2021年 鞆の浦 de ART 2021 <10/13>

 

 

 

 

 

 

 地蔵院近くの石段を上がって行きますと、「鞆城跡」にと到着です。ここには、「鞆の浦歴史民俗資料館」が存在です。

 ◆鞆の浦歴史民俗資料館

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 福山市鞆の浦歴史民俗資料館(ふくやましとものうられきしみんぞくしりょうかん)は、広島県福山市鞆町後地にある博物館。「潮待ちの館」の愛称をもつ。

 ・概要

 万葉の時代から栄えた鞆の浦を中心とする瀬戸内の歴史と文化を紹介する施設で、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)に建てられている。庭から鞆公園(国の名勝)や四国の山々を見渡すことができ、ここからの景色は一見の価値がある。
 なお、館の建設は城跡の十分な調査のないまま進められたため遺構が大きく破壊された可能性が指摘されている。また、資料館に通じる坂道にある石垣は建設地に存在した鞆城のものと思われる石材を集めて模擬的に組まれたものである。
 同館の運営は福山市であるが、後援会組織として鞆の住民及び福山市民を中心に組織された「福山市鞆の浦歴史民俗資料館友の会」が関連行事などの積極的支援を行っており、鞆の恒例行事にもなっている「鞆・町並みひな祭り」や「八朔の馬出し」などの行事は同会が運営の中心を担うなど、鞆の浦の歴史遺産を活かしたまちづくりを積極的に行っている。

 ・主な展示物

 鯛網漁のジオラマ
 イカリづくりの鍛冶場
 箏曲家・宮城道雄の愛用琴などの遺品
 国の史跡「朝鮮通信使遺跡」の歴史資料
 広島県指定史跡「備後安国寺」の歴史資料
 広島県指定史跡「鞆七卿落遺跡」の歴史資料
 市無形民俗文化財「お弓神事」、同「お手火まつり」、秋祭りの布団太鼓「チョウサイ」、「八朔の馬出し」等の民俗資料
 保命酒店先の復元模型
 鞆の歴史・祭り等の紹介ビデオコーナー


 …と、こんな「鞆の浦歴史民俗資料館」であります。
 この敷地の片隅に、ウッカリすれば見落としそうな場所に、「アブラハム・デイヴィッド・クリスチャン」制作の彫刻が…傍らには、

 '89 ふくやま彫刻プロジェクト
 作品名 -- 彫刻
 制作者 -- アブラハム・ダヴィット・クリスチャン(Abraham David Christian)
 設 置 -- ふくやまアートプロジェクト実行委員会 福山市
  …と、こんな説明板が(^.-)☆

 アブラハム・デイヴィッド・クリスチャンsanをWEB上で検索しますと、

 ◆アブラハム・デイヴィッド・クリスチャン

 アブラハム・デイヴィッド・クリスチャンはドイツを代表する彫刻家のひとり。若干19歳でドクメンタ5(1972)に参加し、翌年のデュッセルドルフ美術館での初個展以降、ドイツやアメリカをはじめ世界各地で活躍。日本では神奈川県葉山町のアトリエを構え、長年にわたって制作拠点としている。
 ルネサンス美術、アルベルト・ジャコメッティやデイビッド・スミスら20世紀の抽象表現、そしてアフリカの原始美術や仏教美術に影響を受けてきたクリスチャン。紙やブロンズによる彫刻、またドローイングは、これらの要素が組み合わさりながら均衡を保っている。

 …と、こんなアーティストのようであります。
 そして、「ふくやまアートプロジェクト実行委員会」も検索してみるのですけど、う〜ん、よく分かりません。が、福山市内のアチコチで「ふくやま彫刻プロジェクト」により設置されましたアート作品は見掛けます。
 どぅにか『ふくやまアートプロジェクト実行委員会』に関します記述を見つけますと、こんな記載が…


 福山郵便局前交差点・北西(福山郵便局前)の、山本眞輔《躍動》(1996設置)。ふくやま彫刻プロジェクト。福山市、ふくやまアートプロジェクト実行委員会による設置。福山市とその周辺の市町村で、「ふくやま彫刻プロジェクト」を名乗った野外彫刻をよく見かける(先日行った尾道市御調町にもあったし、井原市でも見かけた)。これは1989年〜1998年ころまで行われた「ふくやまアートプロジェクト」の一環として、福山市や周辺自治体と、ふくやまアートプロジェクト実行委員会が設置したもののようだ。他に展覧会なども開催しているようだが、ネットを検索する限りでは、今ひとつ実態がわからない。図録なども出ているようなので、近々チェックしたいと思っている。


 …と、こんな記載で、ふ〜ん、「ふくやま彫刻プロジェクト」の実態は、よく分かりませんようですネ(^-^)
 それでは、何度も訪れています鞆城跡ですけど、暫し、敷地内を散策です。


 ◆鞆城跡

 --- 市史跡 1976年7月13日指定 ---

 ここは鞆城の本丸跡で、丘陵を利用して壮大な二の丸・三の丸が築かれ、東端は福禅寺、北端は沼名前神社参道、南は港に面していた。毛利氏が築いた城を、慶長5年(1600年)安芸・備後の領主となった福島正則が修築した。慶長12年(1607年)の朝鮮通信使の日記に「崖上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である。」と記しており、その時、建設中だったことが知られる。
 元和元年(1615年)の一国一城令に先立って廃城となり、正則のの後を受けて入封した水野勝成は、長子勝俊の居館を三の丸に置いた。勝俊が福山藩主となって以降は、江戸時代を通して町奉行所が置かれた。


 …と、こんな説明板も。
 赤い鳥居の神社もありますので向かってみますと、鳥居には『正一位早毛利稲荷神社』の記載。


 ◆早毛利稲荷神社

 この神社は鞆の浦を見下ろす小高い丘の上、歴史民族資料館の建つ鞆城本丸跡に鎮座しています。城跡には鞆城の案内は有ったのですが、この社の案内は無く、御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明です。推測ですが、この地は安土桃山時代に毛利氏の所領となり、鞆の浦には毛利氏の擁護の元、室町幕府15代将軍足利義昭が滞在したこともあり、毛利氏にちなんだ社で、お城の鎮守社だったのではないかと考えています。


 …と、WEB上には、こんな記載がありましたネ(^-^)//"

 

 

 

 ◆早毛利稲荷神社

 --- 2008-11-23 00:19:47 https://ameblo.jp/shimakaze2002/entry-12549085702.html ---

 鞆城址、今の福山市鞆の浦歴史民俗資料館の裏手にひっそりと鎮座する社があります。早毛利神社です。
 この神社に関しては縁起・沿革等はよく分かりません。
 これはあくまでも私の推測ですが、この神社の名前は、戦国時代に鞆を支配下に置く毛利氏が築城した際に、お城の鎮守社として造営されたのではないかと思います。
 今の社殿は、基礎は古いものの建物は昭和のものだと思います。子供の頃、社の中に入ったことがありますが、その時に祭壇に立派な(古代の神獣鏡のような)鏡があったのを今でもはっきり覚えています。
 城山にひっそりと鎮座する早毛利神社、その存在は毛利氏が鞆を支配した450年前の足跡のひとつかもしれません。


 …と、こんな記述もWEB上にありましたけど、詳しい事は分かりませんようですネ(^-^)

 ◆鞆城

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 鞆城(ともじょう)は、備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町後地)にあった日本の城。福山市指定史跡に指定されている。

 ・概略

 鞆は古代から潮待ちの港として栄え、軍事的にも枢要の地であった。そのため南北朝時代には港湾施設の近くに大可島城が築かれていたが、市街部に城は存在しなかった。なお、建武3年(1336年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中、この地で京の光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受領しており、足利氏にとって縁起の良い土地であった。
 鞆城の前身となるのが天文22年(1553年)頃に毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏が市街中心部の丘陵に築いた鞆要害である。鞆要害は尼子氏への抑えとして築かれたもので、その規模・構造はよく分っていないが、城域は発掘調査の結果などから概ね鞆の浦歴史民俗資料館一帯であったと推定されている。天正4年(1576年)には京都を追われた足利義昭が毛利氏の庇護の下、この鞆要害で亡命政権(いわゆる「鞆幕府」)を樹立した。幕府としての実態は伴っていなかったというのが定説ではあるものの、藤田達生は義昭が鞆にありながらも歴代将軍と同様に一貫して京都五山をはじめとする幕府管轄下にある禅宗寺院に対して住持任命の辞令である公帖を発給していた事実などを挙げて「室町幕府の身分秩序や武家儀礼は形骸化しつつも、大名権力とは異なる上級政治勢力として存続」していたとしている(「歴史」参照)。

 江戸時代に入ると安芸備後を与えられた福島正則により鞆要害の築城が開始され、鞆城と呼ばれるようになった。鞆城は丘陵部の本丸を中心に二の丸、三の丸が囲み、その城域は、南は鞆港、東は福禅寺、北は沼名前神社の参道まで達する大規模なものであった。この時、3層3階の天守も建てられたといわれている。築城は慶長14年(1609年)まで続けられたが、瀬戸内海の中央で戦略的にも枢要な鞆において大きな築城は徳川家康の嫌疑がかかり廃城とされ、福島氏の移封後はその後、西国鎮衛の役目で備後福山に配された水野勝成により福山藩が誕生し、鞆城跡には鞆奉行所が置かれた。


 鞆城跡の一角には、「宮城道雄」の像も…宮城道雄と言いますと、「春の海」が有名ですネ。

 ◆春の海

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 春の海(はるのうみ)は、日本の箏曲家であり作曲家の宮城道雄が作曲した箏曲。ヴァイオリン版も知られるが、本来は箏と尺八の二重奏である。新日本音楽を代表する楽曲である。日本では、小学校における音楽の観賞用教材として指定されているほか、特に正月には、テレビ・ラジオ番組や商業施設等でBGMとして使用されているため、今日では正月をイメージする代表的な曲の一つとして知られている。

 ・曲の特徴

 1930年の歌会始の勅題「海辺の巖」にちなみ、歌会始前の昭和4年(1929年)末に作曲された。宮城は曲のモチーフとして、大正6年(1917年)上京する際に航路で旅した瀬戸内海をイメージして描いている(随筆「『春の海』のことなど」より)。8歳で失明する前に祖父母に育てられて住んでいた瀬戸内の景勝地、福山市の鞆の浦の美しい風景が目に焼きついたのをイメージして描いている、という説は誤り。宮城道雄は幼少の頃に鞆の浦で過ごしたことはなく、初めて鞆に来たのは昭和23年8月のことであった(随筆「鞆の津」より)。

 箏とヴァイオリンによる二重奏のレコードの発売は、フランスの有名な女性ヴァイオリニストであったルネ・シュメーの来日に遡る。昭和7年(1932年)、シュメーが東京を訪れた際、演奏披露された宮城の『春の海』をとりわけ気に入り、自身もヴァイオリンで演奏するべく宮城へ申し入れた。シュメーは、滞在先の帝国ホテルで尺八のパートをヴァイオリンへ変更する編曲を独自で行った。一晩で仕上げたという彼女の才能と熱意に宮城は感銘を受けつつ、彼女と奏じたところ、宮城も言葉は通じないが音楽家として曲全体の符合を確信する。これにより2人の公開演奏が決まり、宮城の箏とシュメーのヴァイオリンによる二重奏での『春の海』が日比谷公会堂で演奏された。この宮城とシュメーによる『春の海』は、後に改めて日本で録音され、日本、アメリカ合衆国、フランスでレコード発売された。これが契機となり、日本国内のみでなく国外の人々にも認知され、また親しまれる曲となった。ギドン・クレーメルが来日時に吉野直子と共演した際、この例に倣って演奏・録音した。
 『春の海』は、江戸時代までの近世邦楽ではないが、現代においても日本の正月をイメージさせる曲として定着しており、その広がりから日本的な景色を強く印象付ける伝統的な楽曲とされる。

 ・初演

 『春の海』の初演は、1929年末に作曲者である宮城と尺八演奏家の吉田晴風により日比谷公会堂で行われた。事実上の初演は1929年末であるが、宮城は随筆『夢の姿』で何よりも歌会始めの勅題に因んだものであるから、本当の初演は翌年の春としていると述べている。

 ・著名な演奏

 1932年、東京の日比谷公会堂でのフランスの女性ヴァイオリニストのルネ・シュメーと宮城の演奏による『春の海』。
 戦後から1960年までの期間で、シュメーとの協演盤が20万枚、吉田晴風との協演盤が3万枚、春の海を収録したLP『宮城道雄名曲選集』は3万3,000枚、EPが5万4,000枚、このうち日本国外への輸出分が1万枚近くあり、ロングヒットを続けている。
 1968年、日本のエレキバンド井上宗孝とシャープファイブが『春の海』を演奏した。オルガンで尺八、エレキギターで箏をイメージさせる演奏でアルバム『春の海』に収録された。同年、[日本コロムビア]のLP売上1位を獲得している。
 クラブDJアーティストであるDJ OSHOWが、『春の海』をサンプリングした『踊ル皿』という曲を発表している。
 ドカンと一発60分!・みごろ!たべごろ!笑いごろ!(伊東四朗と小松政夫が母子になるコント「ツンツク親子」で本曲を口ずさんだ)
 ハンニバル・ライジング - 本作のヒロインである紫夫人(Lady Murasaki)が琴で春の海を奏でるシーンがある。オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦!! - 番組冒頭、「正月特別番組」の表示が出された画面のBGMに使用。

 ◆宮城道雄は、今も鞆の浦から「春の海」を眺めている

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12655/ ---

 鞆の浦民俗資料館の前庭には、作曲家・箏曲家として名高い宮城道雄の像があります。1929年に発表した「春の海」で世界的にも評価された宮城道雄ですが、この曲は、父親の故郷であり、自身が幼少期を過ごした鞆の浦を思って創作したと言われています。宮城道雄は8歳で失明しており、光を失う以前に見た鞆の浦の海が、永遠の原風景として心に刻み込まれていたのでしょう。
 ◇宮城道雄の像―幼少期の追憶と共に


 …と、こんな「春の海」であります。
 そして、のどかな瀬戸内を臨めます崖淵には、「佐藤 徹」sanのアート作品『青い春の夢中』の展示が…


 ◆青い春の夢中
  佐藤 徹
  素材:鉄・プラスティック・ビニール

 ◆佐藤 徹 / サトウ トオル
 広島県福山市に生まれる。名古屋芸術大学大学院を卒業。
 ・展覧会歴--日本彫刻会 会員、愛知県作家団体(石田清発足)創彫会 会員
 ・鞆の浦deアート運営委員
 ・広島市中区 三親電材 本店ビル内エントランスに大型作品「誠実・奉仕・躍進」
 ・福山市 双葉電機本社前にブロンズ作品「喜働」社内にもその他作品展示
 ・社会活動--日本彫刻展、創彫会彫刻展、Metal Works34th、鞆の浦deアート、愛知県-東山動植物園、緑の中の彫刻展、ルクシアタふくやま


 …と、web上にはこんな記載がありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鞆城跡からの眺望も見終えましたので、「鞆の浦歴史民俗資料館」に入ろうかと思いましたら、そぅですネ…本日は日曜日ですから、残念ながら休館日でありました(^-^)
 それでは、鞆城跡を下り常夜灯に向かってみます事に。
 石段を下っておりますと、「鞆の浦周辺観光マップ」の前で、ご家族連れが写真撮影を…どちらから鞆に来られましたのでしょうネ…
 常夜灯にヤッて来ますと、観光客の皆様は、飲食をお楽しみでした。時間はと見ますと、うん、うん、13:00少し前でありました(^.-)☆


 ◆常夜燈

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12679/ ---

 鞆港西側の雁木の南端に立つ常夜燈(とうろどう=燈籠塔)は、何と言っても鞆の浦の1番のシンボルです。「安政六年己未七月」(1859年)に建造されました。
 南に弓状の港を有する鞆の浦は多島海の天然の良港で、豊後・紀伊水道がぶつかる瀬戸内海の中央部に位置し、“潮待ちの港”として栄えました。
 1826年、オランダ商館の医師・シーボルトは『江戸参府紀行』の中で「活気に溢れた町」と記しています。その港町の海上安全を支えたのが、この常夜燈なのです。

 ・“海上闇夜東西を失いし時”の燈台―海上安全のために
 竿柱の南面に「金毘羅大権現」、北側に「当所祇園宮」の石額を掲げていて、海上安全の守護神に対する寄進燈籠という形式をとっています。
 1871年の公文書に「油一日五勺、燈しん一日五厘」とあり、当時は油(ニシン油)の燈火で海を照らしていました。
 ◇石額の文字―金毘羅さんも祇園さんも海上安全の神様なんです

 ・江戸時代の港湾施設5点セットの現存は奇跡的
 江戸期の港湾施設である常夜燈、雁木、波止場、焚場跡、船番所跡がほぼ完全な形で現存しているのは、全国でも鞆港だけなんです。
 ちなみにこの常夜燈は、海中の亀腹型石積まで含めると10mを越す大きさで、港の常夜燈としては日本一。瀬戸内の誇れる景観です。
 ◇威風堂々、常夜燈のある景観―これぞ鞆の浦

 ・鞆の浦にはもうひとつ常夜燈があった!?
 現在残る常夜燈は、太田家(当時は保命酒屋・中村家)がある西町が勧請して寄進したものです。対して、反対側の波止の先端には大坂屋が寄進した唐銅燈籠(からがねどうろう)が建っていたといいます。明治15年の水害で流されたもうひとつの幻の燈籠。
 ◇この湾を東西から挟むようにふたつの常夜燈が…ロマンですね


 …と、こんな「常夜燈」であります(^-^)//"

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