2021/09/27(月) 備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加 <3/5>

 

 

 

 荒神社の石仏・五輪塔の確認後は、また車で移動し、「寄(より)ノ宮八幡神社」へと向かいます。
 神社の近隣に車を駐め、神社までは少し歩いて…
 神社参道の石段を少し上がりますと、まず眼に入りますのが「寄(より)ノ宮八幡神社」と刻まれました比較的新しい石標です。そして、その先に「亀山八幡神社鳥居」が…
 石標には「寄(より)ノ宮八幡神社」なのに、鳥居脇の案内板には「福山市重要文化財『亀山八幡神社鳥居』」ですから、何で!?…

 WEB上で、「寄ノ宮八幡神社」を検索しますと、こんな記載が…

 ◆寄(より)ノ宮八幡神社

 --- 福山市沼隈町草深(平成20年3月23日) ---

 この神社は千年小学校の西に鎮座しています。社号標、鳥居の建つ北参道入口から、狛犬が二対もいる随神門までは約230m位でしょうか、階段や緩い坂の参道脇は豊かに木々が茂り、気持ちの良いミニハイクの気分が味わえます。境内は広く明るく開放的な感じで、大きな拝殿や立派な本殿、現役の神楽殿やしっかりと作られ祀られている境内社数社が点在し、静かで清々しい気分になれます。
 社名は神功皇后が瀬戸内海航行の途中、ここに船を寄せたことに由来し、天歴年間(947)の草創と伝えらます。宝治元年(1247)、天文8年(1539)、慶長元年(1603)と再修理されたことがわかっています。現在、社殿のあちこちに、室町時代の面影を残す美しい蛙又が使われています。
 参道の両脇にある常夜燈は、文政7年(1824)の作で刻まれた文字は、頼山陽の直筆ともいわれており、享保7年(1722)に書かれた三十六歌仙は特に素晴らしい宝物のひとつです。(沼隈町教育委員会)


 …と、こんな記載が。
 鳥居脇の案内板に眼を向けますと、

 ◆福山市重要文化財「亀山八幡神社鳥居」

 --- 福山市沼隈町大字上山南 1995年(平成7年)4月20日指定 ---

 享保8年(1723年)「山南草深惣氏子」によって寄進されたもので、高さ約4m、幅3.7m。製作は江戸時代後半に瀬戸内沿岸部を中心に活躍した尾道の石工平三郎によるものです。
 この鳥居の特徴は、笠木の両端に鳥衾を置いていることですが、現在向かって右側の鳥衾は欠落しています。鳥衾の付いた型式の鳥居は、全国的に数少なく、現在、沼隈半島南東部に3基(鞆町1基、沼隈町2基)確認されています。

 --- 福山市教育委員会 ---


 …と、こんな説明でありました。WEB上にも、似たような記載が…

 
◆亀山八幡神社鳥居(かめやまはちまんじんじゃとりい)

 --- 福山市市指定重要文化財 平成7年(1995年)4月20日指定 ---

 この鳥居の特徴は、笠木の両端が反り上がり、鳥がとまっているよう見える「鳥衾」を乗せていることだが、右の「鳥衾」が欠落しているのが残念である。この地方では、この形式の鳥居は3基確認されている。
 なお、銘文によると享保8年(1723年)に尾道の石工平三郎が造り、草深の惣氏子が寄進したものであることがわかる。


 …と、こんな記載も。
 リーダー達4名の皆様は、鳥居の左側脚部を注視され、何やら会話中。後でGONsanも見てみますと、「尾道石工平三郎」と刻まれた部分でありました。
 「亀山八幡神社鳥居」の案内板にも「製作は江戸時代後半に瀬戸内沿岸部を中心に活躍した尾道の石工平三郎によるものです」と記載がありますけど、何か問題でもありますのでしょうか?
 後で時間が取れましたら、お尋ねしてみようと思います。
 それにしましても、社殿へと続きますこの参道…結構、急な坂道で、おまけに距離も長いようです(^-^;
 この神社のお祭りが、どんな形で行われますのか分かりませんけど、御神輿を担いで上がるのでしたら、結構、体力が要りますかも(^-^)

 それにしましても、亀山八幡神社・寄ノ宮八幡神社と二つの神社名は何で?
 この疑問解消の為、WEB上で捜しておりましたら、こんな記載にヤッと納得となりました(^.-)☆

 ◆八幡(はちまん)神社

 --- にっぽんのじんじゃ http://flxsouko.web.fc2.com/tohoFSSjinja_hiroshima02-4-2.html ---

 福山市沼隈町草深に鎮座。千年小学校のすぐ西。
 往古、この一帯は下山南まで達する深い入海になっており、山南川河口付近には葦などの草が非常に生い茂っていたために「草深」と名づけられたといい、もとは山南村の一部だった。
 入海は現在の県道47号線、現在の山南川沿いに深く入り込んでいて、山の方からはその出口が見えなかったため、この地にあった泊りは「口無しの泊(無口泊)」と呼ばれた。
 源俊頼の歌集『散木奇歌集』の第六巻「悲歌」は、大宰府で亡くなった父の亡骸を伴って海路・水路にて帰京する途上に詠まれた歌を収めているが、口無泊について、「口なしのとまりときけば身にしみて いひもやられぬ物をこそ思へ」と詠まれている。
 水野家が福山藩主となってからこの地の新涯(新開地)開拓が行われ、入海は塞がれて農地となり、船の繋留所としての役割を終えた。
 現在は数多くのスーパーが立ち並び、沼隈南部の中心地となっている感じ。
 この八幡神社は、草深の産土神。
 もとは下山南の菅野というところに鎮座していたが、おそらくは入海の後退によって現在地に遷座した。その由緒によって「寄ノ宮(よりのみや)八幡宮」、あるいは社地の山名をとって「亀山八幡宮」と通称される。
 創祀は天暦年中(947-957)と伝わる。
 もとは山南にあったため、山南三村(上山南・中山南・下山南)の民もこの社を産土神としており、江戸時代には、まず八月十五日に山南村が先に祭を行い、草深村は二十五日に祭を行っていた。
 祭神は応神天皇、神功皇后、姫神と、宇佐八幡宮と同じ三神を祀る。
 八幡宮が遷座してくるまではこの地には地主神の津大明神が祀られており、八幡宮遷座後は末社となっている。
 この山も津大明神が向かいの田島から引っ張ってきたものという伝承があり、当時はこの辺りが海辺だったのだろう。
 また、岡崎宮・有安宮という二末社も鎮座している。岡崎宮は、岡崎悪四郎の霊を祀る。
 岡崎悪四郎義実は三浦氏庶家で、岡崎氏の祖。源氏の家人で、頼朝の挙兵時よりつき従い、鎌倉幕府御家人となった。伝承によれば、彼の孫の岡崎千太郎実忠は建暦三年(1213)の和田合戦に敗れ、この地に逃れて草深城を造り居住したといい、この地にはその子孫が多いという。
 調査によると、この社地は草深城跡とみられており、草深城の跡地に神社が建てられているとのこと。


 …と、こんな記載がありまして、うん、うん、納得のGONsanなのでありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 下から見上げますと、なだらかな坂に見えましたけど、歩いて上がって来ますと、それなりにキツい、そして、長い上り坂でありました(^.-)☆
 ですが、この4名の皆様、何ともない…とでも言いたそうなお顔ですから、感心してしまいます。
 日頃、運動等で鍛えておられますようにも見えないのですけど、とにかくお元気。この方々は、何者なんでしょうねぇ〜
 とにかく、本殿にと到着です(^_^)v

 

 

 

 

 

 本殿前の境内に到着しますと、まずは参拝を…かと思いましたら、境内を通り抜け、随身門を潜り常夜燈と言うか石灯籠に向かわれます。
 そして、石灯籠の脚部を入念にチェック・確認となりました。
 脚部には、多分、作られた石工のお名前が刻まれていますのでしょう。鳥居と同じ「尾道石工平三郎」と刻まれていましたのでしょうけど、この『平三郎』のお名前が「ヘイザブロウ」と読みは同じなのですけど、漢字が異なって刻まれていますのでしょうねぇ〜4名の皆様は、その点を会話しておられましたが、GONsanは社殿を見廻しておりまして、その会話をシッカリとは聴いていませんでした(^-^;
 でも、多分、そんな内容の会話だったものと推察です。
 後で、脚部の刻み文字を確認したのですけど、経年のせいか、何と刻まれていますのか、よくは分かりませんでしたネ(^-^;
 リーダーは、資料を取り出し加筆・修正をしておられますようでしたネ。
 裏参道から境内にヤッて来ましたから、GONsan達は随身門から出て行きましたが、表参道からヤッて来ますと、随神門を潜りますと狛犬が迎えてくれます。
 この狛犬の台座には、「尾道石工丈介」と、刻まれておりました。

 ◆尾道石工丈介

 随神門の随神は立像のようです。随身門裏側にも随神と狛犬がいます。浪速型ですが尾道石工丈介の作です。
 尾道石工の名工達の初期の作は浪速型の模倣から始まっています。寛政十二年(1800)、石工 尾道住 丈介 作。丈介は棟梁格の石工で安永から作品を残しています。
 徳島県の新宮本宮両神社に丈介作、安永六年(1777)尾道石工銘の最古の狛犬がいます。広島県三原市に天明六年(1786)の丈介作がいます。
 県内最古の尾道石工銘入り狛犬です。


 WEB上に、「尾道石工平三郎」で検索しますと、お名前程度しか出て来ませんけど、「尾道石工丈介」で検索しますと、こんな記載がありましたネ(^.-)☆
 随神門周辺を見廻しておりますと、「寄ノ宮八幡神社」の説明板が…

 
◆寄の宮(よりのみや)

 もとは下山南の菅野にあったものを、現在地に移したもので、亀山八幡神社ともいいます。天暦年間(947〜57)の創祀と伝えられ、1247年(宝治元年)、1539年(天文8年)、1602年(慶長7年)、1712年(正徳2年)に社殿が再建され、社殿のあちこちに、室町時代の面影を残す美しい蟇股(かえるまた)が使われています。
 境内には多くの石造物があり、最も古いものは1699年(元禄12年)の灯籠で、参道の両脇にある常夜燈は、1824年(文政7年)の作です。1723年(享保8年)に作られた鳥居は市の重要文化財に指定されています。

 --- 2013年(平成25年)3月 福山市教育委員会 ---

 …と、こんな記載でありました。
 大変立派な神社ですから、後日、また機会がありましたら、独りで再訪してみたいものであります(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

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