2021/11/16(火) 紅葉を求めて佛通寺散策 <1/6>

 ■2021年11月29日19:59
 11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆


 いつでしたか、TVニュースで「佛通寺の紅葉の見頃は、11/15〜11/25頃…」と言っておりましたので、11/16(火)は紅葉を求めて仏通寺を散策となりました(^.-)☆
 嫁さんにも声は掛けたのですけど、あいにく所用でダメとかで、GONsan独りでの佛通寺行きとなりました。
 平日とは言え、遅くなりますと参道は渋滞するかも…と、我が家を出ましたのは、A.M.9:00過ぎでありました。
 早く出掛けた積もりですけど、それでも、仏通寺到着は、ほぼ1時間後のA.M.10:05となりました(^-^)
 幸いに、渋滞も無く駐車場にはスンナリと入場。
 佛通寺の駐車場は何ヶ所かありますけど、平日のこの時間帯には、凡ての駐車場に余裕で駐められたものと思います。駐車料金は、500円でありました(^.-)☆
 佛通寺の本堂に渡る木橋の上流に設けられました駐車場から、ノンビリと歩いて本堂入り口方向へ…
 途中、「御許神社」の石標がありましたので、帰路に立ち寄ってみます事に(^-^)
 本堂入り口の木橋辺りまでヤッて来ますと、参道の紅葉が大変キレイ(^_^)v
 本堂に渡る木橋付近には、大木のラカンマキが…スグ傍らには、こんな説明書きがありました(^-^)//"


 ◆佛通寺のイヌマキ

 --- 広島県天然記念物 昭和36年11月1日指定 ---

 佛通寺の本堂に渡る木橋の手前左手にある大木で、通常ラカンマキと呼ばれている。
 根回り周囲4.50m、胸高範囲3.52m、眼通り幹囲3.56mで、地上約4.00mのところで、東西の二大支幹にわかれる。約5.00mの高さで、東方の支幹は更に四大枝に、西方のものは五大枝にわかれる。更に上方35mで、両支幹は多数の小枝をわけてほうき状に展開し、短だ円状の樹冠をつくっている。
 イヌマキは、本州中部以南の暖地に生育する喬木で、五〜六十年前には幹囲3.00m以上の大木は諸所に生育していたようであるが現在ではきわめて少ない。また雄雌異株の樹種であるが、佛通寺のこれは雄株である。
 イヌマキ科・学名 Podocarpus macrophylla D.Don
 佛通寺の開山・愚中禅師が植えたものであると伝えられ、県下有数のイヌマキの巨木である。

 
--- 三原市教育委員会 ---

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本堂拝観の前に、周辺の紅葉の景観をパチリです(^.-)☆
 駐車場〜本堂間の景観を画像に納めます方々の多い事(^-^)川沿いの紅葉は、まさに見頃でありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 それでは、自販機で拝観券を求めて、本堂・境内に向かってみます事に。
 木橋を渡りますと、山門横に佛通寺の説明案内板が…これには、こんな記載がありました。

 
◆佛通寺

 --- 三原市史跡・名称 昭和38年12月17日指定 ---

 佛通寺は、1397年(応永4)小早川春平が愚中周及禅師を迎えて建立した臨済宗の禅刹である。小早川一族の帰依を受けてまたたくまに寺勢は隆昌し、最盛期には山内の塔頭88ヶ寺、西日本に松寺約3千ヶ寺を数えるに至った。しかし応仁の乱(1467〜1477)ののち荒廃にむかい、小早川隆景の治勢になってやや再興したものの、福島・浅野と時移り、しだいに往時の面影を失ったのである。
 近代に入ると一転して法灯はおおいに挽回され、1905年(明治38)、臨済宗佛通寺派として独立復旧し、参禅道場をもつ西日本唯一の大本山として今日に至っている。境内全体の規模や堂宇跡の配置などには見るべきものがあり、貴重な文化財も数多く保存されている。特に含暉院の開山堂および地蔵堂は、佛通寺創建当初のたたずまいを偲ばせる現存最古の建物である。


 WEB上で、佛通寺を検索しますと、こんな記載も…

 ◆佛通寺

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 佛通寺(ぶっつうじ)は、広島県三原市にある寺院で、臨済宗佛通寺派の本山。山号は御許山。本尊は釈迦如来。中国三十三観音霊場第十二番札所、山陽花の寺二十四か寺第二十一番札所。
 紅葉時期の景観はすばらしく、県内屈指の紅葉の名所として多くの参拝者や観光客が訪れている。
 御詠歌:わがつみを お許しうけて 今日よりは 仏にかよう こころうれしき

 ・歴史

 佛通寺は、1397年(応永4年)小早川春平の開基、愚中周及の開山により創建された。春平は奉公衆として京都で足利将軍家に仕えており、同僚の那珂宗泰と親しかった。春平は宗泰から、那珂氏の所領にある天寧寺にいる愚中の名声を聞き及び、彼を招いて氏寺を建立することで、南北朝時代の動乱のさなか自立性を強めた一族内の結束を図ろうとした。佛通寺の名は、愚中周及の師である即休契了を勧請開山とし、その諡号「仏通禅師」から取られており、場所は佳き山水の地を選んで建立された。1409年(応永16年)には後小松天皇から紫衣の着用が許されたが、同年愚中は示寂、以後弟子たちは愚中派として臨済宗の中で一派を形成した。1441年(嘉吉元年)足利将軍家の祈願所となり、小早川氏のほか毛利氏の保護も受けの帰依を受けて、最盛期には塔頭88、西日本に末寺約3,000寺に上ったという。しかし、応仁の乱以降寺勢は衰え、小早川隆景の代でやや盛り返すも、その後の権力者の変転の中で取り残されていった。明治維新後は、上地により寺領を失い、諸堂は荒廃していった。1876年(明治9年)に臨済宗各派が独立すると天龍寺派に属したが、浅野氏の外護により、同年に含暉院が再興されその後は地蔵堂が改修され三門が建てられた。そして1905年(明治38年)には天龍寺から独立して臨済宗佛通寺派を称し、その本山となった。

 ・伽藍

 法堂:仏殿を兼ねる。寛政8年(1796年)の火災の後、広島藩主浅野氏の外護によって文化文政年間(1804-1830)に建立された。本尊は宝冠釈迦坐像、脇侍に文殊菩薩・普賢菩薩が祀られている。天井には菅南山筆の雲龍図が描かれている。
 大方丈「降魔殿」:本尊は十一面観音像で、中国三十三観音霊場第十二番札所となっている。
 庫裡、小方丈、禅堂、鐘楼、宝蔵、経蔵。
 開山堂:内部には佛通禅師と大通禅師の木像と石造宝きょう印塔が安置されている。
 地蔵堂(重要文化財):開山堂に並んで建っている。応永13年(1406年)建立で、開創当時のまま残る建物である。桁行き3間、梁間3間、一重宝形造り本瓦葺き。内部には地蔵菩薩坐像を安置する。
 茶室、大書院。

 ・文化財

 重要文化財(国指定)
 佛通寺含暉院地蔵堂 附:須弥壇 - 応永13年(1406年)建立。含暉院の仏殿として建立。様式は折衷様で、桁行3間、梁行3間の一重宝形造、本瓦葺(元は茅葺)。
 絹本著色大通禅師像 附:紙本墨書大通禅師墨蹟(1407年(応永14年))、紙本墨書大通禅師消息(1408年(応永15年)) - 大通禅師像は14-15世紀の作。愚中周及自身の賛によると、「前作州太守天心順公居士」こと小早川春平のために着算された。図様は、右手で自身の頭頂部を撫でるという、「頂相としては極めて特異な姿で描かれている。姿も黒衣に褐色の袈裟、節だらけの自然木の曲?(椅子)に座し、像主の質素な暮らしぶりを思い起こさせる。墨跡は示寂する2年前に書かれ、同じ内容のものが他にもある。消息は寺の政所宛で、京都を離れたらそのうち佛通寺に帰ろうと思うのだが、足利義持の意を受けた小早川則平(春平の子)の策略で叶いそうもない、寺のことは覚隠真知に申し付けるので諸事相談するよう述べる。義持は愚中を極力京都近郊に留めようとしており、愚中はこの後佛通寺には帰れなかった。
 広島県重要文化財
 木造佛通禅師坐像
 木造大通禅師坐像
 紺紙金泥細字法華経 附:木製漆塗六角経幢
 佛通寺文書
 佛通寺正法院文書
 金剛般若波羅蜜経版木
 延命地蔵菩薩経版木
 登録有形文化財
 多宝塔 - 開山堂脇に立つ。昭和初期の建築で、軒周辺の材料に反りをもたせせ、整った塔姿が特徴の近代の多宝塔。
 広島県天然記念物
 仏通寺のイヌマキ(ぶっつうじのいぬまき)は広島県指定天然記念物(1961年11月1日指定)。参道正面左側、県道50号線と佛通寺川に架かる巨蟒橋の間にある。樹高約20m、胸高幹囲3.52mのイヌマキ(犬槇、学:Podocarpus macrophyllus)の巨木。雌株。仏通寺開山の愚中周及禅師のお手植と伝わる。


 …と、こんな「佛通寺」であります(^-^)//"

 

 

 

 

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