2019年 石川県金沢市での挙式参列(^.-)☆ <22/22>

 

 

 またまたWEB上で「尾山神社」を検索し、どなたかの記述をパクらせて頂き、尾山神社をご案内致します(^.-)☆

 ◆北の小京都・石川県金沢市

 石川県金沢市には北陸の小京都という呼び名があります。京都と同じくらい古い町並みや文化が残っている、金沢市だからこそつけられた呼び名です。
 そんな石川県や金沢市の礎が築かれたのは、江戸時代のこと。当時の石川県は加賀藩と呼ばれ、前田家によって統治されていました。加賀前田家の初代当主が前田利家です。
 金沢市内には、前田利家および加賀藩の精神を記念するため建立された尾山神社があります。和漢折衷でありながら洋式の風格も備えた、特徴的な神社である尾山神社を紹介します。

 ★まずは前田利家について解説

 新しい物好きであった前田利家は、当時まだまだ未発展だった金沢を開発し、現在の金沢の経済や文化、教育などの基礎を固めました。
 現在最も知られているのは、利家とその妻・松の物語。2002年には2人を主役とする歴史ドラマ『利家とまつ』が放送さたほどで、2人の仲睦まじさを伝えるエピソードは、現在まで語り継がれています。ドラマは高視聴率を獲得しただけではなく、金沢の知名度も飛躍的に上げました。

 ★尾山神社の4つの見所

 ・見所1 -- 和洋折衷 尾山神社神門

 尾山神社には普通の神社と異なり、日本式と西洋のスタイルが融合した門があります。
 オランダ人によって設計された門で、レンガと木材の3層構造で建造されました。最も特徴的なのは第3層に作られた西洋のステンドグラスです。最上部には日本最古の避雷針が設置されています。
 神門が建てられた明治時代は、日本に西洋文化が流れ込んできた時代。愛媛県の道後温泉や石川県の山代温泉古総湯など、当時の建築物の多くにはステンドグラスが採用されていいます。
 尾山神社の神門は、それらの建物と比べてもさらにユニーク。健在にレンガと木材の両方を採用した、和洋折衷の不思議な建築物なのです。
 神門に施された彫刻にも注目してください。これは前田家の紋章である「梅」を表しています。夕方以降に訪れる方は、日没後のライトアップもぜひご覧になってください。優しい光がステンドグラスを通り、見る者を魅惑的に照らします。普通の神社では得られない体験です。

 ・見所2 -- 和漢の融合 尾山神社本殿

 神門を抜けると、すぐに目に飛び込んでくるのが、和漢折衷の神社本殿です。本殿の屋根には中国の伝統的な建築様式が採用されており、ひとつの建築物の中に日本と中国、2つの国の要素が混ざり合っています。
 本殿の中で祀られているのが、加賀藩の創設者である前田利家です。

 ・見所3 -- 金鯰尾兜

 神社内では至る所に前田利家を記念する彫刻や置物を目にすることが出来ます。
 要チェックなのが、こちらの金色の兜。金鯰尾と呼ばれる、昔前田利家が使っていたものと同じモデルの兜です。霊力を持つと考えられていた鯰の尾をデザインしており、金沢市の特産である金箔が施されています。
 妻・お松の彫刻も前田利家像とそう遠くない場所に置かれています。出兵する旦那を静かに見守る姿を描いているそうです。

 ・見所4 -- 東神門

 尾山神社の後方にある東神門は、もともともと金沢城に備え付けられていたものです。東神門を通れば、前田一族がかつて暮らした金沢城遺跡へ行くことが出来ます。GONsan達は、この「東神門」から尾山神社に入りました(^.-)☆
 尾山神社は、和・漢・洋の3つの様式が融合している珍しい神社。新しいもの好きの前田利家らしい神社と言えるかもしれませんね。
 金沢市にやって来たら、尾山神社にも足を伸ばしてみてください。きっと前田利家も喜んでくれるに違いありません!

 ◆母衣

 母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。ホロは「幌」「保侶(保呂)」「母蘆」「袰」とも書く。

 ・概説

 母衣は古くからあり、後には武士の「七つ道具」の一つとされたほど由緒ある道具である。古代の母衣は鎧の上から全身を覆う保呂衣(ほろぎぬ)という戦袍(せんぽう)であり、防寒のためだったとする説もある。それが平安時代末から鎌倉時代になると、母衣は懸保呂(かけぼろ)となった。縦に縫い合わせた長い絹布(5尺8寸、5幅ほど)を、首、冑、手の甲などに紐で結びつけて、それが風をはらんでふくらむことで、後方からの弓矢や石を防ぐ役割を果たした。また前方に対しても母衣を頭から被って矢を防いだとする説もある。日本においては古代から中世まで長らく弓を主武器とする戦闘法が用いられており、隙間の多い大鎧をまとって馬を駆る当時の武士には適していたのであろう。

 しかし(日本独自に様式化された)騎馬戦闘が廃れ、南北朝時代(室町時代)頃から集団戦に移行したことで、古式の母衣は実用性が低下し、見栄えが重視されるようになった。内部に鯨のひげや竹などで作った骨(母衣骨、母衣籠)を入れて常にふくらんだ形状を維持できるように変化して、前には「だし(山車)」というものを立て、串をもって鎧の後ろに挿して、敵味方に自分の存在を示す標識ともなる差物(さしもの)の一種となった。保呂指物(または提灯保呂)は、大きさも大型化し、10メートルを超えるような巨大な布が棚引くものもあった。戦国時代に鉄砲が伝来すると補助防具としての実用性は失われたが、大将側近の近習や使番だけが着用を許される名誉の装飾具となった。(母衣衆)

 新井白石の『本朝軍器考』では「母衣」という表記はその形状と用途から妊婦の胞衣になぞらえたものであるという説を載せているが、民俗学者南方熊楠は、中国古典より「羽衣」の字を写し間違えたという説を主張していた。

 ・歴史

 『日本三代実録』の貞観12年(870年)3月16日の条には、小野春風が甲冑の薄さを補うために大量の「保侶」を朝廷に乞うたという記事が見られ、このころから用いられていたことが確認される。この時代はまだ武士の大鎧は形成されていない。
 『中右記』には永久元年(1113年)、源重時の郎従が甲冑の上に流れ矢を防ぐための保侶という布をまとい、これを一族の風として習い、源重武の郎従達も久安3年(1147年)の合戦で身にまとい、人目を驚かせたという。12世紀中頃では、武士甲冑による集団(一門)が揃って保侶を身にまとうという行為は、まだ珍しかった。吾妻鑑第18巻には、「建仁3年(1203年)9月9日、実朝公が初めて鎧を着し給わりし時、甲冑は母廬等を着する次第故事をさづけ奉った」の記述が登場する。
 文永の役の際、紅の母衣をかけた肥後国の大将菊池二郎武房が蒙古人の首ふたつを太刀と長刀(なぎなた)の先に刺して持っていたという記録がある。武房は仲間の死体の中から起きあがってかろうじて生き延びたとあることから、かなりの混戦だったとみられるが、紅の母衣が確認できるあたり、ちぎられなかったとわかる。

 15世紀末前後成立の『鴉鷺合戦物語』の「第八 母衣次第、正素嫡子七郎折檻、鵠越後守上洛之事」の条には母衣について詳しい記述があり、それによれば本式は紅であり、赤白の色もあり、これは陰陽の2色であるとし、白は老武者がかけるものと説明している。大きさについては「五幅五尺」、すなわち5尺の長さで約36cm幅の布を5枚縫合わせたもので「五大五仏」を表し、他に「八幅八尺」や「十幅一丈」(一丈は10尺)のものもあると記し、縫う糸についても口伝ありとする。その色から大きさ、製作まで信仰と密接に繋がっていたことがわかる。また陣中でかける母衣、合戦時にかける母衣、勝戦(かちいくさ)にかける母衣、歩立(かちだち)のかける母衣、討死が確定した状況でかける母衣と、状況によって使用する母衣は異なるとしている。『鴉鷺物語』が記述された15世紀時点では、紅・赤・白以外の色の記述は見られない。

 上泉信綱伝の『訓閲集』(大江氏の兵法書を改良したもの)の巻十「実検」には、母衣をかけた武者の首は獄門にかけてはならず、仏法で母衣武者の首を何の配慮もなしに獄門にすれば、その首は成仏できないとの理由から扱いに気をつけるようにといった内容の記述があり、あえて討死にする際は母衣をつけたともあり、母衣で首を包むのが決まりとなっていた。つまり母衣を身に付けているのといないのでは、首の扱いに待遇差があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 @本殿
 建造は古式に則った三間社流造で、簡素にして神厳に満ちた社殿です。本殿に向かって右側面の玉垣は珍しいレンガ造りで、剣梅鉢のご紋すかしとなっています。レンガを使用したのは、金沢ではここが最初です。

 A拝殿
 入母屋造屋根瓦葺
 中央天井は格天井作りで各間毎に岩絵具による極彩色のうどんげの花が美しく描かれています。これは旧金谷御殿から移築したものです。欄間は約八寸厚の欅の一枚板に見事な梅花紋を透彫にし、極彩色の華麗な彫刻で、これもまた旧金谷御殿から移築したものです。

 B神門<国指定重要文化財>
 明治8年の建築で、和漢洋の三洋式を混用した異色の門として全国に知られ、兼六園と共に金沢市のシンボルにともなっています。第一層には戸室石(角閃安山岩)を用いてあり、第三層は四面五彩のギヤマン張りで、もとは御神灯が点灯され、その放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する船の目標たらしめたものです。なお第三層目に設置された避雷針は、日本最古のものです。

 C利家公像
 織田信長公に仕え青年時代は赤母衣衆として従軍しました。槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられました。

 Dお松の方像
 前田利家公の正室で、学問や武芸をたしなむ才能豊かな女性であったと伝えられています。実母が利家公の母の姉で利家公とは従兄関係であり、利家亡き後は、芳春院と号しました。

 E授与所
 平成27年秋に完成したばかりの新しい授与所。開放的なガラス張りのデザインで、施設内には、金沢城など市内の観光地の四季の風景を映し出すディスプレイを設置してあります。

 F金谷神社
 二代藩主前田利長公をはじめ三代から十七代までの藩主、当主と正室(夫人)をお祀りしています。

 G東神門
 旧金沢城の二の丸の唐門で、明治3年以来旧卯辰山招魂社前にあったものを、昭和38年に当社境内地に移築しました。金沢城は、たびたび火災にあい、そのほとんどが焼失しましたが、この門が幸い難をのがれたのは、唐門の二匹の竜が水を呼んだためと言い伝えられています。今では、桃山風御殿建築の様式を偲ぶ貴重な建造物です。

 H神苑
 旧金谷御殿の庭園であって、古代舞楽の楽器を模した地泉廻遊式の名園です。神苑の水は、三代藩主利常公の命により完成した辰巳用水の水を高低差を利用して、兼六園から暗渠で導き、響遠瀑から落としていました。現在は、当時の水路が断絶したので、井戸を堀り地下水を池に流しています。

 

 

 

 

 それではこの辺で尾山神社とお別れです。
 長町武家屋敷跡界隈も散策してみたい気持ちでしたけど、次回の機会を見つけまして訪れてみたいと思います。
 数日後には、新婚ご夫婦から楽しそうな画像が届いておりましたネ(^-^)//"

 

 

 

 

 滞在ホテルでは火災が発生しましたようで、慌てて貴重品のみを手に建物外に避難したとの事でした。幸いにも被害はありませんようで一安心。
 移動し別の滞在ホテルでもまた、同様の火災がありましたとか…いずれも部分火災で、新婚ご夫婦には特に被害もありませんでしたとか…

 ◆ワイキキのホテルで連続不審火による火災が発生

 --- 2019.08.07 日刊ローカルニュース ---

 ホノルル市消防局は、4日(日)、5日(月)、6日(火)の3日間、ワイキキの3軒のホテルで不審火による火災が発生しており、放火の疑いが濃厚として調査を開始している。
 ワイキキでは、4日(日)にアロヒラニリゾートで不審火による火災が発生しているほか、5日(月)夜には、ワイキキ・ビーチコマーbyアウトリガーで、そして6日(火)には、グランド・ワイキキアンbyヒルトンで火災が発生している。
 なお、いずれの火災も、消防署員による消火活動と建物に設置してあるスプリンクラーシステムよって延焼が食い止められ、火災による怪我人などは確認されていない。

 当局によると、5日に火災が発生したワイキキ・ビーチコマーbyアウトリガーでは、火災発生後に2つの客室で部屋にあった貴金属や電子機器などが盗まれる窃盗被害が確認されており、当局では、何者かが部屋の自動キー入力システムを改ざんするなどして窃盗を行ったとみて調査を着手している。
 また、火災があった2つのホテルの防犯カメラに不審な男性の姿が確認されており、当局ではこの不審人物が同一人物とみて男の特定を進めるとともに行方を捜査している。


 …と、WEB上で確認してみましたら、こんな火災でありましたようです。
 お二人に何らの被害がありませんでしたから良かったものの、火事は怖いですから…
 ただ、新婚旅行先での予期しません出来事ですから、お二人にはいつまでも強烈な想い出として残ります事でしょうねぇ〜
 年月が流れ30年後…40年後に振り返りますと、その頃にはお二人に取られまして、良き想い出として蘇って来ます事でしょうネ(^-^)//"

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