2020年 竹原市忠海町「黒滝山・大峯神社」 <1/5>

 ■2020年05月18日16:32
 5/4(月)は、龍泉寺(白滝山)・大峯神社(黒滝山)を散策でした(^.-)☆


 県道59号線(東広島本郷忠海線)を南下し忠海町が近付いて来ますと、「←黒滝山」の案内標識です。
 この標識に従い左折し山側に暫く走行しますと、黒滝山登山口近くに数台の駐車可能な駐車場が存在です。
 駐められるかな…と近付きますと、幸いに2台の車が駐車中ですから、まだ2台の駐車は可能です。で、GONsanは楽々空きスペースに駐める事となりました。ラッキー\(^o^)/
 まずは、駐車場周辺の景観を数枚画像に納め、早速、黒滝山にとスタートとなりました(^.-)☆

 「黒滝山登山口」から少し上がりました所にトイレが存在。そして、その前付近には「黒滝山登山道・石仏案内図」と表示されましたボックスがありましたので、上蓋を開け中を確認しますと、「令和2年元旦登拝 黒滝山頂初日の出」の案内パンフが(^-^)
 残念ながら「黒滝山登山道・石仏案内図」は品切れでありました。う〜ん、残念(^-^;
 WEB上で『黒滝山』を検索しますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 
◆黒滝山(くろたきさん)

 奇岩屹立する標高266mの黒滝山には観音堂や33体の石仏があり、登山遊歩道や頂上からの眺望はすばらしく、眼下には大久野島、芸予諸島、遠く四国連山を一望できます。山頂の観音堂は、天平年間(730)僧行基の創建と伝えられています。観音堂内の十一面観音像は鎌倉時代の名作です。また、桜、梅、カエデなどが多く、頂上周辺には奇岩がそびえ南画の山水図を見るような美しさです。乃木大将が明治39年に登山した際、周辺の風光に歓声を放ったという“腰掛岩”から見える芸予諸島、四国連山の眺めは絶景です。

 ◆【黒滝山】

 黒滝山は竹原市の東南部、JR忠海駅の北にそびえる標高270mの独立峰です。登山道は整備され、駅からゆっくり歩いて約1時間で山頂に立つことができます。ここは大久野島、大三島をはじめとする芸予諸島や四国連山の眺望に恵まれた景勝地で、忠海町のシンボルとして町民に深く愛されています。この黒滝山の歴史は深く、天平年間(730年頃)、厳島神社参拝途上にこの地に立ち寄った和泉国の僧行基が、夢に、「この地に霊山あり。その山の菩薩像を祭り、仏道をもって衆生を救うべし」とのお告げをうけ、十一面観音菩薩像を彫り、山頂に観音堂を建立して安置し、この霊山を黒滝山と名付けたと伝えられています。以来、ミニ西国三十三か所霊場や石鎚神社分社などが点在する黒滝山は「くろたきさん」の呼び名で親しまれています。

 ◆【瀬戸内海の展望が楽しめる 白滝山〜黒滝山 縦走コース】

 白滝山から黒滝山へ至る道は遊歩道として整備されています。緑豊かな自然林の中を時おり青い瀬戸の海が見え隠れし、尾根道を歩く楽しさを満喫できるコースです。白滝山から約40分、黒滝山の岩峰の上に立つと眼下に忠海の街が一望に見渡せ、生口島と大三島に架かる多々羅大橋も間近に見ることができます。
 黒滝山(くろたきやま)は竹原市の東南部、JR忠海駅の北にそびえる標高270mの独立峰です。霊山にふさわしく、頂上から観音堂を経由して、忠海(ただのうみ)の町まで下りる途上には多数のパワースポットがあります。また、ウサギと触れ合える人気スポットである大久野(おおくの)島、大三島をはじめとする芸予諸島や四国連山の絶景を楽しむことができます。ちなみに、当初予定をしていた大久野島は、忠海港駐車場&フェリー大渋滞の情報を聞きつけ、断念しました。
 小さな岩場も多く、たまに踏み跡を辿って正規ルートから外れるのも楽しいです。石仏はスルーしたものも多く、時間があればちゃんとお参りしてみたいものです。草花はほとんど見られませんでしたが、樹木の花はそこそこあり、植物観察もそれなりにできました。他にもコースがたくさんあるようなので、行き当たりばったりも楽しいかもしれません。天気がよかったので気持ちのいい汗をかけました。


 …と、このような色んな記載がありましたネ(^-^)
 そして、トイレから上方向に少し進みますと展望台が…ここには、『瀬戸内海国立公園--黒滝山』の案内表示板が設置されておりました。
 この案内表示板には、こんな記載が…

 
◆瀬戸内海国立公園 -- 黒滝山

 黒滝山羽、奇岩屹立した山容を誇り、大久野島、大三島をはじめとする芸予諸島や四国連山の眺望に恵まれた景勝地で、忠海町のシンボルとして町民に深く愛されている。
 この黒滝山の歴史は古く、天平年間(730年頃)、厳島神社参拝途上この地に立ち寄った和泉国の僧行基が、夢に「この地に霊山あり。その山に菩薩像を祭り、仏道をもって衆生を救うべし」とのお告げを受け、十一面観世音菩薩像を彫り、山頂に観音堂を建立して安置し、この霊山を黒滝山と名付けた、と伝えられている。
 以来、ミニ西国三十三ヶ所霊場や石鎚神社分社などが点在するこの霊場は、「くろたきさん」の呼び名で親しまれている。
--- 広島県 ---

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暫く上がって行きますと、スグに「乃木将軍腰掛の岩」に到着です(^.-)☆

 
◆乃木希典

 乃木希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、陸軍軍人、教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残している。


 ここには、説明板に、
 『明治39年5月 乃木将軍忠海重砲大隊 特名検閲のため来忠、内海眺望絶賛腰掛の岩』の記載がありました(^.-)☆

 WEB上で「乃木将軍」を検索してみますと、こんな記載もありました。

 
◆敗軍ロシアの将にも救いの手 乃木希典が示した日本人の誉れ

 ・古今随一の陸の名将

 日本人の最も誇るべき物語の一つ、日本が世界に貢献した最も偉大なる歴史の一つが日露戦争である。日本国民が血と涙を流した民族の存亡をわけたこの戦いの主役が、明治天皇、東郷平八郎そして乃木希典である。

 国民作家とまでいわれた司馬遼太郎の『坂の上の雲』の影響により乃木愚将論が永らく世を覆ったが、もうそれは過去のものと言ってよい。たとえば『歴史街道』平成二十四年一月号の特集「乃木希典と日露戦争の真実」ではこう記している。

 「旅順要塞攻略、奉天会戦、日本海海戦…。日露戦争の行方を決定づけた戦いにおいてそのすべてに関わり、奇跡的な勝利に至る鍵を握ったキーマンともいうべき人物が存在する。満洲軍第三軍司令官・乃木希典だ。…数々の不利な条件を撥ねのけたそれらの敢闘はもはや『奇跡』といっても過言ではない」
 乃木は決して頑迷な愚将、拙劣極りなき戦下手ではなく、日露戦争の奇跡的勝利を導いた古今に比類なき名将であることを私は既に『乃木希典―高貴なる明治』(平成十三年、展転社)で論じた。ロシア軍総司令官クロパトキンが日本軍諸将のうち誰よりも畏怖したのが乃木であった。「いかなる敵を引き受けても断じて三年は支えることができる」と自負していた難攻不落の鉄壁の堅城を、五カ月で落とした乃木とその部下将兵の戦いは、クロパトキンにとり想像を絶する人間の力を超えた鬼神(キリスト教流に言えば悪魔)の為せる業であった。

 この人間ならぬ鬼神の如き乃木及び第三軍が最後の奉天会戦(明治三十八年二―三月、それまでの世界陸戦上最大の会戦)において、数倍のロシア軍を相手に各軍中最大の犠牲を払いつつ攻めに攻め続けたことが、遂にクロパトキンの心臓を打ち貫き恐怖のどん底に陥れ、日本軍の逆転勝利をもたらしたのである。
 結局、旅順要塞戦が日露両国の命運を決した天王山、真の決勝戦であり、最後の会戦・奉天会戦の勝利は乃木軍の死戦ともいうべき一大奮戦なくしてあり得なかったのである。東郷平八郎が世界一の海将として仰がれるのであれば、同様に乃木希典もまた古今随一の陸将として称えられるべきである。

 ・花も実もある真の武人 -- 水師営の会見 --

 鬼神の強さをもつ軍神乃木は、ただ剛勇だけの将帥ではなかった。「武士の情(なさけ)」をあわせもつ「花も実もある」真の武人であった。それを示す戦争中の佳話が敵将ステッセル(旅順要塞司令官・陸軍中将)との「水師営の会見」である。

 「古今の最難戦」であった旅順攻囲戦が終った明治三十八年一月五日、旅順要塞近くの水師営で会見は行われた。乃木はこの時ステッセルに対し、深い仁慈と礼節を以て接した。会見においてアメリカの映画関係者が一部始終の撮影を希望したが、乃木はそれは敗軍の将に恥辱を与えるとして許さず、ただ一枚の記念写真だけ認めた。乃木とステッセルが中央に坐り、その両隣りに両軍の参謀長、その前後が両軍の幕僚たち、ロシア側は勲章を胸につけ帯剣している。全く両者対等でそこには勝者も敗者もない。

 この有名な写真が内外に伝わるや、全世界が敗者を恥ずかしめぬ乃木の武士道的振舞、「武士の情」に感嘆したのである。世界一強い陸の勇将はかくも仁愛の心厚き礼節を知る稀有の名将と、賛嘆せずにいられなかったのである。欧米やシナの軍人には決して出来ぬことであった。
 会見で乃木はまず明治天皇のステッセルに対する仁慈に溢(あふ)れるお言葉を伝えた。
 「わが天皇陛下は閣下が祖国のために尽くされた忠勤を嘉賞(かしよう)し給い、武士の体面を保持せしむべく、私に勅命あらせられました」
 この言葉にステッセルはいたく感銘してこう答えた。
 「貴国の皇帝陛下よりかくのごとき優遇を蒙(こうむ)ることは、私にとって無上の名誉であります。願わくは閣下から私の衷心よりする深厚なる謝意を電奏せられたい」

 このあと両者は打ち解けてなごやかに語り合った。ステッセルは日本軍の不屈(ふくつ)不撓(ふとう)の勇武を天下に比類なきものと賛嘆を惜しまなかった。乃木もロシア軍の頑強無類の守備の堅固さを称えた。続いてステッセルは乃木がこのたびの戦いにおいて二人の息子を戦死させたことを哀悼した。すると乃木はこうのべた。
 「私は二子が武門の家に生れ、軍人としてその死所(ししよ)を得たるを悦(よろこ)んでおります。両人がともに国家の犠牲になったことは一人私が満足するばかりではなく、彼ら自身も多分満足して瞑目しているであろうと思います」
 ステッセルは愕然として言った。
 「閣下は人生の最大幸福を犠牲にして少しも愁嘆の色なく、かえって二子が死所を得られたことを満足とされる。真に天下の偉人であります。私らの遠く及ぶところではありません」

 そこにはもはや仇敵同士の姿はなく藹々(あいあい)たる和気が漂った。乃木の人物に深く打たれたステッセルは白色の愛馬を乃木に献じた。この両者の会見は唱歌「水師営の会見」として小学校で教えられるなど、永らく人々に愛唱された。

 ・敵将の不遇知り救済の手尽くす

 ステッセルは戦後、ロシアで軍法会議にかけられ、旅順開城の責任を問われ死刑の判決を受けた。旅順の陥落がロシアにとりいかに致命的であったかがわかる。それを知った乃木はいたたまれず、当時パリにいた元第三軍参謀津野田是重少佐に種々の資料を送り、ステッセルを極力弁護する様依頼した。
 津野田は直ちにパリ、ロンドン、ベルリン等の諸新聞に投書、ステッセルとロシア軍がいかに粘り強く抗戦したか、日本軍の猛攻に開城はやむなきものであったことを強く訴えた。この元第三軍参謀の説得力ある主張は効を奏し、ステッセルは特赦となり刑を免れ出獄、モスクワ近郊の農村で余生を送った。

 ところがしばらくの間、生活に窮した。それを伝えきいた乃木は、名前を伏せてかなりの期間少くない生活費を送り続けた。ステッセルと彼の部下の激烈な抗戦を骨身に知る者は乃木である。それは世界一の陸軍国といわれたロシア軍の名に恥じぬ戦いであった。その守将が死刑を免れたものの生活に窮すると聞いて乃木は深く同情しつつ、相手の名誉を重んずる方法で手を差し伸べたのである。
 だが、ステッセルにはその送り主が乃木であることはすぐわかった。
 大正元年乃木が殉死した時、「モスクワの一僧侶」という名のみで、皇室の御下賜金に次ぐ多額の弔意金が送られてきた。ステッセルであった。乃木の厚意に涙したステッセルは晩年、「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」とくり返し語った。

 
--- https://ironna.jp/article/4767?p=1 ---

 …と、こんな記載がありましたけど、う〜ん、乃木将軍…凄い人でしたのですねぇ(^-^)/"
 コンクリートで舗装されました参道を進んで行きますと、「霊水池」に到着です。小さな池(井戸?)で、湧き水のようには見えないのですけど、年中涸れないのだそうです(^.-)☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「乃木将軍腰掛の岩」から、また少し進んで行きますと、今度は「平山郁夫画伯『スケッチの場』」が(^.-)☆
 ふ〜ん、平山郁夫画伯は、ここでスケッチされましたのですねぇ(^_^)v
 案内表示板には、こんな記載が…

 
◆平山郁夫画伯「スケッチの場」

 平成8年11月12日、日本画壇で活躍中の画伯が黒滝山に登られました。
 この美しい瀬戸の風景を緞帳(どんちょう)にする為、その原画を岩に腰掛けて描かれました。
 「輝く瀬戸内海」と題された素晴らしい緞帳は、広島県立忠海高校、創立100周年記念事業の一つとして新築された講堂体育館に同校同窓会から寄贈されました。-- 平成9年10月 --


 …と、こんな記載。ふ〜ん、忠海高校の講堂体育館の緞帳に「輝く瀬戸内海」を描かれるため、スケッチで平山画伯も訪れましたのですねぇ(^.-)☆
 平山郁夫画伯は、皆さんよくご存知の方ですけど、改めてWEB上で「平山郁夫画伯」先生をお勉強です。

 
◆平山郁夫

  --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 平山郁夫(ひらやま いくお、1930年6月15日-2009年12月2日)は、日本画家、教育者。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者。称号は広島県名誉県民、広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民。
 子に古代生物学者の平山廉(早稲田大学教授)。妻は平山美知子(公益財団法人 平山郁夫シルクロード美術館館長)。実弟は平山助成元海上自衛官 海将補(防衛大学校10期)、現平山郁夫美術館(広島県尾道市)館長。

 ◇人物

 旧制広島修道中学(現修道中学校・高等学校)3年在学中、勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で広島市への原子爆弾投下により被災。この被爆経験が後の「文化財赤十字」活動などの原点になっている。
 第二次世界大戦後は実家に近い旧制忠海中学(現広島県立忠海高等学校)に転校した。ここでは高橋玄洋と同級生となっている。卒業後、清水南山(祖母の兄)の強い勧めもあり東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。前田青邨に師事する。
 東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろ、原爆後遺症(白血球減少)で一時は死も覚悟したなか玄奘三蔵(三蔵法師)をテーマとする『仏教伝来』を描きあげ院展に入選する。以降、郁夫の作品には仏教をテーマとしたものが多い。

 仏教のテーマはやがて、古代インドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへの憧憬につながっていった。そのあと、郁夫はイタリアやフランスなど、ヨーロッパ諸国も訪ねている。
 郁夫は1960年代後半からたびたびシルクロードの遺跡や中国を訪ね、極寒のヒマラヤ山脈から酷暑のタクラマカン砂漠に至るまでシルクロードをくまなく旅している。その成果は奈良・薬師寺玄奘三蔵院の壁画に結実している。
 アッシジのサン・フランチェスコ聖堂壁画の模写、法隆寺金堂壁画の模写、高松塚古墳壁画の模写や、ユネスコ親善大使として中国と北朝鮮を仲介して高句麗前期の都城と古墳と高句麗古墳群の世界遺産同時登録に寄与した功績で韓国政府より修交勲章興仁章(2等級)を受章した。

 また、国内外を問わず長年にわたって後進の指導に当たる。日本への敦煌研究者及び文化財修復者など受け入れ事業などを提唱し、敦煌莫高窟の壁画修復事業にあたって日本画の岩絵具を用いた重ねの技法を指導するなど、現地で失われた美術技法の再構築と人材育成に尽力した。「文化財赤十字活動」の名のもとカンボジアのアンコール遺跡救済活動、敦煌の莫高窟の保存事業、南京城壁の修復事業、バーミヤンの大仏保護事業などの文化財保護や相互理解活動を評価されるなどその活動は幅広く社会への影響も大きい。

 ◇批評

 日本とアジア諸国との友好活動や東北アジア・中央アジアでの文化財保護活動はアジア諸国、特に中国政府から評価が高く、日中友好協会会長も務め、「文化交流貢献賞」が贈られている。またマニラ市のラモン・マグサイサイ賞財団よりマグサイサイ賞を贈られている。
 一方、「文化大革命や都市開発により中国人自身の手によって破壊された中国の歴史的建造物を『戦時中に日本軍が破壊した』として日本人から寄付金を募って中国の文化財の復元事業に当てた」として批判も受けている。「梁思成は日本の古都の大恩人」という根拠薄弱な説に基づいて寄付金を募り、梁思成の銅像建立事業を主導した事も批判の対象となっている。また国立大学(後に国立大学法人)である東京藝術大学の学長という公職にありながら、出版社、百貨店、放送局などとタイアップした自作の展示即売会で多額の利益を上げている点などを批判されることもある。東京藝術大学学長を辞任した1995年には岩橋英遠の「赤とんぼ」という作品からの盗作疑惑が持ち上がっている。


 …と、こんな「平山郁夫画伯」先生でありますけど、「批評」の部分の記述は、う〜ん、GONsanには知らないままの方が良かったのかも…

 「平山郁夫画伯『スケッチの場』」を通過しますと、また左手の山側の石仏を眼にしながらの歩行が続きます。
 その内に、石仏群が存在します場所に到達で、暫し小休止となりました。この石仏群の中には「南無妙法蓮華経」と刻まれました石碑も…我が家の宗派は日蓮宗でありますから、この石碑にはチョッと嬉しい気持ちにも(^-^)//"

 

 

 

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