2020年 「高見山」&「因島大橋」散策(^.-)☆ <3/5> |
大浜PA手前から因島大橋下の海岸にと下りて来ますと、どなたもおられないものと思いましたら、若者3人が釣りを楽しんでおられました(^.-)☆
閑散とした海岸ですから、3人しかいないのにも拘わらず、この若者達の賑やかな声がヤケに周辺に響き渡っておりました(^-^)/
賑やかな若者達を横目に燈台方向に進んでいきますと、行き当たりに「因島八十八ヶ所霊場一番札所『霊山寺(りょうぜんじ)』」が(^.-)☆
◆霊山寺(りょうぜんじ) --- 因島八十八ヶ所霊場一番札所(島四国:しましこく) ---
・霊山寺(りょうぜんじ)の概要
因島八十八ヶ所霊場一番札所となっている霊山寺(りょうぜんじ)は因島大浜町、因島大橋記念公園の西端の海岸にあるお寺です。
・因島に伝わる弘法大師伝説
むかし尾道に住む漁師が四国へ漁に出た帰りに一人の旅僧から「どこでもよいから舟の着いたところへおろしてもらえないかね」と便乗をたのまれたので快く舟に乗せ、途中なにごともなく、大浜の現在灯台のある浜辺へ降ろしました。
旅姿の僧侶は厚く礼を言って上陸しました。漁師が見るともなしに振り返ると、たった一人乗せたはずの旅僧がみるみるうちに増えて八十八人の僧が次々と上陸して行きました。
この話は人から人へと伝えられ弘法大師が因島へ渡られたのだという噂が広まったのでした。その後も奇跡的な事がたびたびあったので、明治45年因島の全村が話し合い島四国(しましこく)として、因島八十八カ所の札所を設けることになり全島民の奉仕により巡拝路程84kmが整備されました。
毎年旧暦の3月20日に「お大師さん」と呼ばれている行事が行われます。
・島四国のお接待
「因島八十八ヵ所霊場」を地元では「お大師さん」(おだいしさん)と呼んでいます。因島では、毎年旧暦の3月20日に「お大師さん」 と呼ばれている行事が行われます。
因島の霊場を巡礼する「お遍路さん」のことで、お堂を守っている地区の住民がお茶と菓子を用意して巡礼者の「お接待」をしてくれるのです。
・因島札所伝説
むかし尾道に住む漁師が四国へ漁に出た帰りに一人の旅僧から「どこでもよいから舟の着いたところへおろしてもらえないかね」と便乗をたのまれたので快く舟に乗せ、途中なにごともなく、大浜の現在灯台のある浜辺へ降ろしました。
旅僧は厚く礼を言って上陸しました。漁師は見るともなしに振り返ると、たった一人乗せたはずの旅僧がみるみるうちに増えて八十八人の僧が次々と上陸して行きました。
この話は人から人へと伝えられ弘法大師が因島へ渡られたのだという噂が広まったのでした。
その後も奇跡的な事がたびたびあったので明治45年因島の全村が話し合い島四国として、因島八十八カ所の札所を設けることになり全島民の奉仕でつくされました。この巡拝路程は84qで3日間のハイキングコースに絶好、旧3月21日(お接待の日)を中心に付近の島々や、かつては遠く北海道方面からも大師のご遺徳を偲び村上水軍の遺跡や美しい島のまわりの景色を訪ねつつ、島人の厚い情にひたる参拝客も多い。
…と、WEB上で調べますと、こんな「因島八十八ヶ所霊場一番札所『霊山寺(りょうぜんじ)』」のようであります(^.-)☆
それでは、燈台に向かってみたいと思います。
「大浜埼燈台記念館」の標識近くには、こんな案内板が…
◆航路標識の歴史 --- はじめに ---
眼前の布刈瀬戸をご覧下さい。大きい船や小さい船が航行しているのが見えるでしょう。
一目見ると自由に海を走っているようですが、海には陸上の道路と同じように「航路」というものがあるのです。安全に船が走れるよう船に教えているのが「航路標識」の役目です。
航路標識といえば、なじみの少ないことばですが、その中で代表的なものが、眼の前にある燈台や海の上に浮かんでいるブイ(灯浮標)などです。航路標識は、常に船が位置を確認するために設置された「海の道しるべ」などです。
海の道しるべは、光だけでは天候が悪い雨や霧の日には利用できないし、遠くの海では利用できませんので、遠くの海や天候の悪い日でも利用できる電波を利用したものも多くあります。
これから航路標識の歴史について学んでみましょう。
そして、少し上がった場所にも、また案内板が…
◆航路標識の歴史 --- 航路標識のはじまり ---
昔、人が海を渡り始めたときは自然の山や岬を目標として航海をしていました。しかし船の発達とともに夜でも利用でき、遠い距離から目標を知ることが必要になってきました。
今から約2,300年前、エジプトのナイル河の入口にあるフアロス島に、当時のエジプト王トレミー二世が60メートルの塔をつくり、毎夜、ヤシの木をたいて航海の目標としました。
この灯火は、遠くの海上から見えたと言われています。これが世界の燈台のはじまりです。
日本では約1,200年前、平安時代仁明天皇が遣唐使の一行が日本に帰るのが遅いのを心配して、昼は「のろし」、夜は「かがり火」を太宰府の防人に命じて、航海の目標にさせたということが、「続日本後記」という書物に記されています。これが日本の燈台のはじまりです。
このように燈台は、外国でも日本でも、交易等によって船の航行が多くなるにつれ、しだいに発達してきました。
ふ〜ん、「航路標識」には、こんな歴史がありますのですねぇ(^-^)//"
浜埼燈台記念館に到着です(^.-)☆
◆大浜埼灯台記念館(旧大浜崎通航潮流信号所)について
灯台に関する資料等を展示。外から展示品を見学できます。
布刈瀬戸は、水路が狭く屈曲しており、潮の干満時は潮流が速いため、操船が非常に難しい領域として知られていました。
大浜埼灯台記念館は、明治43年(1910)に船舶通航潮流信号所として設置された建物です。木造平屋建てで、屋根には塔屋と呼ばれる白く塗られた三つの塔が設置され、白亜の灯台とともに美しい景観を形成しています。
明治43年建築の木造建築が、風波の過酷な立地環境のなか、現在まで残存していることは貴重といえます。
尾道市を代表する貴重な歴史遺産として、平成23年4月21日広島県重要文化財に指定されました。
…と、こんな「大浜埼燈台記念館」でありますけど、無人ですから建物内には入れず、窓から覗いての見学ですネ(^-^)
周辺の案内表示板に眼を向けてみますと、
・ガス貯気缶
灯台に使用される光源は、現在すべて電気です。電気を使用する前にアセチレンガス(カーバイトに水を加えて発生するガス)を使用した時代がありました。
この缶は、ガス発生器から出たアセチレンガスを蓄えておいたものです。
・信号柱(旗竿)
無線通信が普及する前は、船舶と陸地との交信は信号旗を使うことが多くありました。
万国船舶信号書(アルファベットのAからZまでの旗があり、この旗を組みあわせ全世界で意味がわかる書物)により、日本ばかりでなく外国の船舶や軍艦からの信号を受けた時は、この信号柱に国際信号旗を掲げて応答しました。
現在では、無線電信や無線電話が発達し使用しているところはありません。
…と、こんな記載でありました(^-^)
大浜埼燈台記念館には「音声ガイド」もありますけど、残念ながら永年故障中のようですねぇ(^-^)//"
こんな案内表示板もありました。
◆大浜埼船舶通航・潮流信号所
瀬戸内海の三原瀬戸(布刈瀬戸)、来島海峡、関門海峡は水路が狭く、屈折しており潮の干潮の時は潮流が速いため、船の操船が大変難しいところで知られていました。今日のようにレーダーもなく、エンジンの馬力も小さく船の性能が良くない時代には、出来るだけ早く海峡付近を航行している船の状況や潮流の方向を確認する必要がありました。
明治43年4月、この布刈瀬戸を航行する船舶のため、大浜埼船舶通航信号所(布刈瀬戸の船舶交通の状況を昼間は建物の上にある三つの塔の横画に○、△及び□の印を出して、夜間は塔の上から光を出して船に知らせる。)と大浜埼潮流信号所(布刈瀬戸の潮流の方向を形象を掲げて知らせる)が設置され、この管理を行ったのがこの建物です。
三原瀬戸の高根島、来島海峡の中渡島、関門海峡の部埼、台場鼻、火ノ山下、赤坂に、同じ頃このような業務を行う施設が設置されましたが、現在は、中渡島、火ノ山下、台場鼻のほかは航海技術の発達により、その必要性がなくなり大浜埼船舶通航、潮流信号所は、昭和29年に廃止になりました。
木造の建物として残っているのは、大浜埼だけで、重要な文化遺産ともいえます。
「←灯台へ」の標識に従って、大浜埼灯台へ向かおうとしますと、また案内板が眼に入りましたので拝見です(^.-)☆
◆長太夫灯標旧灯ろう
因島市細島の北方にある長太夫灯標に使用されていた灯ろうです。灯ろうは、内部に設置されるレンズ、灯器を保護する役目をしています。
-- 長太夫灯標の経緯 --
明治13年02月05日-- 長太夫灯標設置(石造・紅黒横線塗)
明治27年05月15日-- 不動白色灯(揮発油)を設置
長太夫灯標となる(百貫島灯台の管理)
明治34年12月08日-- 塗色変更(紅色)
大正10年02月28日-- 光源変更(アセチレンガス)点滅灯となる
大正10年04月01日--大浜埼信号所の管理となる
昭和49年11月25日-- 光源変更(蓄電池)
昭和61年03月15日-- (浮標式変更に伴い北方位標識となる)
塗色変更(上部黒・下部黄)
ふ〜ん、この放置されました紅い灯ろうは、お役御免となりましたものを保存しておられますのですねぇ〜
近くには、「←検潮所・大浜埼灯台→」の案内標識もありましたけど、今回は「検潮所」行きははパス。次回の機会に行ってみようと思いますので大浜埼灯台へ。
海岸方向に少し下って行きますと、またまた案内表示板が…
◆大浜埼灯台
「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関の関(関門)」ということばがあります。これは全国でも潮流の速い海峡を示しています。
瀬戸内海を航行する船舶は、潮流が一番速く危険が多い来島海峡を通る必要がありました。このため、ひうち灘から布刈瀬戸、三原瀬戸を通過して周防灘に出れば、比較的潮流の影響を受けないで航行することができます。
この航路のため、明治27年5月、百貫島灯台、大浜埼灯台、長太夫灯標、小佐木島灯台、高根島灯台、大久野島灯台、鮴埼灯台、中ノ鼻灯台、大下志摩灯台等がほぼ同時に建設され点灯しました。
-- 灯台の要目 --
位置 -- 因島市(布刈瀬戸因島北端)北緯34度21分17秒 東経133度10分36秒
構造 -- 円形 石造 灯質--等明暗白光 明3秒暗3秒
光度 -- 3,500カンデラ
光達距離 -- 13.5海里
高さ -- 基礎上から灯台の頭部まで9.3m 平均水面から灯火中心まで18.0m
…と、こんな記載でありました(^.-)☆
この案内表示板から、今度は少し上がって行きますと、また案内表示板です。
◆大浜埼灯台
〜三原瀬戸の玄関口〜
大浜埼灯台は、三原瀬戸を航行する船舶の安全を図るため、明治27年(1894年)5月15日に点灯を開始しました。三原瀬戸は、強潮流で知られる来島海峡の迂回路として、備後灘から安芸灘に至る水路に百貫島灯台、小佐木島灯台や高根島灯台など8基の灯台とともに同時期に建設されています。
この灯台は、明治43年(1910年)4月に業務を停止し、運航船の状況や潮流の速さを船舶に通知する「大浜埼船舶通航信号所」として新たに業務を開始しましたが、昭和29年(1954年)4月に業務を停止し、灯台の業務を再開しています。
位置 -- 北緯34度21分28秒
東経133度10分24秒
光り方 -- 等明暗白光 明3秒暗3秒
光の強さ -- 3千5百カンデラ
光の届く距離 -- 11.5海里(約21km)
高さ -- 地上から灯台頭部 約9.3m 水面から灯火 約18m
管理事務所 -- 尾道海上保安部 電話 0848-22-2109
…と、こんな「大浜埼灯台」であります(^-^)//"
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