2019年 某協議会第2分会の皆様と「札幌方面研修旅行」行きでした(^.-)☆ <10/16>

 

 中島公園内には、何ヶ所かオブジェが設置されておりますけど、これはその中の一つ「風景の夢(小田 襄)」なんです(^-^)

 ◆小田 襄(おだ じょう)風景の夢

 このオブジェは、南14条西4丁目の伊夜日子神社の裏側に当たる中島公園内に建立されています。制作者の小田 襄さんは1936年東京で生まれ東京芸術大学彫刻科を卒業ご数多くの作品を制作されていますがステンレスを使った彫刻が有名で国際的な金属造形作家のお一人です。


 …と、制作者「小田 襄」sanは、こんな方のようですネ(^.-)☆
 そして、中島公園に隣接し、札幌護国神社が…

 ◆札幌護国神社

 札幌護国神社、札幌護國~?((さっぽろごこくじんじゃ)は、北海道札幌市中央区にある神社。護国神社の一つである。
 1879年(明治12年)に、西南戦争で戦没した屯田兵の霊を祀るために建立され、以後各戦争における戦死者の霊を合祀してきたが、1949年(昭和24年)9月より多賀大社の祭神を勧請し、次いで1971年(昭和46年)9月に山鼻地区(札幌郡山鼻村)の鎮守であった山鼻神社の祭神を合祀し、現在に至る。
 そのため、同社は創建当初からの祭神を祀る本殿と、多賀大社より勧請した神々および旧・山鼻神社の祭神を祀る多賀殿(多賀神社)から構成される。


 …と、こんな護國~?でありますが、中には入れず、外から拝見するのみでありました(^.-)☆
 GONsan同様に、公園内を散策しながらパチパチ画像に納めておられます若者がお二人ばかり…GONsanのような観光客の方なのでしょうねぇ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 札幌護国神社まで散策して来ましたが、ソロソロ引き返さなくては…
 帰路もまたノンビリと歩きながら…「札幌コンサートホールKitara」の方に歩いておりましたら、途中に「レナード・バーンスタイン」sanの像が…
 んっ!?…このお名前、何となく聞き覚えが…でも、どなたか分かりません(^-^;早速、WEB上で検索です。

 ◆レナード・バーンスタイン

 レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein、1918年8月25日-1990年10月14日)は、ユダヤ系アメリカ人の作曲家、指揮者であり、ピアニストとしても知られている。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者になり、ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルク・ショルティと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきたスター音楽家だった。愛称はレニー。妻は、チリ出身の女優・ピアニストの、フェリシア・モンテアレグレ。

 ・生涯

 バーンスタインは、ウクライナ系ユダヤ人移民の2世として、マサチューセッツ州ローレンスに生まれる。生まれた当初の名前はルイス(後にレナードに改名する)。父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒であった。家族には音楽的な環境は全くなかったが、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。
 ボストン・ラテン・スクールを経て、ハーバード大学・カーティス音楽院で学ぶ。彼が指揮者を志したのはディミトリ・ミトロプーロスの刺激だった。指揮ではフリッツ・ライナーやセルゲイ・クーセヴィツキーに師事し、作曲はウォルター・ピストンに師事した。ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事している。カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったが、1943年夏にアルトゥール・ロジンスキの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの「副指揮者」(Assistant Conductor)に就任した。

 1943年11月14日、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現・ニューヨーク・フィルハーモニック)を指揮、この日のコンサートはラジオでも放送されていたこともあり一大センセーションを巻き起こす。この時の曲目は以下の通りである。
 ロベルト・シューマン『マンフレッド序曲』
 ミクロス・ローザ(ハンガリー出身の作曲家、映画「ベン・ハー」の音楽などが代表作)『主題、変奏曲と終曲 Op.13a』
 リヒャルト・シュトラウス『ドン・キホーテ』(チェロ:ジョゼフ・シュスター、ヴィオラ:ウィリアム・リンサー)
 リヒャルト・ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲
 1958年、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任する。バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、同フィルの黄金時代をもたらした。作り出す音楽の魅力、気さくでおおらかな性格、指揮者としての情熱的な指揮ぶり(興に乗ると指揮台上でジャンプすることもあった)などでファンを魅了し、スター性も備えていた。CBSレコードと録音契約を交わした際には「彼の録音に際しては、録音曲目の決定をほぼ彼に一任する」待遇を受け、当時としては画期的なレパートリーも数多く録音した。

 1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、ウィーン・フィル、イスラエル・フィル、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演した。ことに同じユダヤ系作曲家であるグスタフ・マーラーの交響曲の演奏は自ら“自分で書いたような気がしてくる”と言うほどで、数々の演奏を残した。音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行った。マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾、大植英次、佐渡裕など多くの弟子を世に送り出したことでも有名である。

 1985年8月に広島を訪れ、被爆40周年を悼むための「広島平和コンサート」を開催した。1989年のクリスマスには、直前に起きたベルリンの壁崩壊を受け、ベルリンで東西ドイツ・アメリカ・ソ連・フランス・イギリスの各オーケストラの混成メンバーでベートーヴェンの交響曲第9番を指揮、この時第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude”を“Freiheit(自由)”にして演奏し、東西冷戦終結を象徴する演奏会として記憶されることとなった。また翌1990年6月にも、民主化されたチェコスロバキアのプラハの春音楽祭で同曲を指揮した。
 これらのように音楽家として社会的なメッセージを発信する活動も数多く行ったが、時にはそうした行動が物議を醸すこともあった。
 1990年6月には札幌でパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を開始し、後進の育成にも力を入れようとしていたが、既にバーンスタインは病に冒されていた。同年8月19日のタングルウッド音楽祭におけるボストン交響楽団との演奏(ブリテン:「4つの海の間奏曲」、ベートーヴェン:交響曲第7番)が最後の舞台となり、10月9日に指揮活動からの引退を表明する。それから5日後の10月14日に、肺癌のためニューヨーク市内の自宅で逝去した。この年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞している。

 バーンスタインは生涯に7度来日した。最初の4回(1961年、1970年、1974年、1979年)はニューヨーク・フィルを率いて。1985年には8月上旬に前述の「広島平和コンサート」を開催し、9月前半にはイスラエル・フィルを率いて来日公演を行った。最後(1990年)はPMF、それに続いてロンドン交響楽団を率い、東京で2回の公演を行った。しかし、バーンスタインの病状悪化が周囲に知らされず、2回の東京公演以降に予定されていた演奏会をキャンセルし、途中でアメリカに帰国することになる。この一件は、7月10日の演奏会に天皇が招待されていたことや、自作(「ウェスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス)を弟子の大植英次に指揮させたこともあり、観客の一部と主催者との間にトラブルを起こす事態にまで発展した。

 …と、こんな方のようであります。1985年8月の広島平和コンサートでお名前のきおくが有りましたのかも…
 札幌コンサートホール前には、大きな卵のようなオブジェが…でも、何の説明表示もありませんでしたような(^.-)☆
 中島公園内には、天文台もありましたネ(^-^)//"


 ◆札幌市天文台

 札幌市天文台(さっぽろしてんもんだい)は、北海道札幌市中央区にある公開天文台。札幌市青少年科学館が管理し、中島公園内に位置する。所在地は北海道札幌市中央区中島公園1-17。

 ・概要

 札幌市天文台は1958年に開館した。内部には20cm口径のレンズを持つF12屈折望遠鏡を備えており、昼間公開として午前10時から午後4時まで、太陽を観察対象として無料開放を行っている。また、夜間公開も実施しており、2007年は雨天または曇天時以外、全12回・60日間の星の観望会を行う。休館日は月曜日の午後から火曜日と、年末年始を含む国民の祝日。観察対象は日によって異なり、主に月・土星やしし座、ペガスス座、アンドロメダ座が見られるほか、日食などの特殊な天文現象が起こる日には、特別の観望会を行う場合もある。
 天文台は中島公園内に位置しており、近隣には札幌コンサートホールKitara、豊平館、北海道立文学館がある。最寄り駅は札幌市営地下鉄南北線・中島公園駅など。

 

 

 

 

 

 う〜ん、この建物はキレイですネ(^.-)☆

 ◆豊平館
 豊平館(ほうへいかん)は、札幌市中央区中島公園内にある西洋館。

 ・概要

 1880年(明治13年)、今の大通に面する位置に高級西洋ホテルとして開拓使が建造した。最初の利用者は明治天皇で、以後要人の宿泊、祝賀会、各種大会に用いられた。後に公会堂となり、第二次世界大戦中に日本軍、戦後にアメリカ軍に接収された。1958年(昭和33年)に中島公園に移設され、以後は2012年(平成24年)3月まで市営の結婚式場として利用されていた。重要文化財(1964年5月26日指定)。平面積562.194u。運営費は年間約2,800万円。

 豊平館の設計は、開拓使工業局営繕御用掛の安達喜幸により、工事は大岡助右衛門が請け負った。1879年(明治12年)に建築をはじめ、翌年11月に完成、12月3日に落成式が催された。完成当時、完全な西洋式のホテルは日本にほとんどなかった。
 豊平館最初の宿泊客は明治天皇で、札幌行幸のとき、1881年(明治14年)8月30日から9月2日までの4日間、行在所に用いた。これによって開拓使は面目をほどこし、豊平館の格式もあがった。同年11月6日に開拓使は旅館と料理店の経営を民間に委ねた。しかし、天皇が泊まった2階客室に他の人を泊めることをはばかり、1階だけを利用させたため、ただでさえ少ない客室がさらに減ることになり、料金も高く、ホテルとしての利用は低調であった。中央の高官の宿泊のほか、祝賀会や各種式典の場として用いられた。
 札幌市の発展とともに式典・大会会場の需要が高まったため、札幌市は1921年(大正10年)に宮内省に願い出て豊平館を譲り受け、1926年(昭和元年)に豊平館の裏に新しい建物を作って連結した。豊平館と新しい建物は市の中心部にある公会堂として盛んに利用された。昭和初期に、明治天皇ゆかりの場所である豊平館は聖蹟とされた。そして1933年(昭和8年)に国の史蹟に指定された。

 豊平館は、第二次世界大戦中に北部軍に利用され、戦後にアメリカ軍に接収された。後にアメリカ軍が三越札幌支店を接収すると、三越にかわりの店舗として貸与された。アメリカ軍が近郊に建設したキャンプクロフォードに移転した1947年(昭和22年)に、札幌市のもとに戻った。以後、新旧の建物は公民館、市民会館として利用された。
 長く大通公園の東の端にあった豊平館は、1957年(昭和32年)に中島公園への移築のため解体された。跡地には新しい市民会館が建てられた。移築の対象は明治時代からの古い建物だけで、翌年に建築当時の姿に近い形で復元された。以後の豊平館は、市営の結婚式場として利用されていた。この間、史跡指定は1948年に解除されたが、1964年に明治時代の歴史的建築物として改めて重要文化財に指定された。

 2012年4月より2016年6月まで、耐震補強を含む保存修理工事のため、休館していた。工事完了後の利用方法について市は「集客交流資源として積極的に活用していく施設としてリニューアルオープンする予定」としていた。2016年春に札幌市は、6月20日に再オープンし昼間は観覧施設、夜間は貸し室として使用することを発表した。貸し室の用途には、修理工事以前と同様、結婚式の使用が認められている。


 中島公園入口方向に進んで行きますと、こんな碑が…「四翁表功之碑」と刻まれていますけど、どんな碑なのでしょう…

 ◆四翁表功之碑

 この碑は、中島公園にある[日本庭園]の入り口に建立されています。この四翁とは、札幌の開拓に尽力した[水原寅蔵][大岡助右衛門][石川正叟][対馬嘉三郎]の四翁の事です。
 [四翁表功之碑]は、1918年(大正7年)が開道50年と札幌本府創建50周年の年でした。これを記念して翌1919年(大正8)に創建当初の功労者を顕彰するためにこの碑を建立したものです。

 中島公園とお別れし、ホテル方向に戻っていますと、豊川稲荷札幌別院が…

 ◆豊川稲荷札幌別院

 豊川稲荷札幌別院(とよかわいなりさっぽろべついん)は、本院が北海道札幌市清田区北野7条2丁目8−18、祖院が中央区南7条西4丁目1−1にある曹洞宗玉宝禅寺の別称である。
 豊川稲荷(愛知県豊川市)の別院である。祖院は明治31年(1898年)開創。本院は昭和59年(1984年)建立。

 ・沿革

 祖院は札幌市の歓楽街・薄野の中心部のやや南側に位置する。1871年に遊郭が設置されて以来、薄野は商業地・繁華街として発展したが、商売繁盛を司る稲荷神への信仰は早くから存在し、1880年代初頭には既に無住の稲荷堂が建てられたという。その後1894年に地元の酒造業者・波多野与三郎によって、豊川稲荷の分霊を迎えようという計画が持ち上がり、現在の札幌市中央区南3条西4丁目に設立寺務所が設けられ、募金活動が開始された。波多野が花柳界と繋がりが深かったこともあり、発起人には料亭・芝居小屋・遊郭・見番(芸妓の登録組織)などの関係者が数多く名を連ねた。1年足らずの間に現在の金額で1億円近くの浄財(寄付金)が集まり、1895年から現在地で稲荷堂の建設が始められ、1898年5月に落成した。

 以後、豊川稲荷は「薄野の守護神」と呼ばれ、地域の人々の崇敬を集めることとなる。玉垣や門柱には寄進者として、地元の有力者や興行主などの他、見番に属する芸妓などの名前も数多く刻まれており、花街との関わりは特に深いものがあった。昭和初期までは、芸妓や遊女、小料理屋の女主人や仲居など、水商売に縁のある女性が、お百度を踏む光景が頻繁に見られたという。また、毎年9月22日に催された例大祭は、かつては札幌神社祭・三吉神社祭とともに、札幌三大祭と呼ばれるほど盛大なものであった。
 1976年5月25日、札幌料飲業団体連合会会長・熊谷秀一らを中心とした「薄野花街哀悼碑建立期成会」によって、薄野の花柳界の無縁仏と見づ子(水子)を哀悼する「薄野娼妓並水子哀悼碑」が建立された。境内を取り囲む玉垣は、地域の再開発などによって、昔よりも大幅に縮小されているが、災害などでの損壊を免れた本殿や門柱などとともに、遊郭時代の薄野を偲ばせる数少ない遺構となっている。
 清田区の本院は1984年、開創88年を記念して新寺として建立された。上記の経緯もあり、本院・祖院では水子供養が行われており、毎月24日には水子供養合同法要、毎年5月24日は水子石碑建立記念法要が催されている。


 …と、こんな豊川稲荷札幌別院のようであります。
 ホテルに戻りますと朝食を済ませ、そしてバスに乗車し余市町行きとなりました(^.-)☆
 途中、バス車内から「北海道庁旧本庁舎(レンガ)」をパチリです(^-^)/

 ◆北海道庁旧本庁舎

 北海道庁旧本庁舎(ほっかいどうちょうきゅうほんちょうしゃ)は、かつて北海道庁の本庁舎として建築された煉瓦造りの西洋館である。「旧道庁」や「道庁赤レンガ庁舎」、「赤レンガ」などと呼ばれ、親しまれている。重要文化財(1969年3月12日指定)。館内は北海道開拓関係資料を展示・保存する北海道立文書館等として一般に公開されているが、一部は隣接する現道庁の会議室として現在でも使用されている。北海道(道庁)にとっての象徴的存在であり、広報番組などのタイトルにしばしば「赤レンガ」が用いられている。道庁前のイチョウの並木は大正14年、勅任技師名井九介の指導により植えられたものである。

 

 

 

 

 

 

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