2021年 日本のビール王「馬越恭平ゆかりの地」散策 <1/4> |
■2021年07月13日16:35
6/22(火)は、「日本のビール王・馬越恭平」ゆかりの地を散策でした
先月でしたか…内田康夫著「還らざる道」(浅見光彦シリーズ)にノンビリと眼を通しておりましたら、「日本のビール王・馬越恭平」のお名前が出て来ました。
内田康夫sanの作品には、『この作品はフィクションであり、文中に登場する人物、団体名は、実在するものとまったく関係ありません…』と注釈がありますにも関わらず、結構、実在した人物も登場して来ますから笑ってしまいます。
まぁ、登場人物のお名前を、毎回、色々考えますのも大変でしょうから、いくつかは実在の人物名を使用しますのも楽でしょうし、事実をアレンジし導入します方が面白い事もあるでしょうし(^-^)
まぁ、そのような事はさて置きまして、『日本のビール王・馬越恭平』sanが、井原市木之子町のご出身であります事を全く知りませんでしたGONsan。生家も実在しますとの事ですから、6/22(火)は、「日本のビール王・馬越恭平」ゆかりの地を散策となりました(^.-)☆
まずは、WEB上で「馬越恭平」sanの事前学習です(^.-)☆
◆馬越 恭平
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日(天保15年10月12日)-1933年(昭和8年)4月20日)は、日本の実業家。三井物産に勤務し、大日本麦酒(日本麦酒、朝日麦酒、札幌麦酒の合併会社)の社長を務めた人物。大日本麦酒の大合同合併を画策し、「日本のビール王」とよばれた。衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。茶人・馬越化生としても知られた。
・経歴
備中国後月郡木之子村(現・岡山県井原市)の医家に生まれる。興譲館にて阪谷朗廬に学ぶ。
1856年(安政3年)、大阪に出て頼山陽の弟子後藤松陰の門下を経て、1859年(安政6年)、その当時の豪商、鴻池家の丁稚となった。1873年(明治6年)、上京して井上馨の先収会社に入社。1876年(明治9年)先収社解散後、その事業を引き継いだ三井物産の創立と共に、三井家各部の常務理事、専務理事を兼務した。三井物産横浜支店長や帝国商業銀行頭取などを経て、総ての任を辞し、1896年(明治29年)日本工業倶楽部会長に就任。
日本麦酒との関係は、これより先の1892年(明治25年)、経営困難に陥っていた同社へ、三井物産から派遣され委員(重役)に就任したことが発端である。その後、日本麦酒の経営が多忙となり、1896年(明治29年)1月11日、三井物産を退職し、ビール会社経営に集中する。骨董収集家でもあった馬越は、時の財界総理井上馨から自慢の壺を強要されるが、これを断わったため井上の逆鱗に触れ日本麦酒に飛ばされたとも言われている。1900年(明治33年)頃には銀座にビアホールを開店するなど、新しいアイデアで経営の再建を進めた。
1898年(明治31年)、第5回総選挙に立候補して当選、岡山県選出の衆議院議員となる。1904年(明治37年)には勲四等に叙せられた。
合併前の厳しい市場競争で日本麦酒の経営危機が改善せず、渋沢栄一及び当時の内閣に働きかけ「国内の過当競争排除と輸出の促進、資本の集中化を図るための」合併勧告を引き出した。1906年(明治39年)、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の3社を合併し、大日本麦酒株式会社が設立されると社長に就任した。その後、大日本麦酒は市場占有率を79%までに高め、馬越恭平は「日本のビール王」と呼ばれた。
また鉄道業にも多く関与し中国鉄道取締役、豊川鉄道取締役会長、井原笠岡軽便鉄道社長、金剛山電気鉄道社長をつとめた。
1924年(大正13年)、貴族院勅選議員となり、研究会に所属した。1933年(昭和8年)、大日本麦酒が日本麦酒鉱泉と合併交渉を行っている期間に死亡した。
・出生地
恭平の出生地である岡山県井原市では、「まこし」ではなく「うまこし」と呼ばれている。恭平は郷土を深く愛し、墓参りに度々帰郷し、帰郷すれば必ず郷土の教育や土木に多額の金品を贈って、郷土の繁栄を念じていた。井原市の小田川には、恭平が架橋にかかわり、馬越の名前が付けられた「馬越橋」(うまこしばし)がある。当時の橋は老朽化によって架け替えられ、現存はしていないが、橋名は現在もそのまま存続している。また、恭平の生家は現在も残されている。
・栄典 -- 1928年(昭和3年)11月10日 - 勲三等瑞宝章
・家族 親族 -- 次男・幸次郎(1873年生)は恭平と同じく実業界に進んだ。妻の秦(1889年生)は日本橋の老舗織物問屋「槌屋」の娘。幸次郎の長男・恭一は井上三郎の長女と結婚、幸次郎の四男・慎思は教育者。慎思の妻は鷹司信熙の長女・睦子。恭一・慎思兄弟は恭平の孫にあたる。
◆馬越恭平生家(うまこしきょうへいせいか)
--- 井原市観光協会 ---
後に大日本麦酒の社長に就任し、「日本のビール王」と呼ばれるなど、まさに日本実業界の重鎮となった馬越恭平は、代々医者の家系に生まれました。
13歳で丁稚として大阪に出るまでを過ごした生家が、現在も木之子町に残っています。
◆馬越恭平 翁
--- http://www.ibara.ne.jp/~nori/nori/menupage/f-nikki/turezurenikki/2020-/2020beer-king.htm ---
先日、渋沢栄一翁が地元井原に縁が有るという話をしましたが、そのつながりからの地元の偉人です。
現在の井原市木之子町に生まれました。代々医師の家系ですが、思わぬ才能を発揮しました。色々と伝記は伝わっておりますし書物も出版されておりますが、今回の紹介はサッポロビール様のホームページより。
・恵比寿ビールが危機的状況
東京を代表するビールとして、関東市場で絶大な人気を誇っていた恵比寿ビールでしたが、札幌麦酒東京工場製の札幌ビールの出荷が開始された1903(明治36)年、製造量は前年に比べ30%ほども落ち込んでしまいます。
日本麦酒は長年保ち続けてきた首位の座を大阪麦酒に明け渡したばかりか、札幌麦酒にも抜かれ第3位に転落してしまいました。
・難航する合同劇
壊滅的な打撃を受けた日本麦酒の社長馬越恭平は1904(明治37)年、札幌麦酒の社長渋沢栄一と監査役の大倉喜八郎、大阪麦酒の社長鳥居駒吉と会い、日露戦争に当り、いたずらに国内競争をしているときではなく、団結すべきだと論じました。
馬越の考えは渋沢や鳥居にも受入れられ、合同することで各社の希望が一致します。
しかし3社合同の基本線は決まったものの、その細目を巡って交渉は難航。札幌麦酒は東京工場の稼働で20%以上も製造量が伸び、業績は極めて好調でした。
大阪麦酒にしても大阪市場を中心に強固な基盤を築いていました。会社のトップ同士では承認されているとはいえ、3社の実力はほぼ均衡し、成長産業としての意気盛んな各社の利害は容易にまとまらなかったのでした。
・3社合同、大日本麦酒設立
難航する合同劇の局面打開に重要な役割を果たしたのが、時の農商務大臣 清浦奎吾でした。第一次桂内閣で農商務大臣を務め、おりから勃興する諸産業、特に輸出産業について、国際競争力強化を目指し“分立から合同へ”の施策を進めた人物です。
清浦は3社の代表者を招き自ら斡旋の労をとりました。
清浦の熱心な働きかけにより、1906(明治39)年3月、市場シェア70%をも占める日本最大のビール会社、大日本麦酒株式会社が設立されました。社長には馬越恭平が就任。
後に馬越は、大日本麦酒をスエズ運河以東最大のビール会社へと導き、“東洋のビール王”と呼ばれました。
ここまでは、当たり障りのない照会文ですが、まだまだ色々と武勇伝をお持ちです。ぜひググってみてください。面白いエピソードを保証します。
◆馬越恭平とは
--- https://www.okayamania.com/spot/chomei/makoshi.htm ---
家に帰ったら、まずビールで一杯…という人も世の中にはおられるようですね。
実は岡山県はビール王と呼ばれた実業家・馬越恭平を排出しています。
馬越恭平は、1844年に岡山県、現在の井原市木之子町に生まれました。家は代々医師の家系だったそうです。12歳で大阪へ丁稚に出て、その後、三井物産の社員として手腕を発揮しました。
ビール王と呼ばれるようになったきっかけは、三井物産が株を保有していた日本麦酒が経営危機に陥った際に、再建のために馬越さんが派遣された事がきっかけです。
非常に商才に長けた方で、89歳で亡くなるまで現役で活躍し続け、ビール以外にも鉄道関係の仕事や、政治家としても活躍。
生涯に役員として関わった会社は100を超えるそうです。
ビール王と呼ばれるまで、当初は株を保有していた会社へ派遣される形でビールの会社へ携わっていましたが、後に日本麦酒の経営に専念するために三井物産を退職しています。
ビアホールという和製英語を作るなど、様々な手法でビールの普及に努めました。
また大型の合併を取りまとめることで【大日本麦酒】を設立、なんとビール業界において約7割のシェアを持つ会社になりました。
このような事から、馬越強兵さんはビール王と呼ばれるに至ったのです。
※ 大日本麦酒社は過度のシェアを持ちすぎる事を理由に、戦後に2つに分割され、現在のアサヒとサッポロになりました。
・井原市と馬越恭平
井原市には馬越恭平が生まれ育った生家が残されており、立派な門が代々医師だったという家柄を伺わせます。
母屋があった場所は、現在は公民館になっていますが、馬越恭平さんについてを知ることができる資料館も併設されています。
若くして岡山を離れた馬越さんですが、郷土への愛情は人一倍強かったそうで、多額の寄付が行われており、現在では架け替えられこそしたものの、金銭的な援助をしたと言われる『馬越橋(うまこしはし)』の名称が残されています。
生家から近い所にある三光寺という寺院にお墓があり、夫婦で入られています。
…と、こんな凄い人物のようであります(^_^)v
それでは、早速、現在は、木之子公民館になっているようですが、馬越恭平sanが生まれ育った生家を訪れてみたいと思います(^-^)//"
車を駐めようにも駐車場は特にありませんようですから、とりあえず駐車可能なスペースに駐め、馬越恭平sanの生家を拝見です(^.-)☆
道路に面しました表側は画像に納めましたので、前・中・奥の三列の建物の内の、木之子公民館として使用されています真ん中(二列目)の建物に向かい、駐車・生家見物の許可を求めますと、事務所内のスケジュール掲示板に何やら記入しておられます男性が、「あぁ、イィですよ。奥の建物は『馬越恭平資料館』ですから、今からご案内しますよ(^-^)」との事で、ご親切にも、「馬越恭平翁顕彰会」の方が管理しておられます『馬越恭平資料館』に入らせて頂ける事に(^_^)v
普段はあまり訪れる方もおられませんようで、施錠しておられ、来訪者がありますと、その都度、解錠されますようであります(^-^)
馬越恭平sanは、この地に高校時代までおられ、以降は木之子より出ておられますから、この資料室には『馬越恭平翁写真資料室』の名の通り、凡て写真が展示です。
これらの写真を拝見しておりますと、木之子を出られましてから以降の輝かしい軌跡が、充分理解出来ましたネ(^-^)/
若くして岡山を離れた馬越さんですが、郷土への愛情は人一倍強かったそうで、多額の寄付が行われており、現在では架け替えられこそしたもの、金銭的な援助をしたと言われる『馬越橋(うまこしはし)』の名称が残されていますように、郷土愛は、お亡くなりになられるまで、ズッとお持ちでしたようですネ(^-^)//"
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