2021/12/25(土) 備陽史探訪の会「中世石造物調査(能登原)」に参加 <4/5>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 民家裏の墓地2ヶ所の調査・確認を終えますと、次は阿伏兎観音方向へ走行し、「あぶと本館」近くの墓地を訪問です。
 墓地近くには、「山本瀧之助先生頌徳碑」が…
 山本瀧之助sanとは、どんな方なんでしょう…脇には説明版がありました。

 
◆山本瀧之助 頌徳碑

 この碑は、青年教育に一生を捧げた山本瀧之助(1873〜1931)の業績をたたえ、1935年(昭和10年)教え子や関係者によって建立され た。題字は、彼の教え子である松永出身の大日本連合青年団理事丸山鶴吉、撰文は、同青年団理事長長田沢義舗による。
 山本瀧之助は、青年が学ぶことの大切さと、青年の全国的な組織の必要性を訴え、著作活動と講習活動を続け、青年達を指導した。「均しくこれ青年 なり」で始まる『田舎青年』や青年の修養を書いた『一日一善』や『早起』などの本は大きな反響をよんだ。
 また晩年は、120回にわたって全国各地を巡回した講習会を開催し、青年達を直接指導し交流を深めた。これらの活動によって、瀧之助は「青年の 父」とよばれ、尊敬された。景勝地阿伏兎は、全国巡回講習に先がけて試験的に講習会を行ったゆかりの地であることから、碑がここに建てられた。
 なお、彼の生家(内部非公開)は沼隈町草深奥組にあり、「山本瀧之助記念室」は福山市沼隈図書館に設置されている。

 --- 設置 2013年2月 山本瀧之助に学ぶ会実行委員会 ---


 …と、こんな方でありました。
 WEB上で検索しますと、こんな記載も…

 
◆山本滝之助

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 山本 滝之助(やまもと たきのすけ、1873年11月15日 - 1931年10月26日)は、明治〜昭和期の社会教育家、思想家。「青年団運動の先覚者」。広島県福山市出身。

 ・経歴

 広島県沼隈郡千年村(現・福山市)に農家の長男として生まれる。小学校卒業後、1889年尋常小学校雇となり、以後22年にわたり小学校教師、 その間、1905年校長に就任。
 教師生活のかたわら、居村を中心に地域の若連中の改善に取り組み1890年、「好友会」という青年会を結成し青年団運動を始める。また多くの青 年団体機関誌を発行。特に1896年、24歳のとき自費出版した代表的著作『田舎青年』は、地方にも近代社会に目覚めた青年がいることを主張して 注目された。
 当時、青年と言えば立身出世を目指す都会青年のみを意味し、実際人数の多い田舎青年は自己の希望を満たされず、世間から忘れられた存在であっ た。
 山本はこの著作の中で、都会青年も田舎青年も平等であると主張。「田舎に住める、学校の肩書なき、卒業証書なき青年」に目を向けるよう呼びか け、田舎青年の教育の重要性を指摘した。また「青年会を設くべし」と全国を巡講して実際を指導、各地の青年団の結成及び全国的な組織化に尽力。
 これらの活動は日本青年館の建設、大日本連合青年団結成を促した。山本の長年の功労に報いるため、財団法人日本青年館に設けられた顕頌会によっ て死後まもなく『山本滝之助全集』が刊行されている。

 そぅ言えば、昨年・9/27(月)に開催の「中世石造物調査」で「南泉坊」を訪れましたけど、その際にも境内に山本滝之助sanの石碑がありま したような…
 それでは、「山本瀧之助先生頌徳碑」スグそばの墓地に。ここでも、リーダーは確認のみですから、別段変わりは無いようです(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 この墓地でも、著変なく五輪塔の確認のみでありました。
 これで、今回の「中世石造物調査(沼隈町)」は、凡て終了となりました。で、ここまで来たのだから…と、最後に阿伏兎観音(磐台寺)に参拝して 帰る事となりました。
 断崖に立ちます観音堂に上がりますと、強風もありましたから、さすがに廊下の壁際を恐る恐るお詣りとなりましたネ(^.-)☆
 岬の岩上の十一面観音石像への参詣は躊躇。この強風では断念せざるを得ませんでしたねぇ〜
 境内の説明板には、こんな記載が…

 
◆広島県重文 磐台寺客殿

 --- 福山市沼隈町磐台寺 1962年(昭和37年)3月29日指定 ---

 この寺は、暦応年間(1338〜1342)に覚叟建智が開いたものと伝えています。一時衰 退し建物は荒廃しましたが、元亀年間(1570〜1573)に毛利輝元によって、観音堂とともに再建されたと伝えられています。
 この客殿は、桁行と梁間が五間半の入母屋造で、中央に仏壇の間を設け、左右に書院と奥の間を配した禅宗の方丈建築です。

 --- 福山市教育委員会 ---

 ◆阿伏兎

 --- 名称 鞆公園内 大正14年10月8日指定 ---

 けわしい海食崖が続く沼隈半島の南端、阿伏兎岬は奇勝として知られ、岬の突端の断崖に立つ磐台寺観音堂は阿伏兎観音と呼ばれ、 昔から海上交通の人々の信仰を多く集めてきた。
 観音堂は、寛和の頃(986)花山法皇が、このあたり一帯の海上を往来する船の航海安全を祈願して岬の岩上に十一面観音石像を安置 したのが開基と伝える。
 後、毛利輝元が再興し、福山藩主の水野勝種によって、現在の磐台寺境内の形をほぼ整えた。
 磐台寺観音堂と客殿は、室町時代の建築様式で知られている。
 本尊の十一面観音は、子授け・安産・航海安全の祈願所として広く信仰を集めてきた。
 朱塗りの観音堂は、海からの眺望は絶品で、観音堂の眼下に広がる燧灘(ひうちなだ)の展望もすばらしい。

 --- 平成5年2月 沼隈町教育委員会 ---

 

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