2020/09/19(土) 笠岡市走出・山口「長福寺裏山古墳群」散策 <3/4> |
長福寺裏山古墳群を、ノンビリと散策して来ましたけど、この「東塚古墳」でオシマイのようですネ(^.-)☆
◆東塚古墳
所在地:笠岡市走出字木々名・山口字竹ノ内
時 期:5世紀後半
前方後円墳 -- 墳長50m弱 後円部 径約25m 高さ3.5m
前方部 幅推定約28m 高さ2.5m
墳丘をとりまく周濠と周堤をもち、円筒埴輪も出土しています。開墾によって墳丘の南半分が崩され、真っ二つの状態となっていましたが、平成12年に残り半分が復元されました。(本来の墳丘との境目に点々とレンガを置いています。)
後円部主体は崩されて残っていませんが、前方部には半分崩れた竪穴式石室が残っています。この石室は長軸に並行し、幅約1.2m、長さ3m足らずで、床面は平石を敷いています。床面からは、小型の五獣鏡、瑪瑙製勾玉(めのうせいまがたま)と滑石製臼玉(かっせきせいうすだま)、武器(刀・剣・鏃)・工具(刀子・?・斧)・農具(鎌・鋤先)・馬具(轡・鏡板・ホ具)などの鉄器と、短冊形の小さな砥石、木簡などに用いたと思われる大小の鎹が出土しました。
出土遺物などから、この古墳は仙人塚古墳の後に築造されたものと思われます。
--- 笠岡市教育委員会 ---
「東塚古墳」の案内板付近には、『古墳群はここまでです 木山捷平 → お墓まで 下り300m、生家まで 下り400m』の案内板もありました。
せっかく長福寺裏山古墳群を訪れましたのですから、大した距離でもありませんから「木山捷平 生家」に向かってみたいと思います(^-^)//"
「木山捷平 生家」に向かって下っておりますと、途中に「長福寺」の案内表示板が…ここは、また後で立ち寄ってみます事に。
この場所から少し下りますと、T字交差点で、直進か左折か少し迷いましたけど、左折方向に「木山捷平 生家 この下100m」が眼に入りました(^.-)☆
ここからは狭い路地を通って「木山捷平 生家」に到着となりました(^_^)v
◆木山 捷平
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月26日 - 1968年(昭和43年)8月23日)は、岡山県小田郡新山村(現在の笠岡市)出身の小説家、詩人。東洋大学文科中退。詩人として出発し、のち小説に転じた。「海豹」同人。満州で敗戦を迎え、帰国後、その体験をもとに長編『大陸の細道』『長春五馬路』などを発表。私小説的な短編小説やエッセイを得意とする。作家として目立たない存在であるが、庶民性に徹した飄逸と洒脱な表現で没後も根強い愛読者を持つ。
長男の木山萬里は、元東京ガス常務取締役。
◇経歴
矢掛中学校(現岡山県立矢掛高等学校)を経て、1923年(大正12年)に姫路師範学校(現・神戸大学)を卒業。小学校教諭となる。1925年(大正14年)に東洋大学専門学部文化学科に入学。後に東洋大を中退する。中学校在籍時より詩・短歌・俳句を作り始める。
1929年8(昭和4年)に処女詩集『野』を自費出版にて発表。1931年(昭和6年)には第二詩集『メクラとチンバ』を同じく自費にて刊行。同年11月、宮崎ミサヲと結婚。
1933年(昭和8年)に太宰治らと同人誌『海豹』を創刊。この頃、井伏鱒二と知己となり、以後親交が続く。同人誌創刊以降は小説家としての道を歩み、1939年(昭和14年)に処女小説『抑制の日』を発表、第9回芥川龍之介賞候補になる。1940年(昭和15年)に『河骨』が第11回芥川賞候補になる。
1944年(昭和19年)に新境地を開拓すべく満州(現在の中国東北部)の新京(現在の長春)に農地開発公社の嘱託社員として赴任する。1945年(昭和20年)に現地召集を受け兵役に就く。太平洋戦争終戦後、長春で1年程度難民として生活を送り帰国。1954年(昭和29年)に『脳下垂体』、1957年(昭和32年)に『耳学問』が直木三十五賞候補になる。
1962年(昭和37年)に、中国での戦争体験をもとに書かれた代表作『大陸の細道』を発表。1963年(昭和38年)に同作で第13回芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1968年(昭和43年)8月23日に食道癌で東京女子医科大学付属消化器センターにて死去。享年64。墓所は笠岡市の木山家墓地。法名は寂光院寿蘊捷堂居士。
1997年(平成9年)に笠岡市などが主催して木山捷平文学賞が設けられ、2005年迄の9回にわたり受賞作が発表された。2006年(平成18年)からは公募の新人賞の木山捷平短編小説賞に模様替えされた。
◇備考
郷里の笠岡市立図書館の2階には著作などを展示したコーナーが設けられているが、年譜を記載したパネルでは第二詩集の名称は不適切用語であるとして記載されていない。また、その下にある展示でも第二詩集の題名には紙が貼られているが、全て覆われておらず、一部が見えている。
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