2021/09/27(月) 備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加 <1/5>

 ■2021年11月07日16:15
 9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(^.-)☆


 コロナの影響で、久しく備陽史探訪の会の行事に参加しておりませんでしたGONsanですけど、9/27(月)は、久し振りに「備陽史探訪の会『中世石造物調査(沼隈町)』」への参加となりました。
 WEB上で申し込みしておりまして、当日の集合場所であります「サファ福山・ユーホー北駐車場」に到着は、定刻の15分前。
 駐車場内を見廻しましても、それらしい方々のお姿は無し。一服しながら暫し待機となりました。
 集合時間の5分前くらいに、GONsanが佇んでいます脇のベンチに男性お二人が来訪。このお二人に眼を向けましても、備陽史探訪の会の関係者なのかどうかは分かりません。
 その内に、女性がお一人、このお二人に合流です。
 この3名の方の会話に耳を傾けておりましたら、話しの内容で、何となく「中世石造物調査」の参加者のようにも感じられ、「あのぉ、備陽史探訪の会の方でしょうか?…」とお尋ねしますと、「あぁ、そぅです…」のご返答。
 「本日の中世石造物調査に申し込みをしています○○です…」とお伝えしますと、「本日の参加者の確認をせずに来たけど、貴方も参加されるのですネ…」ですから、「んっ!?…」のGONsanでありました(^-^;
 なんでも聴くところによりますと、中世石造物調査には参加者が少なく、いつも4名で行っておられるとの事。
 ですから、この日の参加者は、いつものように、女性2名・男性1名、そしてリーダーらしき男性1名の計4名での実施を予定しておられましたようであります。
 これには、随分前から申し込み済みのGONsanは、唖然としてしまいましたネ。
 まぁそこは、大人のGONsanですから、グッと我慢あるのみ(^-^)
 とにかく定刻を少し過ぎて、女性1名が来訪。全員が揃いましたようであります。とは言いましても、確認しておられないのですから、GONsanのような申込者がおられますのか否かは、皆さん分かりません。
 それでも、定刻を過ぎましたから、いざ沼隈町へと出発です。が、4名の方々はリーダーの車に同乗で、GONsanは自分の車で追走となるようですねぇ〜
 まぁ実にエェかげんなリーダーであります(^-^;
 それにしましても、危ないところでしたネ。たまたま声を掛けて備陽史探訪の会関係者と確認出来ましたから良かったものの、ズッと待っていましたら、サッサと置いて行かれますところでしたよ。
 それに、ユーホー駐車場内の別の場所におりましたら、いつまでも分かりませんでしたかも…いゃいゃ、実にヒドい、この日のメンバーの皆さんでありました。

 それはともかく、『中世石造物』とは何なんでしょうねぇ〜
 WEB上で「中世石造物」を調べてみますと、宝篋印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔(ごりんとう)・板石塔婆(いたいしとうば)等の石塔を意味しますのかも…
 まぁよく分かりませんけど、この方々の後を付いて歩きますと、何を調査しますのか分かる事と思います。
 とりあえず、最初に向かいましたのが沼隈町下山南で、福山市沼隈体育館近くの山南川沿いの「辻堂」でありました(^.-)☆
 こぅした辻堂の屋根下には、よく観音菩薩が祀られていますけど、4名の皆様は、屋祢下の石仏を確認です。
 以前にも調査しておられますのでしょうネ…リーダーは、過去の調査書をめくり加筆しておられましたから(^_^)v

 そして、その後で、リーダーがGONsanにレクチャーです(^.-)☆
 「この石仏のように、上部の両端が脊側に反り返っているのが中世の創作で、そぅでないのは近世の作…」と言っておられましたような…
 う〜ん、このレクチャーを受けます際には何にもメモもしておりませんGONsanですから、せっかくド素人のGONsanを相手に初歩的なレクチャーでありましたのに、今となっては詳細を憶えておりません(^-^;
 ですから、その都度、色々教えて頂きましたけど、哀しいかな凡て記憶から薄れてしまいましたので、当時を想い出しながら綴りますと、間違った事を綴りそうですので止めときます(^-^;
 辻堂とお別れしますと、次は、沼隈町草深の道路沿いに存在します五輪塔へ。
 ふん、ふん、今回の「中世の石造物調査」は、五輪塔のようであります(^.-)☆

 
◆五輪塔

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔・墓として使われる塔の一種。五輪卒塔婆とも呼ばれる。
 一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。
 教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝珠型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。
 石造のものは石造美術の一分野として重要な位置を占める。

 ・材質と形態

 立体化された五輪塔の材質は石造のものが主体をなし、安山岩や花崗岩が多く使われている。古いものには凝灰岩のものが見られる。他に木製、金属製、鉱物製(水晶)、陶(瓦)製、土製の塔もある。
 五輪塔は下から四角(六面体)・丸(球)・三角(四角錐または三角錐)・半丸(半球)・上の尖った丸(宝珠型)または尖っていない団子型(団形)を積み上げた形に作られる。製作された時代・時期、用途によって形態が変化するのが特徴である。石造のものは変化に富んでおり、例えば鎌倉時代に多く作られた鎌倉型五輪塔とよばれるもの、一つの石から彫りだされた小柄な一石五輪塔(いっせきごりんとう)、火輪(三角の部分)の形が三角錐の三角五輪塔(伴墓の重源塔に代表される)、地輪(四角)の部分が長い長足五輪塔(ちょうそくごりんとう)、火輪の薄い京都型五輪塔とよばれるものなどがある。京都高山寺の明恵上人(1232年寂)の廟堂内にある五輪塔の火輪には反りがなく軒口もわずかに面を取る程度の珍しいもの。石造五輪塔の火輪は「三角」とするものの、屋根面と軒に反(そ)り、そして厚い軒口を持ちあたかも屋根のように造形するのが一般的である。ただし宝塔の笠によく見られる棟瓦や軒裏の垂木の造り出しは決して見られない(唯一の例外が京都革堂の五輪塔で軒裏に垂木様の刻み出しが見られる)。また、板碑や舟形光背(ふながたこうはい)に彫られたものや、磨崖仏として彫られたものもあり、浮き彫りや線刻(清水磨崖仏などに見られる)のものもある。石造火輪にはまれに「噛み合わせ式」のものが見られる。これは普通は火輪の上部を削平したうえに風輪を載せるのに対し、あたかも火輪の先端を風輪に突き刺したかように一体化したものであり、代表例として高野山西南院五輪塔(二基)が挙げられる。また古い五輪塔では火輪の上部に層塔の屋根のように露盤を刻みだすものがある。

 経典によれば、五輪はそれぞれ色を持ち、地輪は黄、水輪は白、火輪は赤、風輪は黒、そして空輪は全ての色を含む(「一切色」「種種色」)とされ、木造五輪塔の中にはこうした着彩が施されたものがしばしば見られる(空輪は青に塗る)。

 特殊な例としては、一般的に塔婆や卒塔婆と呼ばれる木製の板塔婆や角柱の卒塔婆も五輪塔の形態を持つが、五輪塔とは言わず、単に塔婆や卒塔婆という。卒塔婆(ソトウバ)はインドにおける仏舎利を収めたストゥーパの中国における漢字による当て字で、日本では略して塔婆や塔もといわれる。ただ、塔は近現代の一般的な塔の意味との混同があるため、現代では仏塔という場合が多い(詳しくは、仏塔や塔を参照)。つまり、五輪塔の形=仏塔のように扱われている。木製の角柱の卒塔婆は石造の墓を作るまでの仮の墓として使われることも多い。

 ・構造

 五輪塔は、下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形または団形=空輪(くうりん)によって構成され、古代インドにおいて宇宙の構成要素・元素と考えられた五大を象徴する。これらは『大日経』などの経典に現れる密教の思想の影響が強い。それぞれの部位に下から「地(ア ? [a])、水(バ ? [va])、火(ラ ? [ra])、風(カ ? [ha])、空(キャ ? [kha])」の梵字による種子(しゅじ)を刻むことが多い。四方に種子を刻む場合は四転、例えば地輪に刻むアなら→アー→アン→アクという具合に刻む方角によって変化する。種子は密教の真言(密教的な呪文のようなもの)でもあるので下から読む。

 宗派によって、天台宗・日蓮宗では上から「妙・法・蓮・華・経」の五字が、浄土宗では上から「南・無・阿弥・陀・仏」の文字が、禅宗では下から「地・水・火・風・空」の漢字五文字が刻まれる場合もあるが、宗派をとわず種子を彫ることも多い。日蓮正宗では必ず上から「妙・法・蓮・華・経」の五字を刻む。また、種子や文字のない五輪塔も多く存在する。
 木製の板塔婆(板卒塔婆)も五輪塔の形態を持つ。これには表に下から「地(ア ? [a])、水(バ ? [va])、火(ラ ? [ra])、風(カ ? [ha])、空(キャ ? [kha])」の梵字による種子を、裏には仏教の智慧をあらわす金剛界の大日如来の種子鑁(バン ?? [va?])を梵字で書くことが多い。木製には他に角柱の卒塔婆もあり、真言や念仏がかかれることが多い。

 ・歴史

 五大思想(宇宙の構成要素についての考え)は元来インドにあった思想で、五輪塔の成立にはインド思想を構築し直した密教の影響が色濃くみられる。インドや中国、朝鮮に五輪塔造形物は現存しないところから、五輪塔の造立がはじまったのは平安時代後半頃の日本においてと考えられている。『大日経』の解釈書である『大日経疏』や善無畏『尊勝仏頂脩瑜伽法軌儀』などには五輪塔図が現れるが、これは日本において書写されるうちに塔状に書きなおされたもので、本来は五大(四角、丸、三角、半円、宝珠型)がそれぞれ単独ばらばらに描かれていた。これからも五輪塔が日本において初めて成立したと推定できる。

 また、桃山時代の文献でしか知られていないが、醍醐寺円光院の石櫃には応徳二年(1085年)七月銘の高さ一尺ほどの銅製の三角五輪塔が収められていた(『醍醐寺新要録』)。内部に遺骨が納められていたというこの塔はいまも石櫃の中にあるはずで、これが今のところ年代が確かな立体的造形物としては最古の例と考えられる。実際に確認できる石造五輪塔では、奈良春日山石窟仏毘沙門天持物塔(保元二年(1157年)銘)や岩手県平泉町・中尊寺願成就院の有頸五輪塔(宝塔と五輪塔の中間タイプ)、同町・中尊寺釈尊院の五輪塔(「仁安四年(1169年)」の紀年銘)、大分県臼杵の中尾嘉応塔(嘉応二年(1170年)銘)などが最古例である。丸瓦瓦当に刻出された五輪塔も平安期にしばしば見られその最古の例として保安3年(1122年)創建の法勝寺の例が挙げられる。また天養元年(1144年)創建にかかると考えられる「極楽寺」の経塚からは陶(瓦)製の五輪塔が発掘されている(兵庫県姫路市香寺町常福寺蔵)。金属に遺された例では兵庫県徳照寺の梵鐘(長寛二年(1164年)銘)に鋳出された五輪塔像がある。絵画では、平清盛献納の『平家納経』の箱蓋に描かれたものや平安末期〜鎌倉初期に描かれた『餓鬼草紙』が古い例として知られている。木製のもので在銘最古の五輪塔は京都市左京区久多の志古淵神社蔵の「久多の五輪塔」で、高さ29.3pと小型だが、「平治元年(1159年)十二月九日」の年紀などが墨書されている。

 木製五輪塔はしばしば仏像胎内から発見され、特に運慶ないしその弟子による作品に発見されることが多い。近年海外流出が心配されて騒ぎになった運慶作(推定)の真如苑大日如来坐像(重文)の胎内にも木製五輪塔(歯を伴う)が収められていることがX線調査の結果分かっている。石造五輪塔が一般的に造立されるようになったのは鎌倉時代以降で、以後、室町時代、江戸時代を経て現在に至るまで供養塔や墓碑として造塔され続けており、現存するもの以外に考古遺物とし出土するものがある。

 初期の五輪塔の普及の要因としては、高野聖による勧進の影響といわれる。平安末期に『五輪九字明秘密釈』を著した覚鑁も元は高野聖といわれる。高野聖による五輪塔による具体的な勧進としては、五輪塔の形をした小さな木の卒塔婆に遺髪や歯などを縛り寺に集め供養する。
 真言律宗の僧叡尊や忍性も五輪塔の普及に係わったとされる。
 鎌倉時代の奈良東大寺再建にあたり、重源に招かれ宋より日本に渡り、日本に石の加工技術を伝え、後に日本に帰化した石大工伊行末(い・ゆきすえ)の子孫で伊派(いは)といわれる石工集団や、忍性と共に関東へ渡った伊派の分派大蔵派といわれる石工集団が、宋伝来の高度な技術で石塔などの製作を行った。それまで加工の容易な凝灰岩を使った石造五輪塔が一般的だったのに対し、鎌倉期以降花崗岩など硬質の石材を使ったものが多くなるのはこのためと考えられる。伊派や大蔵派が中心になり鎌倉時代以降に作られた五輪塔の形を後に鎌倉型という。また地輪を受ける基礎石の上面に返花座を刻みだしたものを大和式と呼び、これは大和地方から山城南部辺に鎌倉末期から南北朝期にかけての優品が残る。
 代表的なものには、当麻北墓五輪塔、石清水八幡宮にある航海記念塔(高さ6メートル)や岩船寺塔(高さ2.35メートル)などがある。三角五輪塔では奈良市三笠霊園内の伴墓五輪塔(伝重源墓塔)がある(以上いずれも重要文化財)。

 ・五輪塔の意義

 仏教で言う塔(仏塔)とは、ストゥーパ(卒塔婆)として仏舎利と同じような意義を持っている。しかし、小規模な五輪塔や宝篋印塔、多宝塔(石造)は当初から供養塔や供養墓として作られたのであろう。中世の一部五輪塔には、地輪内部に遺骨等を納めたものが現存する。また、供養塔・供養墓としての五輪塔は全国各地に存在し、集落の裏山の森林内に、中世のばらばらになった五輪塔が累々と転がっていたり埋もれていたりすることも稀ではない。現在多くの墓地で見られるような四角い墓は、江戸中期頃からの造立であるが、現在でも多くの墓地や寺院で一般的に五輪塔は見ることができる。覚鑁は経典の記述に基づき、五輪を人の五体になぞらえた図を残している。これが入定の姿と解されて墓塔や供養塔として多用されたものと考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 沼隈町草深の道路沿いに存在します五輪塔を確認されますと、次は歩いて「木の葉荒神社」へ向かいます。
 ここでは祠の片隅に置いてあります石を手に、リーダーが確認。五輪塔の一部なのでしょうけど、本体は何処に…近辺の石仏を整理しておられます時に発見され、この祠に祀ってありますのかも…
 リーダーと3名の方が会話しておられますけど、内容が難解ですから、GONsanにはよく分かりません(^-^;
 それにしましても、この4名は、何者なんでしょうねぇ〜ヤケに、中世の石造物に詳しいです。GONsanをノケ者にして(GONsanには難し過ぎる)会話をしておられます。
 この方達の現役時代の本職は、何しておられましたのでしょうねぇ〜
 学校の先生?…市役所の史跡担当部署にお勤め?…単なる趣味で、その道を究めて詳しい?…
 こらぁ、せっかく参加している一般ド素人のGONsanに、もっと初歩的な説明をしろぉ〜!!…と言いたいところですけど、レクチャーされましても分かりませんかも…まぁ、GONsanも質問もせず、写真を撮りまくっているのみですから、それで構わないのではありますが(^.-)☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 木の葉荒神社の次は、「曽我神社」に向かいますけど、途中、「地蔵堂」に立ち寄りです。道端の山際に存在します小さな祠ですから、立ち寄りと言いますよりも、眺めながら通過です(^-^)
 この地蔵堂を過ぎますと、細い道を山登り(^.-)☆
 ですが、スグに曽我神社にと到着です。ここには、五輪塔の一部が祀ってありました。祀ると言うよりも、無造作に置かれています状態でありましたネ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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