2020/09/29(火) 井原市美星町「中世夢が原」散策(^.-)☆ <5/9>

 ◆三斎市

 中世は、市の発達をみた時代でもある。町内には今も八日市という三斎市(日を決めて月に三回立つ市で、八日市の場合は毎月八のつく日に開かれた)のあとが伝えられている。
 しかし、建物は既に建てかわっており、往時を知るには絵巻物がもっとも重要な資料となる。
 それによると、草葺きの掘立小屋もあるし、板屋根で壁囲い、売り台のついたものもある。それらは、終戦−昭和20年直後の闇市などとも共通するところがあったと思われる。

 

 

 

 

 

 

 ◆チャンスン(Jang-Seung)

 チャンスンとは、村の入口や道端に立てた木像あるいは石像をいい、木で鳥をかたどったソッテと合わせて祭られ、韓国の全土に分布している。初の記録は、新羅の景徳王18年(西暦759年)に遡る。
 上部に人または鬼の顔が刻まれ、胴体に天下大将軍、地下女将軍などの文字が彫り込まれ、多くは男女一対になっている。また、村の東・南・西・北に祭られ、それぞれ青帝・赤帝・白帝・黒帝将軍と彫り込まれたものもある。
 チャンスンは、境界標、里程標、守護神の役割をもっており、1〜3年ごとにチャンスン祭を挙行し、村の安全と方策を祈る。

 このチャンスンは、平成13年9月8日、日韓比較文化交流事業「神懸りの共演と解説」の開催を記念して、韓国の沃浪文化財団(理事長金玉浪氏)から寄贈されたものです。なお、製作はチャンスン祭りをよく伝承している京畿道ムカブ村の職人の手によっています。

 

 

 ◆屋敷

 平生は農業に従事しながら、村約をつとめ、非常時には城へも駆けつける半農半士の家を想定している。この地方では、山城から至近のところにある本家筋の家がそれに相当する。中世も終わりの頃になると、それらの家は、おそらく現在にも伝わる近世以降の建築様式に近いものであったと思われる。
 なお、脇にある社は、町内に現存する株神を模したもので、摩利支天(まりしてん)の神がまつってある。ちなみに、摩利支天信仰は、中世において武家社会で流行したものであり、古く士分であったことを伝えているとみられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでは次に、物見櫓に向かってみます。
 正面に「城主の館」を眼にしながら歩いていますと、途中に「遠藤周作碑」が…石碑には、

  
その昔この山野で私の祖先が戦った
  その祖先の血が 町の人と私とを結びつけている
  星ぼしの美しいこの土地よ 私の血の故郷よ -- 遠藤周作 --


 と、刻まれておりました。何でまた遠藤周作氏の石碑が、この「中世夢が原」に?…と、WEB上で調べてみますと、

 ◆遠藤周作「血の故郷」2017.01.24XML
 (https://plaza.rakuten.co.jp/bittyu5mati5ttm/diary/201701230002/)

 テーマ:ちいさな旅〜お散歩・日帰り・ちょっと1泊(35428)
 カテゴリ:★『井原線ウォークのひとこま』

 中世夢が原は、吉備高原の中世の邑を再現したテーマパークです。
 一番奥に城主の館、その裏に物見櫓がある。城主の館に行く道沿い、物見櫓の下に狐狸庵先生こと遠藤周作氏の「血の故郷」の石碑がある。
 このテーマパークは小笹丸城のイメージを再現しているようで興味深い。
 遠藤氏の母方の祖先が小笹丸城にゆかりがあるということで公園計画のアドバイザーをしておられたことも、もっと周知を図るべきだ。
 もっと世に知らしめて歴史ファンにアピールすべきという意見が多かった。
 今回のバス&ウォークのコースは井原市の貴重な観光資源としてこれから適切に整備して欲しいと思いました。
 中世夢が原と小笹丸城址は一連の観光資源であり、美星町に点在する星伝説や化石や地層なども再整備して欲しいものだ。もったいない…との声が多かった。


 …と、こんな記載が。「小笹丸城」は、この「中世夢が原」の北西方面に位置します城跡なんですけど、ふ〜ん、遠藤氏の母方の祖先が小笹丸城にご縁が…で、ここに「遠藤周作碑」が設置されていますのですねぇ〜

 ◆遠藤 周作

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年(大正12年)3月27日 - 1996年(平成8年)9月29日)は、日本の小説家。随筆や文芸評論や戯曲も手がけた。

 ◇来歴・人物

 父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に伯母の影響でカトリック夙川教会で洗礼を受けた。1941年上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。
 その後、慶應義塾大学文学部仏文科に入学。慶大卒業後は、1950年にフランスのリヨンへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を浴びた。第三の新人の一人。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『海と毒薬』『沈黙』『侍』『深い河』などがある。1960年代初頭に大病を患い、その療養のため町田市玉川学園に転居してからは「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けた。

 無類の悪戯好きとしても知られ、全員素人による劇団「樹座」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンや日本キリスト教芸術センターを立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。
 『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。
 狐狸庵先生などと称される愉快で小仙人的な世間一般の持つ印象とは異なり、実物の遠藤周作は、おしゃれで痩身長躯すらりとした体つき(戦後間もない時代に183cm)の作家であり、豪放磊落開放的な態度で一般とも接するのを常としていた。

 ◇生涯

 ・出自
 1923年3月27日、東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区北大塚)に、第三銀行に勤めていた銀行員遠藤常久と東京音楽学校ヴァイオリン科の学生郁(旧姓・竹井)の次男として生まれた。父・常久は東京帝国大学独法科在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。
 かつて鳥取県東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)にあった遠藤家は、江戸時代に鳥取の池田家に御典医として仕え、維新後同地に移り住んだ開業医だった。明治後期から終戦後まで当地で医業に当たったのは遠藤河津三で、花見村長和田(現・湯梨浜町長和田)には出張診療所も設け繁盛した。しかし、河津三には子どもがなかったため、鳥取市生まれの常久を養子に迎えた。父・常久は後に安田工業の社長などを歴任する実業家となる。軽井沢の泉の里に持っていた別荘から白水甲二という筆名を編み出し、『きりしたん大名 大友宗麟』という作品を遺している。
 母・郁は現在の岡山県笠岡市出身で、岡山県の土豪竹井党を遠祖に持つ。後に周作は、この遠祖の地(現在の岡山県井原市美星町中世夢が原歴史公園)に「血の故郷」と題した石碑を建立している。


 …と、こんな記載が、Wikipediaにも。
 今回は立ち寄りませんでしたけど、「城主の館」の後方には「美星天文台」が(^-^)//"

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