕末の政変によって都落ちした三条実美ら尊王攘夷派の公卿7人が、鞆に立ち寄った際に一時の憩いを得たのが、この太田家住宅(旧保命酒屋)でした。
公卿らは保命酒に陶酔し、その美酒を褒め称える歌を残しています。
太田家住宅のおもてなしの心、お見事。
退散時に気付きましたけど、ダンボールで作られましたこのトラックもアート作品でありました(^.-)☆
◆ス?カ?コウサクとクリエイト
大阪・神戸在住の、「岸川のぞむ」と「岡本和喜」の二人によるユニット。2009年よりズガ・コーサクとクリ・エイト(略してズカクリ)としての活動を始める。
主に段ボールなどの廃材を使って、どこかに有りそうな 風景を作り出し続けている。
二人の制作の方向性は全く違うが、面白い物を作りたいという情熱は同じ方を向いている。
…と、WEB上にはこんな記載がありました。
外に出まして屋根下に眼を移しますと、杉玉が(^-^)
◆知ってる?酒屋や酒蔵にぶら下がっている丸い玉「杉玉」の正体と重要な役割
--- https://kurand.jp/blogs/magazine/387087269943 ---
酒蔵や酒屋の軒先によく飾られている、丸い緑の玉。皆さんはこれを“ただの飾り”だと思っていませんか?
この緑の玉は「杉玉」と呼ばれるもので、実は日本酒好きなら絶対に知っておきたい、重要な役割が秘められているのです!
ということで今回は、そんな謎の玉「杉玉」をピックアップ。杉玉の役割や起源、そして杉玉の“とある変化”と共に楽しみたい、4タイプの日本酒を紹介します。
杉玉とは、その名の通りスギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物です。読み方は、「すぎたま」「すぎだま」、または酒林と書いて「さかばやし」と呼びます。
スギの葉のみで作られているわけではなく、針金で芯となるボール(できあがりの半分ぐらいの大きさ)を作り、それにスギの葉を下方から順に差し込んで固定し、上まで刺したら球状になるように、きれいに刈り揃えることで杉玉は完成します。
「葉っぱの塊だから軽そう!」っと思っている方もいるかもしれませんが、実は完成したばかりの杉玉の重量は直径約50cmで20kg、約40cmで9〜10kgほど。
緑色の葉に含まれる水分が抜けどんどん茶色になっていく頃には、抜けた水分の量だけ製作時より軽くなりますが、取り扱いには気をつけましょうね。
さて、軽く触れましたが上記のように杉玉は、緑色の場合と茶色の場合がありますよね。
実はこの色の変化こそが、杉玉の重要な役割なのです!
まず、日本を造る酒蔵などが、軒先に緑色の杉玉を吊すのは、新酒が完成したことを知らせるためです。「搾りを始めました」というアピールですね。
新酒の季節に吊るされた杉玉は当然、徐々に枯れていき、どんどん茶色がかっていきます(深緑の杉玉を見られるのは数週間ほど)。
そしてその変化は、新酒の変化、熟成具合と重なります。
つまり、新酒が完成したことを伝える緑色の杉玉は、今度はその新酒の熟成具合を、道行く人に伝えているのです。ただ、酒蔵や酒屋によっては、何年も同じ杉玉を吊るし続けている場合もあるようなので、その点は注意してくださいね。
杉玉の役割は、新酒の完成を伝えるのと同時に、葉色の変化により、その新酒の熟成具合を伝えること。
…と説明しましたが、実は元々の役割は別だったと言われています。
諸説ありますが、最も有力なのは奈良県の桜井市にある、大神神社(おおみわじんじゃ)を由来とするものです。
大神神社は、古くからお酒の神様を祀るとして有名な神社。大和朝廷の神事の神酒(みき)を造るという、重要な役割を担っていた神社でもあり、お酒との関わりが深いことで知られています。
そんな大神神社がある三輪山は、神南備(かみなび・かむなび)と呼ばれる神の通り道、拠り所とされている場所で、その場所にたくさん養生している杉にもまた神が宿ると言われています。
そして、その神が宿った杉の葉を束ねて、酒屋の軒先に吊すという風習が生まれたそうです。
“杉を束ねる”と書いたように、当時は球状ではなく、名称も「酒箒(さかぼうき)」や「酒旗(さかばた)」だったのだそう。
江戸中期には、鼓のように束ねた杉の葉を「酒林(さかばやし)」と呼び、軒先にかけて酒屋の看板にしたと言われています。
江戸中期の文献の一つには、既に球状で描かれている杉玉の原型があることから、江戸期の間に杉玉は急速に形を変えていき、江戸後期には現在に受け継がれる球状の杉玉が完成したと思われます。
神が宿った杉の葉を吊るすことで、お酒の神様に感謝を捧げるものだったという杉玉。
全国に広まった杉玉の風習は、酒屋が新酒を搾る頃に杉玉を飾ったことから、新酒が完成したことを知らせる役割を持つようになっていきました。
そして現在では、お酒の神様に感謝を捧げるという一面よりも、前述したように、軒先の人に新酒の状態を伝えるという一面が強くなったのです。
ただ、これはあくまでも一説であり、“スギの葉はお酒の腐敗を直すから吊るす”、という風習が広まったという説もあります。
◇杉玉の変化と共に楽しみたい4タイプの日本酒
新酒の時期に吊るされる杉玉は当然、次の年の新酒の時期に交換されます。つまり、1つの杉玉が伝えてくれる新酒の熟成具合は1年間のみです。
ということで最後に、杉玉の、1年間の葉色の変化と共に楽しみたい、4タイプの日本酒を紹介します。
・「冬酒(新酒・しぼりたて)」
時期は冬(11月〜3月頃)。
秋に収穫された米から造った、その年の最初に搾ったお酒で、抜群のフレッシュさが特徴です。
当然ながら熟成期間は殆どありません。そのため、角があるような荒々しさ、言い換えれば、その日本酒が持つ勢いをダイレクトに感じ取れるような味わいを楽しめます。
・「春酒」
時期は春(3月〜4月)。
冬に搾ったお酒を春に出荷したものです。春らしい、上品な甘みとフレッシュな味わいのものが多く、多少熟成したことで、新酒より荒々しさが抑えられた仕上がりになっています。
・「夏酒」
時期は夏(5月〜7月)。
冬に搾ったお酒を夏まで貯蔵して出荷したものです。夏らしい爽やかな味わいのものや、オン・ザ・ロックでも楽しめるような、高い度数のものや、味が濃いものがあります。
熟成により、新酒の荒々しさが丸くなり、まろみのある、比較的柔らかな口当たりになっています。
・「秋酒(ひやおろし)」
時期は秋(8月〜10月)。
一夏を超え、秋まで熟成されたお酒です。しっかりとした熟成による、円やかな口当たりと、コク深い味わいが特徴です。
・まとめ
軒先に吊るされた杉玉の葉色の変化が、その年の新酒の熟成具合を伝えている。なんとも日本人らしい、風流な文化ではないでしょうか。
四季に恵まれた我が国の国酒“日本酒”には、1年間という時間の中で、まるで各季節に寄り添うように、熟成という味わいの変化が訪れます。
その変化を知る1つの指標として、これからは杉玉の色を少し気にしながら町を歩いてみてはいかがでしょうか?
深緑の杉玉や、ほどよく枯れた杉玉を見つけたら、きっとその日は、いつもより味わい深い日本酒を楽しめるはずです。
…と、こんな『杉玉』のようであります(^.-)☆
それでは、次に、圓福寺に向かってみます事に。その途中で氏神様の「力石」をパチリです(^-^)//"
◆鞆の津の力石
--- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/13530/ ---
鞆は海運の発展と共に栄えた港町。かつては多くの仲仕が船積荷物の陸揚げや積み込みなどに従事していました。重たい荷物を肩に担ぎ、積み荷を運んだ力自慢の仲仕達は祭礼の場などで、力石を使ってその力と技を競いあったようです。差し上げた石には名前が刻まれ、神社に奉納もされました。鞆の津には「東濱・港濱・西濱」の仲仕組合があり、互いに競い合っていたことが知られています。
仲仕達の誇り、ここにあり!なんと石の重さは230kg!!
沼名前神社に20個、住吉神社に3個、奉納されている力石です。すべて花崗岩製で楕円状を呈し、重さは61貫(230kg)から32貫(118kg)と様々で、石には重さと奉納者名などが刻まれています。製作年代のわかるものは5個あり、天保15年(1844年)から安政5年(1858年)までの年号が刻まれています。
圓福寺に向かいます入口石段の脇には、「夾明楼 上り口」の石標が…
◆圓福寺・夾明楼(えんぷくじ・きょうめいろう)
--- https://www.hiroshima-kankou.com/spot/5424 ---
戦国時代、村上水軍の一族が、大可島城を拠点に海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。慶長年間(1600年頃)に鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在大可城跡に建っている南林山釈迦院円福寺は、真言宗の寺でこの年代に建てられたものです。
住所:広島県福山市鞆町鞆10
電話番号:084-982-2508
アクセス:車--山陽自動車道福山東ICから約40分・福山西ICから約40分、公共--JR福山駅前11番乗り場から鞆鉄バスで約30分「鞆港」下車、徒歩5分
備考:夾明楼の拝観料200円(要申込)
…と、こんな「圓福寺・夾明楼」であります。
境内を見廻しますと、芭蕉の句碑が…
◆芭蕉の句碑
『疑なうし保のはなも浦の春』
「くだけちる波(潮)の花をみるとこの浦までも新春のめでたさがある。この自然をつくられた神徳を疑うな」
1777年(安永6年)に建てた石碑を再建したものです。碑文は備後の俳諧の指導者、鼎左(ていさ)の筆です。この区の前文に「二見の図を拝みて」とあり、1689年(元禄2年)伊勢の絵をみてよんだ画賛です。なお、圓福寺の夾明楼は頼山陽の叔父頼杏坪が美しい景色に感嘆して命名したものです。
◆圓福寺夾明楼
江戸時代から鞆では句会が盛んで、圓福寺の座敷は「夾明楼」と呼ばれ、漢詩会、句会の舞台にもなっていた。頼山陽の叔父である頼杏平がこの座敷を「夾明楼」と命名し、美麗な書を残した。
◆大可島(たいがしま)城跡
福山市鞆町鞆の高台に円福寺という寺がある。
康永元年(1342年)、四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力をもつ北朝足利方が燧灘(ひうちなだ)で合戦となり大可島城にこもる南朝方は全滅しました。その後、戦国時代に村上水軍の一族が大可島城を拠点に、海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。
慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。現在の本堂は、昭和初期に再建されたものです。
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