2020/03/22(日) 『御領古墳群巡り』に参加でした(^.-)☆ <1/5> |
■2020年04月08日20:26
3/22(日)は「御領の古代ロマンを蘇らせる会」主催の『御領古墳群巡り』に参加でした(^.-)☆
3/22(日)は「御領の古代ロマンを蘇らせる会」主催の『御領古墳群巡り』に参加のGONsanでした(^.-)☆
この「御領古墳群巡り」の案内は、2/29(土)の中国新聞朝刊にも記事掲載がありましたので、定員30名の募集でしたが、結局、40名ばかりお集まりになられましたようです(^-^)
新型コロナウィルスの拡散で開催が危ぶまれましたようですけど、マスク着用で予定通りの開催となりました(^.-)☆
集合はA.M.9:00でしたけど、10分前に到着で少し時間もありましたので、集合場所であります「金光教芸備教会」廻りを少し探索。
教会の敷地内には「橋信仰碑」の石碑が存在です。刻まれた文字が仲々読みづらくWEB上で「橋信仰碑」を検索しましたが、う〜ん、見当たりません(^-^;
色々検索しまして推察しますに、高橋茂久平と言う方のようで、多分、金光教のエラい方でしたのでしょうネ…この方が説法されました数多くの事項が書籍として販売されていますようであります(^_^)v
敷地内のトイレ・休憩所の建物内には、古墳の写真・古墳からの出土品…等が展示されておりました。
で、これらの展示品を画像に納めておりますと、集合の合図。
一通り、御領の古墳群についての説明がありまして、40余名の参加ですから2組に分かれて出発することに…
GONsanは、後の組となりまして、まず第1組が出発です。そして、10分ばかり経まして第2組のGONsan達が出発となりました。
それでは、この日の様子を、まだ画像でご案内する事に致します(^-^)//"
◆御領の古代ロマンを蘇らせる会
・団体名称--御領の古代ロマンを蘇らせる会
・主な活動分野--文化・芸術・スポーツ 団体会員数--397人
・設立年月--2014年09月 ・まちサポ登録年月--2016年01月 ・登録番号--136
・目的--神辺の御領古墳群をはじめ、御領の古代ロマンを再発見、創造し、発信をしてまちづくりの一翼を担うこと
(参加団体:堂々川ホタル同好会、下御領生産森林組合、自転車と遺跡を楽しむ会、神辺ふるさと会)
・活動内容--ホタル同好会のホタルと砂留、花が不法投棄を防ぐ活動
・森林組合と協力して御領山を整備し、古墳の実態調査を行い、御領遺跡と合わせて市民に広く情報を発信していく活動
・古墳群見学ガイド、フィールドワークの開催
古墳群巡りは、「金光教芸備教会」に隣接の民家横の狭い道を上って艮大明神にとスタートとなりました(^.-)☆
この「艮大明神」から少し進みますと、先ほどの集合場所であります「金光教芸備教会」が眼下に(^-^)
この辺りは、金光教芸備教会の裏山ですネ。
そして、また少し進みますと「張田遺跡(仮称)」に到着です。
イノシシが掘り起こしました穴なんですけど、この穴から「弥生時代後期の朱塗り壺」が出土しましたようですネ(^.-)☆
当日、案内頂きました「御領の古代ロマンを蘇らせる会」の会長sanのお話しでは、土器が埋まっている場所をイノシシはよく掘り起こしている…との事でありました。
弥生時代後期の朱塗り壺の出土の経緯は、WEB上に「御領の古代ロマンを蘇らせる会」sanが、こんな記載を…
◆やっぱり!朱塗り壺は急斜面に埋納されていた!!
--- 2017年06月30日 07:00 御領の古代ロマンを蘇らせる会 ---
(http://blog.livedoor.jp/geibi/archives/51587029.html)
4月9日の記事に書いた、金光教芸備教会の裏山で出土した弥生時代後期の朱塗り壺について続報です。
その後、大学、文化財課、調査研究機関等の専門家の方々に現地を見て頂いたところ、どなたも、「こんな急斜面に遺跡を造るのは考えにくい」「山上にあった物が土砂崩れ等で流れ落ちたのではないか」、というようなご見解でした。
専門家の方々のご見解に、「なるほど…」と思う反面、誠に失礼ながら「本当にそうだろうか…」という思いもわいてきました。と言うのも、この山を平坦な所まで登るとなると、かなりの距離があり、その距離、しかも急斜面を転落したとなると、木端微塵に砕けて斜面のあちこちに分散してしまうと思います。
しかし、この度見つかった破片は結構大きく、しかもひと所でまとまった量が出ています。
こうなったら、今のところ遺跡ではないし、猪の沼田場(ヌタバ)をさらえてみることに…f^_^;
これは大変だということで、すぐに文化財課に連絡を入れました。その日の内に職員さんが現場に来て下さり、状況を確認され、「これは間違いなく、ここに埋納されていた物ですね。こんな所に遺跡を造るかな…」と少々困惑の表情。
沼田場の底には、まだ土器片が埋まっているようでしたが、ひとまずこの日は、沼田場の泥に混じっているものと周囲に散乱しているものだけを拾い上げ、現場に土を被せて撤収しました。
前例のないシチュエーションで見つかった弥生後期の朱塗り壺…これまで知られていない弥生後期の営み、それも、祭祀あるいは墓制に関わる重要な営みがあったことが、この遺跡から明らかになるかもしれません。
文化財課としても確認調査を検討したいとのことでした。
今後の展開が非常に楽しみです!
…と、こんな記載が。
ふ〜ん、ここから出土しましたのですねぇ〜
結構な斜面ですけど、こんな急斜面に朱塗り壺が埋納されるのは例がないとの事でありました(^.-)☆
それではまた、上に向かって前進です。そうしましたら、今度は、急斜面の先に石垣で囲まれた平たん地に到達です。よくは分かりませんけど、中世の砦跡なのかも分かりませんねぇ〜
チョッとだけ、ここで休憩です(^-^)
そして、歩行続行。
そうしましたら、「御領の古代ロマンを蘇らせる会」の皆様で主立った樹木を伐採し整備されましたのでしょうねぇ〜整った形の墳丘「大東第1号古墳」に到着となりました(^-^)//"
◆前方後円墳のルーツ?!@〜「大東第1号古墳」〜
--- 2018年04月27日 12:15 御領の古代ロマンを蘇らせる会 ---
(http://blog.livedoor.jp/geibi/archives/53387190.html)
今年1月から4月にかけて行った当会の古墳分布調査で、どうもただ事ではなさそうな発見が相次いでいます。
既に、全国最大級の可能性がある「纒向型前方後円墳」地形が見つかったことについては、先のブログで紹介しましたが、それ以外にも次々と興味深いものが出てきているのです。
その1つ目が「大東第1号古墳」です。
この古墳は「大東古墳」として既知のものですが、昨年の当会の活動で、大東に複数の古墳が存在することが確認され、市教委との相談で第1号と改称することになったものです。
昨年発刊した『大東古墳群』でも取り上げたように、「径11.5mの円墳」とされていますが、弥生墳丘墓と推測される「大東第2号古墳」によく似ていることから、第1号も弥生墳丘墓ではないのか?…との疑惑が浮上し、この度、第1号周辺を広く整備して地形を確認してみました。
径11.5mの小円墳とされていた古墳ですが、円墳の北側が尾根と繋がって前方部様に延び、その先で尾根とわずかですが溝で区画している様な地形になっています。前方後円墳の様に見えなくもありません。
そこで、地形を測量してみました。
測量図にも南北軸の前方後円様の地形が現れました。前方後円「様」と表現するのは、実際には推定復元ラインのように墳丘裾が明瞭ではなく、特に前方部?については、尾根との区画溝らしき凹みがなければただの尾根で、前方後円墳とは言いにくいからです。
全長約30m
後円部? 径約18m、高さ約2.5m
前方部? 長さ約12m、高さ約1〜1.5m といった規模が推定されます。
墳丘はベタッと低く、古墳というより弥生墳丘墓に近い印象です。
また、測量中に墳丘斜面で次々と土器片が見つかりました。後円部?全域は勿論、前方部?の斜面にもありました。
写真以外にも多くの土器片が散乱していました。専門家に見て頂いたところ、弥生後期の土器片ということでした。ただし、墳丘表面に散乱する土器片が必ずしも墳丘に供えられたものとは言えず、弥生時代の遺跡を改変して古墳が造られた可能性もあるとのことです。
また、墳丘表面には川原石も数多く見られます。
この山の石ではなく、人為的に持ち込まれたものとみて間違いありません。さらに、興味深い遺構があります。
後円部?の裾から南東方向に、石敷きの少し盛り上がった地形が10m近く延びている。
測量図でも石敷きの膨らみが現れています。一体何なのか定かでありませんが、何となく凝った造りという印象を受けます。
立地は備後・備中の国境、現在も広島・岡山の県境の尾根上で、標高約130m、麓からの比高約100mとそれ程高くはないですが、眺望は極めて良好な地点です。
現状では雑木が多く見通しにくい状況ですが、岡山県井原市から広島県福山市神辺平野まで広く意識した立地であることが窺えます。
…ということで、現時点では断言できませんが、可能性として「大東第1号古墳」は、弥生後期の前方後円様の弥生墳丘墓があるわけです。
これが1つ目の発見です。
…と、WEB上には「御領の古代ロマンを蘇らせる会」のこんな記載がありました(^-^)//"
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