2021/01/25(月) 笠岡市甲弩「甲弩神社」散策(^.-)☆ <2/3>

 

 

 

 

 暫く「誠形苑公園」内の池(心字池)の景観を楽しんでおりましたけど、大変立派な池でありました(^.-)☆

 
◆心字池
 甲弩神社にある池「心字池」。中央の参道・二つの中島などで漢字の「心」という文字を形成しています。


 公園内には、『誠形苑』と刻まれました立派な石碑も存在しましたけど、この「誠形苑」とは何なんでしょうねぇ〜WEB上で『誠形苑』とか『誠形苑公園』で検索してみましたけど、何らの記述も出て来ませんでしたネ(^-^;
 『誠形苑』の石碑…何なのでしょうねぇ〜

 それでは、甲弩神社拝殿に向かおう…と石段を上がろうとして、再度、池を振り返りますと、何度眼にしましても本当に立派な池であります(^_^)v
 池の縁には二つの石灯籠(常夜灯)が存在しますけど、この石灯籠には、右側の石灯籠には4段の石段が…そして、左側の石灯籠には5段の石段が設けられておりました。石灯籠にこのような石段が設けられていますのも、仲々珍しくはありますネ。
 そぅ言えば、この石灯籠の対面側の鳥居脇に「百度石」がありました。
 この百度石にも、ちょっとした工夫が(^_^)v
 お参りされます方が、回数を間違われないようにと、百度石の中に何枚かの木の札が…きっと、10回お参りしたら1枚札を移動してカウントしておられましたのかも…確か10枚程度の木札でしたように思いますから(^-^)
 こぅして考えますと、この「甲弩神社」を創設されました方は、きっと大変心配りの有ります方でしたのかも分かりませんねぇ〜

 拝殿への石段の上り口には、「甲弩神社拝殿」の由緒が記されました案内板が…

 ◆市指定 重要文化財 (建造物)
 甲弩神社の拝殿


 甲弩宮山の中腹に鎮座する甲弩神社は、若建吉備津彦命をまつり、古くは甲弩郷の郷社であったと伝えられる。明治以前は艮(うしとら)宮などと呼ばれていた。
 幣殿は笠岡市内でも最古級の拝殿建築として知られる。桁行三間、梁間二間、屋根は入母屋造。 向拝は一間で唐破風造。
 屋根改修の際に、破風内側に残る墨書が発見され、宝永七年(1710年)の再建であることが確認された。棟札も残っている。大工棟梁は塩田長右衛門安次。
 また、寛永十四年(1637年)以降の棟札が大切に伝えられており、境内の建物建立、屋根葺替えの履歴をたどることができる。(境内説明文)

 --- 昭和38年2月20日 指定 笠岡市教育委員会 ---


 拝殿には猿田彦命のお面が奉納されています。
 隋神門の中には、弓を手にされました二体の人物が…これが、どなたなのかは、哀しいかなGONsanには分かりません(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 拝殿前から南側方向に存在するのが「阿部山」である。
 阿部山は、平安時代の陰陽師の安倍晴明が、この山頂で天体観測をしたことからこの名がついたという。

 ◆安倍 晴明

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 安倍 晴明(あべ の せいめい/はるあき/はるあきら、延喜21年1月11日(921年2月21日) - 寛弘2年9月26日(1005年10月31日))は、平安時代の陰陽師。「晴明」を「せいめい」と読むことが多いが、これは音読みであり、諱本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖。官位は従四位下・播磨守。

 ★史実上の人物像

 ・出自

 晴明の系譜は明らかでないが、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)あるいは淡路守・安倍春材の子とされる。
 各種史書では『竹取物語』にもその名が登場する右大臣阿倍御主人の子孫とする。ほかに、阿倍仲麻呂の子孫とする説話、あるいは、一部の古文書では安倍朝臣晴明ではなく安倍宿禰晴明と記載されるものが散見されること、また当時は「朝臣」を「宿禰」の上位に厳格に位置づけており、朝臣姓の子孫が宿禰姓となることは考えにくいことから、阿倍御主人の子孫である安倍朝臣姓の家系ではなく、同じく阿倍氏の一族である難波氏(難波吉士、のち忌寸、宿禰)の末裔ではないかとする説もある。

 ・経歴

 921年(延喜21年)に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれたとされる。また、生地については、奈良県桜井市安倍とする伝承もある。幼少の頃については確かな記録がないが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたという。加茂氏の門下生であり、のちに両家は二大陰陽家となる。
 948年(天暦2年)大舎人。960年(天徳4年)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇に占いを命ぜられており、出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたことが伺える。50歳頃、天文博士に任ぜられる。貞元2年(977年)、保憲が没した頃から陰陽道内で頭角を現す。陰陽寮を束ねる陰陽頭に就任することは無かったが、位階はその頭よりも上位にあった。

 979年(天元2年)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行う。
 このころから花山天皇の信頼を受けるようになったらしく、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになったことが、道長の日記『御堂関白記』などの当時の貴族の日記から覗える。そのほか、『小右記』によると、正暦4年(993年)2月、一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復したため正五位上に叙された。また、『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004年)7月には深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものと認め被物(かずけもの)を与えたことなどが記されている。
 陰陽師として名声を極めた晴明は、天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し主計権助を務めた。その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、位階は従四位下に昇った。さらに晴明の2人の息子安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。

 ・末裔

 系譜上安倍晴明の後裔とされる家柄としては、堂上家では、安倍氏嫡流の土御門家と、江戸時代にそこから分家した庶流倉橋家があり、明治以降は共に子爵に列せられ、子孫が現存する。また、地下家の幸徳井家も、系譜上は賀茂氏であるが、家祖友幸が安倍氏出身であり、安土桃山時代の当主・友豊まで晴明の男系血脈が続いた。
 しかし、土御門・倉橋両家に関すると、安倍晴明の男系血脈は、宇多源氏綾小路家の子で倉橋家の養子となった倉橋有儀(1738年 - 1784年)と、その息子で土御門家の養子となった土御門泰栄(1758年 - 1806年)の代で断絶しており、現在の土御門家・倉橋家当主はいずれも更に養子相続を繰り返した結果、戦国時代の安倍氏当主土御門有脩から数えて共に4回の女系を経ることで存続している。
 一方、土御門有脩の娘が勧修寺晴豊の妻、土御門泰福の娘が倉橋泰章(土御門久脩から5代目の男系子孫)の妻、さらにその泰章の娘が萩原員領の妻になり、みな子を残しているため、勧修寺家・萩原家をはじめとする幾つかの堂上公家・華族の子孫、および現皇室に、女系を経て安倍晴明の血脈が受け継がれている。
 詳細は「土御門有脩#末裔」および「土御門久脩#末裔」を参照。

 ・奉祀

 墓所は京都嵯峨にあり、渡月橋の近くにひっそりと眠っている。
 安倍晴明を祀る神社は、屋敷跡に建てられたという一条戻橋近くの晴明神社や、生誕地とされる大阪市阿倍野区に建てられた安倍晴明神社、東国では数少ない晴明ゆかりの社立石熊野神社、尾張で毒蛇退治をした際に居住していた屋敷跡の名古屋晴明神社など全国各地に存在する。
 後世の陰陽師が、晴明にあやかろうと信仰したため、日本各地に晴明塚といわれる塚を建立し、祀った。
 詳細は「安倍晴明の所縁」を参照。

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