2021/04/27(火) 岡山県矢掛町「史跡・猿掛城跡」散策 <2/4> |
「大夫丸跡」には、案内板がありまして、これにはこんな記載がありました。
◆大夫丸の由来
天文2年(1533年)、猿掛城主の庄為資は松山城へうつり、備中半国の領主として、勢威隆盛を極めた。その際、為資は一族の庄実近猿掛城の城代として置き、これを守らせた。天文22年(1553年)、毛利元春の援助を受けた三村元親軍と庄為資軍が猿掛城のふもと、現在の横谷・東三成で激突し、大合戦となった(猿掛合戦)。しかし毛利元春の調停により、庄と三村は講話し、翌天文23年(1554年)三村家近の長男の三村元祐が庄為資が庄為資の養子となった。三村元祐が猿掛城主として入城したので、城代の庄実近は城の北側の郭へ退隠し、この郭を大夫丸と公称したといわれている。
--- 矢掛町教育委員会・猿掛城へ登る会実行委員会 ---
…と、こんな記載が(^.-)☆
暫し「大夫丸跡」を拝見し、また猿掛城本丸へと進みますと、ロープを縦横に巡らせた急斜面の場所に。ここは結構な難所なのでしょうねぇ〜ロープに手を掛けながら進みます。ロープが張られた場所を登りきりました地点で、帰路には足を滑らせ、大きく尻から転倒しましたGONsanです。帰路に、「もぅすぐロープの張られた場所だから足元に気を付けながら歩かないと…」と思った途端に、積み重なった落ち葉に足を滑らせドタッ!!と転倒。2月に福山医療センターで腰部脊柱管狭窄症で手術した箇所を強打となりました。
で、何とも無ければ良いが…と、恐る恐るロープの場所を下りて行きましたが、幸いにも現在に至りましても何ら転倒強打の影響は出ておりませんで、ヤレヤレなんですけど(^_^)v
とにかく落ち葉が積み重なっておりますから、歩き易い整備された遊歩道に見えましても、結構、神経は使いましたネ(^-^)//"
難所と言えるかどぅか分かりませんけど、猿掛城本丸までの唯一の難所を抜けますと、ほどなく「六の丸跡」へ到着です。
周辺を見廻しながら何枚かパチリ。そしてまた前進。そうしますと、次にヤッて来ましたのが「五の丸跡」でありました。
いずれも、周辺は草木が生い茂っておりまして、歩き廻りますとヘビでも出て来そうで、チト躊躇。控えめに周辺を見廻しますGONsanなのでありました(^-^)//"
五の丸を後にしますと、次は「四の丸」。
◆四の丸
--- https://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2013/01/blog-post_20.html ---
手前が四の丸郭部だが、その奥は三の丸の切崖である。比高5m前後とかなりの高さを保つ。四の丸の規模は、12m×20mとややこぶりなもの。
三の丸やこの四の丸・五の丸のほぼ中央部には南北に長くこのような2列に並んだ石列が残る。
『日本城郭体系』では、何らかの建造物を物語るもの、としている。実際、本丸では礎石配列と思わせる遺構が確認できたが、三の丸から下方の石列は、その配置から考えて建造物のものではないような気がする。
いずれ紹介する予定にしている播磨の「置塩城」などにもこうした石列状のものが散見されるが、これはほぼ生活及び雨水排水のための側溝跡で、猿掛城のに配置された石列はこれとは異質な用途と思われる。不可解である。
…と、WEB上には、こんな「四の丸」に関します記載がありました(^.-)☆
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