2020/04/20(月) 独鈷山「青龍寺」を散策でした(^.-)☆ <1/3> |
■2020年04月27日17:00
4/20(月)は、神島88ヶ所霊場第36番札所「独鈷山 青龍寺」を散策でした(^.-)☆
どなたかのホームページを拝見しておりましたら、岡山県笠岡市の神島88ヶ所霊場「36番札所 青龍寺」の山桜が大変キレイでありました(^.-)☆
で、時期ハズレではありましたが、青龍寺に出掛けてみます事に(^-^)
◆岡山県笠岡市の神島88ヶ所霊場
弘法大師様が修行された本四国を模倣したもので、笠岡伏越の人、今田卯兵衛(慧弦)が発起し神島内浦の人、池田重朗兵衛の協力により、元文5年(1740)より延享元年(1744)まで、5年間の苦心を重ね成就された霊場です。
今田卯兵は、家業大いにふるい何不自由なく暮らしていましたが、あまりの幸福をねたまれたものか、晩年、最愛の1人子を病魔に奪われ、狂気せんばかりでした。そこで、救いを仏の道に求め、愛児の位牌を背負って四国遍路に旅立ち、四国八十八ヶ所霊場を5年あまりかけて歩き遍路しました。そして、ついに仏果を得て「自分自身が救われることは、即ち人を救うこと」という悟りをひらかれ、自分の全財産を投げ打ってでも、本四国と地形の似ている神島に霊場を建立したいと発願されたのです。
折りしも、神島の住人、池田重朗兵衛も同じ計画を発願されていることを知り、共に夢でお大師様から霊場建立のお告げがあったことを語りあいました。そして、二人そろって四国に渡り、各所の土を袋に入れて持ち帰ったのです。各札所の本尊様の下には、四国のそれぞれの札所より持ち帰った土を埋め、その上に堂を建てたと言われています。また、堂の建立、石造の運搬、それに必要な道路造りと大変な難事業であった事でしょう。今では、霊場を訪れる人も少なくなっていますが、日本に数あるミニ霊場の中でも歴史ある霊場の1つです。全行程、29キロ、1泊2日で歩き遍路をするのが目安です。
◇笠岡神島88ヶ所霊場遍路マナーのお願い
笠岡神島88ヶ所霊場は、山中に小さな諸堂があります。その為、火の元には十分に注意してください。特に秋は、落ち葉が沢山積もります。お線香やロウソクは、団体の場合でも個人個人ではなく、代表が線香とロウソクをお供えするように致しましょう。また、ロウソクはお勤め後に必ず消しましょう。
遍路道沿いには、ゴミをぜったいに捨てないようにお願い致します。タバコのポイ捨ては絶対にやめましょう。
『ゴミを捨てない ゴミを拾う』
地域の人が毎日清掃され、綺麗に保たれている遍路道です。マナーを守り気持ちよくお遍路をさせていただきましょう(^o^)丿
遍路道の景観は、地域の方々やお遍路さん1人1人の心掛けで守られています。
250年以上の歴史ある笠岡神島へんろ道を大切に。 合掌
…と、こんな記載がWEB上にありました(^.-)☆
◆神島88ヶ所霊場第35番札所 医王山 清滝寺
・本尊 -- 薬師如来 「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」
・御詠歌 -- 「澄(す)む水(みず)を汲(く)めば心(こころ)の清滝寺(きよたきじ) 波(なみ)の花(はな)散(ち)る岩(いわ)の羽衣(はごろも)
車ですから、我が家を出まして30分も要せず「青龍寺」入口に到着です。
何処まで車で入れますのか分かりませんけど、とりあえず進入。そうしましたらスグに駐車場らしきスペースがありましたので駐車。そして、散策開始となりました(^-^)//"
◆地蔵菩薩坐像
「爲殉死者」
『おん かかかび さんまえい そわか』
「神島史誌(p.210)」に「神島化学工業株式会社溜池工事で犠牲となった、男七名女八名の慰霊のために建立」と記されている…との事であります。
整備されました石段の参道を上がって行きますと、スグに「独鈷山 青龍寺」にと到着です(^.-)☆
境内で「んっ!?…」と、まず眼が止まりますのが、この「今田慧弦師」の像なんです。青龍寺を訪れます前に、GONsanも少し事前学習しておりますから、この方が何者なのかは分かります(^_^)v
WEB上で再度、「今田卯兵衛(慧弦)」sanを学習してみますと、こんな記載がありましたネ(^.-)☆
◆伏越・石橋町・正寿場町・浜田・鬮場川鉄橋
--- 伏越踏切に隣接した今は無き「今コ薬局」の建物。神島八十八ケ所の今田慧弦ゆかりの薬局。---
今コ薬局は平成24〜25年頃までは上の写真の如き建屋が残っていた。
最近はすべて撤去されてその、趾地は地福寺の駐車場となっている。昭和四十年代後半の写真として左上のモノクロ写真が残っている。
その説明文に『今田慧弦ゆかりの今コ薬局』と書かれている。また郷土資料の昭和26年に刊行された『笠岡町沿革史』によると安政年間(1854-1860)の開業とのこと。
今田慧弦と云えば神島八十八ケ所を築造したことで有名な人物である。
『神島八十八ケ所の創建は元文五年(1740)より延享元年(1744)までの五年間、笠岡の人・今田卯兵衛(慧弦・元禄8年〜安永元年1695-1772)が発起し、神島内浦の人池田重郎兵衛の協力によって完成した。
延享元年春の開眼供養法要には導師遍照寺主辨随阿闍梨を筆頭に八十八人の僧侶が招かれたという。
「神島四国縁起」によると、「安芸の国今田村に居住していた今田卯兵衛という人が享保年間に笠岡の浜田に移住した。稼業多いにふるった」と書かれている。』(以上、出処は「神島町誌」)
これらの記述を総合すると、今田慧弦こと今田卯兵衛は安芸国今田村の人、浜田に移住し薬局を開業し事業は繁栄し財を成す。ところが一人息子の後取りが死去、四国霊場八十八ケ所(江戸期初期の成立)を巡りて霊感を得地元笠岡神島に四国に似たる景色があって八十八ケ所霊場を作ることを発心す。元文五年〜延享元年までの五年間で完成し開眼供養法要を盛大に行った。
それからざっと百年後に薬局は浜田から伏越へ移転された。昭和四十年代には営業を続けていたが其の後閉店。平成二十年代になり建屋が取り壊されて駐車場となっている。
前掲の昭和26年刊行『笠岡町沿革史』の記述は『伏越開業後、コ八郎、コ太郎を経て先代コ一郎昭和二年歿後長男コ之輔之を継承す。』と書かれている。歴史とはかくあるもの、埋没の連続の先に再生がある。この地に再生されたのは偶々駐車場ではあるが…
--- (2014/04/08 記) ---
http://www.tok2.com/home/ryutaroh/EnjoyWalking/StreetsSight/pages/image0008.html
協力者であります「神島内浦の人・池田重朗兵衛」sanも検索してみたのですけど、残念ながら「池田重朗兵衛」sanの詳しい記述は見当たりませんでしたネ…
それでは、青龍寺へお詣り後、境内をくまなく画像に納めてみたいと思います(^-^)//"
◆神島四国36番青龍寺(波切不動)
独鈷山 伊舎那院 青龍寺 (どっこざん いしゃないん しょうりゅうじ)
『のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん』「わずかなる 泉に住める 青龍は 仏法守護の 誓いとぞ聞く」
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