2020年 三原市小泉町「白滝山・龍泉寺」 <4/5> |
それでは、この辺で、白滝山山頂とお別れし龍泉寺にへと下山です。
龍泉寺から白滝山への参道は、一応舗装され大変歩き易くなっています。この舗装道を下っておりますと脇道が…ふ〜ん、何処に続くのだろう?…と脇道に入り進んでいきましたら、うん、うん、龍泉寺の墓地でした(^-^)
暫し墓地内を見廻し、また舗装道にと逆戻りとなりました(^.-)☆
龍泉寺境内へと下りて来ますと、依然としてモヤがかって視界は良くはありません。
好天でさえありましたら、白滝山からの眺望は、さぞ良かったのでしょうけどネ(^-^)//"
龍泉寺境内にと下りて来ますと、再度、境内を見廻しまして、眼に止まりましたのがこの句碑でした(^.-)☆
石碑には、「禅は禅の 色香見せけり 山桜 -- 三原城主甲斐守浅野忠順公」と記載です。
ふ〜ん、「三原城主甲斐守浅野忠順公」とは何者なんだろう?…と、WEB上で検索しますと、うん、うん、こんな方でありました。
◆浅野 忠順
浅野 忠順(あさの ただより)は、江戸時代中期の安芸国広島藩の家老。三原浅野家第9代。
・略歴
寛政2年(1790年)5月1日、広島藩主浅野重晟の七男として安芸広島城中で生まれる。寛政5年(1793年)12月5日、4歳で三原家先代忠愛の跡を継いだ。
文化元年(1804年)8月、実兄の藩主浅野斉賢に御目見し、元服して忠順と名乗る。
文化11年(1814年)8月、病により隠居して家督を養子の忠敬に譲り、三原に移住した。文政2年(1819年)、修と改名する。文政6年(1823年)、三原城二の丸に別邸を建設して移り住む。
文政7年(1824年)4月24日、三原で死去、享年35。菩提寺の妙正寺に葬られた。
龍泉寺(広島県三原市小泉町)境内に「禅は禅の 色香見せけり 山桜」と詠んだ忠順の句碑が建てられている。
…と、こんな方でありました(^.-)☆
山門前にベンチが設置してありますけど、こんなモヤ状態ですから視界は不良。
ですけど、次は、展望台に向かってみます事に。展望台からの眺望も、こんな状況ですから何にも見えないものとは思いますけど(^-^)//"
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