2020/07/21(火) 笠岡市「かさおか太陽の広場」散策 <4/5>

 

 

 

 

 

 

 

 ◆近持 イオリ -- EARTH VIBRATION --

 近持 イオリ Iori CHIKAMOCHI
 1959 滋賀県大津市に生まれる
 1985 金沢美術工芸大学彫刻科卒業、同卒展作品買い上げ、渡米留学(ニューヨーク)
 1991 第7回ヘンリー・ムーア大賞入選(彫刻の森美術館賞受賞)
 2010 石山縄文しじみ貝塚の塔記念碑を設置(大津)
 2018 くにたちアートビエンナーレ2018 大賞受賞
 [作品収蔵施設] 浜寺公園・全国高校テニス選手権大会記念碑(大阪)、美々夘本店(大阪)、阪急石橋駅前公園(大阪)、 弘前市総合学習センター(青森)、岩手県役場彫刻公園(岩手)、湖北町役場前公園(滋賀)、象潟町(秋田)、大生機械(埼玉)、美ヶ原高原美術館(長野)、西浅井中学校銘板石碑(滋賀)、やしろ国際学習塾(兵庫)、関ケ原製作所(岐阜)

 ◆近持 イオリ Iori CHIKAMOCHI

 1985 金沢美術工芸大学彫刻科卒業、同卒展作品買い上げ、渡米留学(ニューヨーク)
 1990 須磨離宮現代彫刻コンクール準入選
 1991 第7回ヘンリー・ムーア大賞入選(彫刻の森美術館賞受賞)
 1996 第2回かさおか石彫シンポジウム入選、参加(岡山)
 1993 アートヒルズ三好ヶ丘1993 彫刻フェスタ入選(特選受賞、愛知)
 1994 第5回足立区野外彫刻コンクール入選、第3回石のさとフェスティバル1994 入選
 1995 国立とうや湖ぐるっと彫刻公園に設置(北海道壮瞥町)
 1998 湖北庁舎前公園にEARTH VIBRATION-環を設置(滋賀)
 1999 第6回国際コンテンポラリーアーチフェスティバル NICAF TOYO 1999
 2000 第5回石のさとフェスティバル セシール賞受賞
 2003 第2回あさご芸術の森大賞展入賞
 2004 GAOC 群馬スペースアート展入賞
 2005 不二越正面玄関プロデュース(富山)
 2006 第7 回石のさとフェスティバル入選 第22 回現代日本彫刻展入選(宇部)
 2008 「In the future-未来に-を住友重機械工業受付ロビー設置(横須賀)
 2004 西浅井中学校銘板石碑設置(西浅井)
 2010 石山縄文しじみ貝塚の塔記念碑を設置(大津)

 ◆芝山昌也 -- そこから風が --

 1972年、兵庫県生まれ。金沢美術工芸大学で彫刻を専攻し、美術工芸研究科で博士号取得。2001ポーラ美術振興財団在外研修員として渡米。2009より秋田県上小阿仁村と十日町市仁田集落の交流プロジェクトを手がけている。
 彫刻家として個展やグループ展等で発表する傍ら、近年は秋田県のKAMIKOANIプロジェクト秋田のディレクションを行うなど、アートプロジェクトに積極的に関わっている。現在、金沢美術工芸大学彫刻専攻准教授。

 ◆芝山 昌也(しばやま まさや) -- Shibayama Masaya --

 所属/担当 -- 彫刻 大学院修士課程(彫刻専攻) 大学院博士後期課程(美術工芸専攻)

 生年1972年 学位博士(芸術) 専門分野彫刻 学歴/経歴2014- 金沢美術工芸大学 美術工芸学部 美術科 彫刻専攻 准教授
 2013-2014 秋田公立美術大学 美術学部美術学科 アーツ&ルーツ専攻 准教授
 2007-2013 秋田公立美術工芸短期大学 工芸美術学科 准教授
 2006-2007 秋田公立美術工芸短期大学 工芸美術学科 講師
 2001-2002 平成13年度財団法人ポーラ美術財団在外研修員として渡米
 1999 金沢美術工芸大学大学院美術工芸研究科 博士後期課程 修了 主な業績
 2019 美作三湯芸術温度(岡山県美作市)
 2018 大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ(新潟県十日町市)
 2017 個展「とおい近景ー芝山昌也展」(奈義町現代美術館)
 2016 かみこあにプロジェクト2016(秋田県上小阿仁村)
 2015 大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ(新潟県十日町市)
 2015 KAMIKOANIプロジェクト秋田2015(秋田県上小阿仁村)
 学外活動
 2012-2015 KAMIKOANIプロジェクト秋田 ディレクター
 2006-環境芸術学会会員
 その他
 2019 学術論文「近代日本彫刻考(一)『光雲懐古談をめぐって』」(金沢美術工芸大学紀要)
 2010-2012 学術論文「日本彫刻考(1)」、「日本彫刻考(2)」、「日本彫刻考(3)」(秋田公立美術工芸短期大学紀要)
 個人のホームページ http://www.shibayama.net/


 彫刻広場を過ぎますと、今度は、四季折々の花が咲く花壇が…
 噴水広場が近付いて来ましたので、「太陽の広場」の北端にヤッて来ましたようですネ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 花壇広場を通り過ぎますと、今度は噴水広場(^-^)
 暑い中でのウォーキングというか散策でしたので、噴水まで到着しますと、見ていますだけでも何となく涼しさが(^_^)v
 この噴水、多分、今でも夜間はライトアップされるものと思います。夜に訪れますとキレイなのですけど、昼間でもそれなりにキリイです(^.-)☆
 何分かおきに形を変え、そして、止まります。この繰り返しが続きますけど清涼感が(^-^)

 この先は、農道を挟み、体育館・陸上競技場を併設の「笠岡総合スポーツ公園」となりますが、GONsanはここで引き返しです。
 ここには、笠岡市を選挙地盤とされました代議士先生「加藤六月」元・農林水産大臣の碑文が…この碑文には、こんな記載がありました。

 母なる川 高梁川 なお水源を もとむれば 新成羽川ダムの放流水
 延々百粁の 彼方より この地に到る
 正に水至り 万物潤の実態を この干拓地に見る

 昭和62年6月6日 農林水産大臣 加藤 六月


 …と。WEB上で検索しますと、こんな政治家でありましたようです。

 ◆加藤六月

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 加藤 六月(かとう むつき、1926年6月17日 - 2006年2月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)、国土庁長官、北海道開発庁長官、農林水産大臣を歴任。

 ・来歴・人物

 岡山県笠岡市出身。陸軍士官学校(同期に柳川覚治)を経て1947年に旧制姫路高等学校(現・神戸大学)卒業。
 姫路高卒業後は笠岡市内の中学校、高等学校の教諭を務めた。日教組活動に熱中し、1949年には岡山県教組小田郡支部書記長に就任した。また青年団運動にも取り組んでいたが、国民協同党への接触を深める中で、1950年、のちに衆議院議長となる星島二郎と知り合い、秘書として仕えた。

 1967年に自由民主党公認で星島の後継者として旧岡山2区から立候補し初当選(以降は11回連続で当選。当選同期に山下元利・増岡博之・塩川正十郎・河野洋平・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・山口敏夫・水野清など)。旧岡山2区には佐藤派の橋本龍太郎もおり、この2人の激しい選挙戦は「六龍戦争」と呼ばれており、小選挙区制が導入されて以降も岡山4区で直接対決をしライバル関係にあった。加藤の娘婿で後継者である加藤勝信は橋本派が代替わりした津島派に属した。

 1972年の第1次田中角栄内閣では運輸政務次官に就任したが、この期間に起こったロッキード事件に関与したとされ、後に「灰色高官」の一人と名指しされた。そのため初入閣は遅れ、衆議院大蔵委員長を経て1982年に第1次中曽根内閣でようやく国土庁長官兼北海道開発庁長官として入閣を果たした。その後、党税制調査会長に就任し税制改革大綱をまとめ上げ、1986年には第3次中曽根内閣で農林水産大臣として二度目の入閣。運輸、農水、税制関係のエキスパートとして影響力を発揮した。
 自民党では福田派→安倍派に属し、当選同期の塩川、1期下の森喜朗、2期下の三塚博と共に安倍派四天王と称された。中でも安倍晋太郎の信頼が一番厚かったのが加藤で、安倍の代理として党内各派との調整役なども任されていた。また、三塚とは同じ運輸族であり、事件の影響で加藤が出遅れる間に三塚が力を付けてきたことから、ライバル意識が強かった。

 1988年、リクルート事件が起こった際には安比高原リゾート開発の保安林指定解除をめぐっての政治工作疑惑が浮上した。請託と保安林解除の時期でつじつまが合わない点が出てきたことで受託収賄罪での立件が見送られたが、秘書と支持団体幹部が政治資金規正法違反で略式起訴となったため一時謹慎となる。1990年に自民党政調会長に就任。この時幹事長の小沢一郎、総務会長の西岡武夫、首相の海部俊樹と個人的な連携を深めた。
 1991年に安倍が死去した後、安倍派の後継を巡って三塚と激しく対立した。この内紛は三六戦争と呼ばれた。結果は安倍派座長の長谷川峻の裁定で三塚が後継者となり、後に加藤は三塚派を除名された。加藤はこれを不服として派閥の総会に乗り込んだが、小泉純一郎に追い返された。同年10月、田名部匡省、山岡賢次、吹田ナ、古賀一成、倉田寛之らと新しく政眞会(加藤グループ)を結成したが党内最小グループで影響力は保てなかった。

 1993年7月の第40回衆議院議員総選挙直後に田名部、山岡、吹田ら加藤グループの一部を引き連れて自民党を離党した(ただし倉田や宮里松正などは自民党に残留した)。無所属を経て1994年4月、新生党に参加し、羽田孜を首班とした羽田内閣では再度農水大臣に就任した。その後は新進党、自由党で小沢と行動を共にする。1996年第41回衆議院議員総選挙で新進党は原則として重複立候補認めていなかったが加藤は岡山4区で自民党総裁・内閣総理大臣橋本龍太郎と戦う保険に上位優遇され公明党出身の現職貝沼次郎が割りを食って次点。落選した貝沼は引退に追い込まれた。

 1997年の新進党分党で小沢自由党、更に小沢の連立離脱に反発し保守党結成に参加し、総務会長。1999年、勲一等旭日大綬章を受章。2000年の第42回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界から引退した(自身が属した保守党は自民党現職・橋本龍太郎推薦)。
 2006年2月28日、心不全のため東京女子医科大学病院で死去。79歳没。葬儀委員長は安倍の次男である安倍晋三官房長官が務めた。

 ・系譜
 兄は参議院議員、岡山県知事を務めた加藤武徳、甥は元参議院議員の加藤紀文。長女は都市経済研究家で、産業遺産情報センター所長・元内閣官房参与の加藤康子、自民党衆議院議員で安倍内閣厚生労働大臣の加藤勝信は娘(次女)婿。

 ・その他
 岡山4区内の倉敷市出身の元プロ野球選手・監督である星野仙一とは公私に渡り親交深かった。大相撲では第68代横綱の朝青龍明徳を支援した。
 日中国会議員書画展へ書画を提供している。座右の銘は、「先憂後楽」と「分甘共苦」。


 …と、こんな政治家でありましたようです(^.-)☆

 

 

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