2021/11/21(日) 備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加 <6/6> |
「鬼橋野路古墳」の見学を終えますと、時悠館入口・バスの駐車場方向へと下山です。次は、今回の探訪の最後の訪問地「史跡 寄倉岩陰遺跡(よせくらいわかげいせき)」に向かいます。
上帝釈の駐車場に到着しますと、紅葉を求めて帝釈峡をされます大勢の観光客の皆様が(^.-)☆
大概の方々は、「白雲洞」・「雄橋」に向かわれますけど、GONsan達は、白雲洞への遊歩道入口を『← 史跡 寄倉岩陰遺跡 0.2km』の標識に従い左折です(^.-)☆
寄倉岩陰遺跡への案内標識と一緒に、「管釣り LURE FISHING SHOP、HANDMADE LURE & ROD、Ryo Lure Craft、Fishing Area TAISYAKU」の案内表示も…
『管釣り』とは、何なんでしょう?…ふ〜ん、「管釣り=管理釣り場」との事ですけど、GONsanには『管理釣り場』と言われましても意味不明(^-^;
そのような事はさて置きまして、「管理釣り場」を横目に進んで行きますと、程なく『史跡 寄倉岩陰遺跡』に到着となりました。
到着しますと、まず眼に入りますのが、大きな「寄倉岩陰遺跡」の説明板であります。
この説明板には、こんな記載が…
◆史跡 寄倉岩陰遺跡
この遺跡は、帝釈川北岸の山麓の石灰岩の岩陰に位置する。遺跡の規模は、岩陰に沿って幅30m、奥行15m以上に及ぶものと推定される。昭和38年から41年にかけての発掘調査により、縄文時代より鎌倉時代にわたる多量の遺物を含む文化層が厚く堆積することが明らかとなった。とくに、縄文時代の遺物包含層はきわめて厚く、晩期(今から約2,500年前)から早期(今から約12,000年前)にいたる各種の遺物が順次堆積している。また、縄文時代後期から晩期ごろと思われる人骨も多数出土しており、その埋葬法もきわめて特異である。この遺跡は包含層の一部を完掘せずに保存区として残しており、エポキシ樹脂を注入し硬化させ、更に正面部分のみを残し埋め戻している。
大規模な岩陰遺跡として、とくに縄文時代全般の推移をうかがい得る点で学術上きわめて価値が高い。
…と、こんな記載がありました。
WEB上で「史跡・寄倉岩陰遺跡」を検索してみますと、こんな記載もありました。
◆広島県の文化財 - 寄倉岩陰遺跡
--- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-106120090.html ---
【解説】
帝釈峡の石灰岩地帯では、昭和36年(1961)の調査以降石器時代の岩陰・洞窟遺跡が多数分布することが明らかとなった。なかでも寄倉岩陰遺跡は、帝釈始終地区の東端、帝釈川左岸に位置し、西面した石灰岩の岩陰にそって、長さ30m、幅15m以上の規模をなしている。縄文時代から鎌倉時代(1192〜1332)にわたる遺物を出土しているが、とくに縄文時代(紀元前約1万年前〜紀元前300年頃)の文化層が厚く、縄文時代早期から晩期にいたる各種の遺物が、きちんとした層序をなして出土しており、中四国地方の縄文土器編年の基準となる重要な遺跡である。縄文時代後期末から晩期にかけての文化層では、約50体にのぼる人骨が集積された状態で検出されている。
◆寄倉岩陰遺跡(よせくらいわかげいせき)
広島県庄原市東城町
指定年月日:1969/04/12
・史跡名勝天然記念物
帝釈川北岸の山麓にある石灰岩の岩陰にそって全長30メートル、幅15メートル以上におよぶ岩陰遺跡である。繩文時代から鎌倉時代にわたる多量の遺物が堆積しているが、とくに繩文時代の遺物包含層はきわめて厚く、早期より晩期にいたる各種の遺物が順次堆積している。また、繩文時代後期から晩期ころと考えられる人骨も多量に出土している。
◆寄倉岩陰遺跡(よせくらいわかげいせき)
--- 国指定史跡ガイド「寄倉岩陰遺跡」の解説 https://kotobank.jp/word/%E5%AF%84%E5%80%89%E5%B2%A9%E9%99%B0%E9%81%BA%E8%B7%A1-1445286 ---
広島県庄原市東城町にある集落跡。1961年(昭和36)の調査によって、帝釈(たいしゃく)川北岸の山麓にある石灰岩地帯には、石器時代の岩陰・洞窟遺跡が多数分布することが明らかになった。この中で寄倉岩陰遺跡は最大規模で、石灰岩の岩陰に沿って全長30m、幅15m以上にわたる。縄文時代から鎌倉時代にかけての多量の遺物が堆積しているが、とくに縄文時代の遺物包含層は厚く、早期から晩期にいたる各種遺物が層をなして出土している。これらは中国・四国地方における縄文土器の編年の基準遺跡とされ、1969年(昭和44)に国の史跡に指定された。また、縄文時代後期から晩期ごろと考えられる人骨約50体が集められた状態で発見された。現在、遺跡は保存施設が設けられ、堆積層の一部を見学できる。遺跡は帝釈峡の鍾乳洞の白雲洞(はくうんどう)や石灰岩の雄橋(おんばし)などにも近い。中国自動車道東城ICから車で約20分。
◆広島県東城町の寄倉岩蔭遺跡
--- http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/yosekura.html ---
帝釈峡遺跡群は広島県の北東部一帯に所在し、瀬戸内海や日本海から直線距離で約60km離れた中国山地南斜面の高原に位置している。
帝釈峡の石灰岩地帯で、昭和36年に帝釈馬渡岩陰遺跡の発見が糸口となって、石器時代の岩陰遺跡・洞窟遺跡が多数分布することが明らかとなり、現在までに53の遺跡群が確認されていると云う。
石灰岩地帯にある洞窟・岩陰の遺跡は、人骨・動物骨など自然遺物の遺存状態が良好で、且つ各時期の遺物包含層が整然と連続して堆積している。
洞窟・岩陰は天然の廂で、雨・露を防ぐ絶好の場所であり、廂の前面に柱穴列が検出された例もあり、草葺の住居としていたと見られる。内部には灰・炉跡・敷石・石列・貯蔵穴などが見つかっていると云う。
寄倉よせくら岩陰遺跡は、帝釈川北岸の山麓にある全長約30m・奥行き約15m・地表面下10m以上にわたる、帝釈峡遺跡群の中で最大の岩陰遺跡と云われている。
本遺跡は縄文から鎌倉時代にわたる複合遺跡で、特に縄文時代は早期から晩期に至る13層に及ぶ文化層から多量の遺物が整然と層序を成して出土したと云う。
又縄文後期末から晩期にかけての文化層からは多数の人骨が出土しており、縄文時代の墓葬に新しい資料を提供している。
このようなことから本遺跡は、昭和44年に国史跡に指定された。
本遺跡は帝釈峡入口近くの帝釈川左岸にあり、昭和38〜41年にかけて4次にわたる発掘調査が実施された。
その後40年ほどの風雪は当時の面影を残していないが、発見された遺構の中で、特に注目されたのは埋葬人骨群。岩壁南寄りの2ヶ所に人骨が集積された状態で発見され、全部で46体分の人骨が確認されている。
未調査・保存区には更なる人骨が埋葬されていると見られている。
人骨群は某大学に保存されたまま、未だ詳しい分析は行われていないが、頭骨と四肢骨が分離されている点、抜歯の痕跡、赤色顔料の付着、幼児骨の一局集積状態、石剣の柄頭を伴った人骨など、興味深い謎が多い。
集積された埋葬人骨群から意図的に集められた改葬或いは二次葬と考えられ、地域集落の共同墓地であったかも知れないと云う。
・縄文後期の中津式土器及び中期の里木式土器
これらの復元土器を含め土器の層位的出土例から、中国山地地域の土器編年が組み立てられると云う。
土器の中には、胎土の中に植物繊維を混ぜた早期後葉の東日本系新型土器も見つかった。
この他九州系土器も出土しており、当地は南に瀬戸内海・北に日本海を控え、海が果たした文化交流・交易が窺い知れる。
・いろいろな形の石鏃と黒曜石製の石刃・剥片
鋭利な切先・刃部を必要とする石鏃・石刃などの石材には、X線分析の結果、石鏃は香川県産サヌカイト、黒曜石は隠岐島産など遠隔地から入手している。大分県姫島産の黒曜石も見つかっている。
ここにも瀬戸内海と日本海に通じる地理条件を十分に活かした、生活の知恵が垣間見える。中国・四国地方の文化交流圏に位置していると云える。
…と、「寄倉岩陰遺跡」に関しまして、色んな記載がWEB上にありましたネ(^-^)//"
「史跡・寄倉岩陰遺跡」の見学を終えますと、本日の行程は凡てオシマイです。後は、バスに乗って帰るのみ。
帰路では、トイレ休憩で「『道の駅』遊YOUさろん東城」に立ち寄りです。
ここでは、ニコニコ観光郭anより、『やっぱ広島じゃ割・地域観光支援割クーポン』のクーポン券が、一人当たり2枚(2,000円)配布されておりましたので、GONsanもこれを使用して、何かお土産を求めます事に(^.-)☆
今まで、嫁さんを放って独りでアチコチ出掛けていますGONsanではありますが、お土産を手にしての帰宅は一度も無かったなぁ(^-^;
でも、今回は、初めてお土産が\(^o^)/
それに、唐櫃古墳を訪れました際に、農家で頂いた「カボチャ」もありますし(^_^)v
コロナ禍と言う事もありますし、備陽史探訪の会の「バス例会」には久し振りに参加のGONsan。確か、前回は昨年の9月に参加して以来でしたような…約1年振りの参加となりましたけど、それなりに楽しい探訪でありました。
来年もまた、日程を考慮しながら、バス例会に参加してみようかと(^-^)//"
これらは、備陽史探訪の会より頂きました当日の資料です(^.-)☆
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