2021/04/27(火) 岡山県矢掛町「史跡・猿掛城跡」散策 <4/4>

 

 

 

 「二の丸跡」を過ぎますともヤッと「本丸跡」に到着です。
 本丸は約300坪の広さで、南端は深い堀切により弥高山系と完全に分離され、その掘りあげた土により本南端は土塁を築いて三日月形に囲まれています。ご覧の画像の通り、南端には土塁が築かれています。この南側は大堀切。
 「史跡 猿掛城」の案内表示板と共に、こんな説明板がありました(^.-)☆


 ◆備中猿掛城址

 猿掛城は真備町妹(せ)と矢掛町横谷にまたがる中世以来の山城である。猿掛城築城のはじまりは東国の武将・庄太郎家長がこの地に地頭として赴任した際に当初、幸山城(こうざんじょう)(山手村所在)へ入ったが、防禦(ぼうぎょ)に不便として、元久2年(1205年)ごろ猿掛山へ新城を築いて移ったことによる。
 猿掛城は庄氏が366年間にわたり備中支配の拠点として利用した後、天正3年(1575年)に毛利元清が五千貫の領主として入城した。また、この城は天正10年(1582年)の高松城水攻めの際に毛利輝元の本陣となったことでも有名である。
 関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことにより、元清のあとを継承した毛利秀元が長府へ帰った後、慶長9年(1604年)、猿掛城に花房志摩守正成が五千石で入城したが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となり、元久以来の名城も410年間で終局を迎えたといわれている。

 --- 矢掛町教育委員会・猿掛城へ登る会実行委員会 ---

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本丸の南端には土塁が築かれています。この南側は大堀切。
 土塁から南斜面には、ロープが張られた急な斜面があります。ロープに掴まりながら20mほど降りると堀切があり、更に反対側に登った先は出城へ?がっていますようです。
 このロープに掴まり行ってみようかな…とも思いましたけど、滑ったら下まで落ちてしまいそうでチト躊躇。結局、断念となりました。
 本丸の南背後を土塁と大堀切、側面には畝状竪堀群と大きな竪堀が設けられていますようであります。
 猿掛城跡本丸跡より北東方面を展望しますと、左に妹山(せやま)や右に真備(まび)町妹(せ)集落が見えます。

 暫く本丸跡に留まり、遠い昔に想いを馳せておりましけど、ソロソロ退散で、下山です。
 「六の丸跡」まで下りて来ますと、そろそろロープが張られました難所ですから、留意して進まなければ…と思った途端に、斜面の積み重なった落ち葉に足を滑らせ、見事に転倒(^-^;
 思い切り尻餅をつき、尾てい骨を強打。手術後、まだ2ヶ月を経ましたばかりで、充分留意しなければならない箇所を強打ですから、もぅ真っ青のGONsan。暫く転倒したままで様子見となりまして、それから少しずつ起き上がろうとしますと、んっ!?、別段、違和感も痛みも不具合な状況も無く、無事、立ち上がれましたネ(^_^)v
 ですが、前進、歩行が恐ろしくて、まずは屈伸運動です。うん、うん、何とか正常で、ヤレヤレでしたねぇ〜
 本丸跡の土塁のロープに掴まり、出城方向に向かってみたいと思いましたけど、断念して正解でした。もし、あの斜面で滑って落下でもしておりましたら、無事ではおれませんでしたかも\(^o^)/
 こんな下山となりましたから、もぅ写真なんぞ撮ってる余裕はありません。
 ひたすら、慎重に、下山有るのみ。
 無事に、ロープの張られた場所を下りましてホッとしていますと、下山道の左側方向の樹木の生い茂りました中で、「ガサガサ!!」「バキバキ!!」の激しい音が(^-^;
 イノシシですねぇ〜こんな所でイノシシに遭遇しますと、もぅ、最悪。
 暫く息を殺して、立ち止まりますこと5分ばかり。10分ばかりは音を立てず動かずにいよう…とジッとしておりましたけど、この時間の長いこと(^-^;
 時計を確認しますと、ヤッと5分経過でした。
 イノシシと思われます音は、以降はありませんでしたから、また下山続行。
 ヤッと猿掛城跡への入口まで辿り着きまして、急いで入口のフェンスを開け、フェンスの外に出まして、また閉鎖。
 この時点では、尾てい骨強打の事はスッカリ忘れ去っておりまして、ただただ、無事下山の喜びのみでありました\(^o^)/

 車を駐めていました場所まで戻って来ますと、せっかく近くまで来たのだから…と、今度は、小田川の対面方向に存在します『吉備真備公園』に立ち寄ってみます事に(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

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