2020/02/01(土) 円通寺・円通寺公園散策 <1/5>

 ■2020年02月13日20:05
 2/1(土)は、玉島の「円通寺公園」を散策でした(^.-)☆


 1月の下旬頃でしたか…何気なくテレビの前に座りますと、岡山県玉島の沙美海岸が画面に…小学生時代に、一度だけ沙美海岸で泳ぎました記憶が懐かしくボンヤリと(^-^)
 暫く画面を見つめておりまして、玉島には円通寺公園があったなぁ…と、急に出掛けてみたくなりましたGONsanです。
 玉島市街地から南西方向に位置し、円通寺(良寛和尚が修行した寺として有名)を中心に広がる公園なんですけど、急ではありましたが出掛ける事に(^-^)
 嫁さんは忙しそうでしたから、GONsan独りで(^.-)☆
 玉島には、国道2号線でなく寄島・沙美海岸を経由の海岸沿いを走行です(^.-)☆

 寄島まで来ますと、別に急ぎのドライブでもありませんから、三ツ山スポーツ公園に立ち寄りです。この海岸沿いには「三ツ山(三郎島)」が存在しますから、ここで数枚パチリとなりました(^.-)☆

 ◆三郎島

 三郎島は、青佐鼻海岸の南方、三郎島海水浴場の西南部沖合いに三っつ並んで浮かぶ島で別名三ツ山とも呼ばれている。この三っつの島は、粗粒花こう岩からなり、高さ各10m、長さ15m、相互に約6mの間隔をおいて規則正しく並んでいる。干潮時にはこれらの島へ陸地側から歩いていくことができる。

 ★以前は「三郎島」と呼ばれていた「三ツ山」

 「寄島の地名」によれば、神功皇后が還御の途中、吉備の島に寄り、天~地祇を祀られたとき、お供えの握り飯が海に転がり三つの島となった…と伝えられる。その後、この小島を仲哀天皇・應神天皇・神功皇后の現身として祀った。
 十六世紀半ば、富士権現が祀られ、小さい祠があったが、明治四十年(1907)の大津波によって流出した。また中央の島を天照大神、北の島を素盞嗚尊、南の島を嚴島神社の主神である杵島姫命(いつきしまひめのみこと)になぞらえて祀り、現在坦(なる)にある嚴島神社は明治12年(1879)、三ツ山から還されたという。明治の始め頃、嚴島神社(宮島さまの愛称)の祭礼のとき、お召し船が三ツ山を左廻りに三回まわる神事があったと伝えられている。

 ☆浅口市HPの説明は次のとおり

 寄島園地のある三郎島の西海岸沖に粗粒花こう岩からなる三つの島があります。高さ10m、長さ15m、相互に約6mの間隔をおいて規則正しく並び、干潮時には三つの島へ本土側から歩いていけます。この付近は潮干狩りのできる場所としても有名です。
 以前はそれぞれの島に松の木が自生していたそうだ。特に南の島には大松が生えていたが昭和五十年頃に枯渇した。その後、植樹を繰り返しても現存する木以外は生育が困難であるという。


 …と、こんな記載がWEB上にありました(^.-)☆
 それでは、引き続き、沙美海岸を通り抜け「円通寺公園」にと走行です(^-^)//"

 

 

 

 

 円通寺公園にと到着ですけど、駐車場は何処なのでしょう…見廻してみますと、国民宿舎「良寛荘」のスグ下に駐車場が存在です。多分、ここが円通寺公園の駐車場なのでしょうネ(^-^)
 数台の車が駐まっておりましたから、GONsanも同様に(^-^)

 ◆円通寺公園

 玉島市街地から南西方向に位置し、円通寺(良寛和尚が修行した寺として有名)を中心に広がる公園です。園内には、本堂・開山堂などの寺院や庭園のある境内地や、子どもたちの喜ぶブランコ・砂場などの遊具もあります。また、桜・サツキ・アカメなどの木々が四季を通じて楽しめる行楽地としても知られており、白樺山の頂上にある公園からは、玉島の古い町並みや瀬戸内海が見渡せます。

 ◆円通寺・円通寺公園(県指定名勝)について

 良寛和尚が約18年間修行した寺として有名な円通寺は、曹洞宗の名刹で、開基は行基と言われています。境内には本堂・良寛堂などがあります。
 円通寺を中心とした一帯は県指定名勝円通寺公園として、市民の憩いの場になっています。公園内には多くの詩碑や歌碑があり、文化の薫りが漂います。また、公園の山頂から眺める玉島港、瀬戸内海の風景は絶景で、訪れる観光客は後を絶ちません。
 円通寺はお花見スポット、及び紅葉スポットとして有名で、春には約500本ものソメイヨシノが咲き乱れる風景を、秋には円通寺境内が、見事な紅葉に包まれる風景を楽しむことができます。


 WEB上で検索しますと、こんな公園のようであります(^.-)☆
 それでは、早速、散策開始です。公園内には数多くの桜の木々が…花見の時期には、さぞ賑わう事でしょうねぇ(^-^)
 歩道に沿って進んで行きますと、眼に入りましたのが「源平大橋の俯瞰」の案内板。案内板には、こんな記載が…

 
◆「源平大橋の俯瞰」

 --- 案内板より ---

 「眼下の玉島港をまたぎ、颯爽とブルーの翼をひろげるこの大橋は、今をさかのぼる約800年の昔、即ち寿永2年(1183)平家物語や源平盛衰記の伝えるかの有名な源平水島合戦の古戦場をまたぐものであります。乙島は源氏、柏島は平家方が陣を構え、壮烈な決戦絵巻がくりひろげられましたが、旭将軍木曽義仲の軍もついに敗退することになりました。敵、味方、恩讐を越えて、乙島と柏島を結ぶこの大橋を、私達は源平大橋の愛称で呼び継ぐ事によって、つわものどもが夢のあとを偲ぶと共に、散華したそのみたまを供養し、歴史の悲劇を今日に生きる私達の心のかてにしたいものであります。(橋の開通 昭和52/7/12)」。


 立ち寄りはしませんでしたけど、玉島大橋西詰めの「玉島みなと公園」西側には「水島古戦場跡」の石碑が存在しますようですネ。
 残念ながら、この案内板からの眺望は樹木に遮られまして叶いません。もぅ少し公園の上の方に進みませんと(^-^)/"

 

 

 

 

 

 

 

 ヒマでしたから立ち寄れば良かったのかも…
 水玉ブリッジライン玉島大橋(通称源平大橋)。写真左側(乙島)に源氏軍、右側(柏島)に平家軍が陣を構えました。
 「水島古戦場跡」で検索してみましたら、WEB上には、こんな記載が(^.-)☆

 ◆源平合戦の古戦場を訪ねる 源平合戦特集〜水島合戦〜

 --- https://www.kurashiki-tabi.jp/feature/4820/ ---

 「源平の争乱」などと言われている「治承・寿永の内乱」。
 平家一門の都落ち以降、瀬戸内が合戦の舞台となり、様々なエピソードが伝えられています。ここ倉敷市にも様々な逸話が残る舞台がありますが、今回は平氏が勝利した数少ない戦いの一つである「源平水島合戦」の舞台を紹介させていただきます。

 寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで源義仲(木曾義仲)に大敗し、都を追われた平氏軍は九州に逃れたのち、屋島に本拠を移します。
 平氏追討のため四国の屋島へと軍をすすめていた義仲が率いる源氏の軍勢は、水島が途(現在の玉島湾)で平氏軍に海上戦を挑みました。両軍はそれぞれ、当時は海に浮かぶ島であった倉敷市玉島の乙島と柏島に陣を構えました。
 源氏軍は約5千人の兵を率い、100艘余の船で陣取り、平氏軍は200艘余の船に7千人が乗り込み海上戦を仕掛けた、とされています。この水島合戦では、正午ごろから日食が起き、それを予測していた平氏軍が、海戦に不慣れで動揺した源氏軍に圧勝したとされています。

 ・水島合戦の最中、日食が起こったことが確認されています。

 「源平盛衰記」によると、
 『天俄(にはか)に曇て日の光も見えず、闇の夜の如くに成たれば、源氏の軍兵共日蝕とは知らず、いとど東西を失て舟を退て、いづち共なく風に随つて遁行(のがれゆく)。平氏の兵(つはもの)共は兼(かね)て知にければ、いよいよ時を造り重て攻戦(せめたたかふ)。』
 とあり、源氏軍は日食とは知らず突然の暗闇に混乱してしまいます。平氏軍は日食を事前に知っており、この時とばかりに、混乱した源氏に襲い掛かりました。
 戦いの最中に日食が起こったということも珍しいですが、日食を利用した戦いというのも非常に珍しいのではないでしょうか。2012年5月21日には、糸のように細くなった三日月状の太陽(大規模部分日食)が倉敷市でも確認できました。

 ・源平水島合戦の舞台となった玉島港周辺。

 当時両軍を分けていた海には現在橋がかかっています。この橋は「源平大橋」とも呼ばれ、橋の西詰めには、同合戦800周年を記念して建立した記念碑があります。そこから橋を渡って東側の乙島へと歩いていくことができます。
 橋の北側にある常照院は源氏の山城があったとされています。
 NPO法人備中玉島観光ガイド協会では「源平水島合戦古戦場ウオーク」と銘打ち、合戦野名残を伝えるのスポットを案内しています。観光ブログでも紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。


 …と、こんな記載でありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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