2019年 石川県金沢市での挙式参列(^.-)☆ <21/22> |
暫し石川四高記念文化交流館のライトアップを楽しみまして、そろそろ戻りませんと(^-^)
アパホテルのあります片町に戻って来まして時間を確認しますと、う〜ん、もぅこんな時間。P.M.8:55でありました(^.-)☆
別にお腹も空いていませんけど、何か食べようか…と言う事になりまして…ですが、この片町にはファミレスなんぞありませんから、ブラブラ歩いて近くの居酒屋へ。
披露宴後の二次会も終わりましたのでしょうか…暫くしまして、新婚ご夫婦も合流です。
こぅいぅメンバーが揃いますのは、何年振りなんでしょう…ここ近年は福井に出掛けていませんから、久し振りのような感じも…
GONsanは、挙式前日に金沢観光は終えていますけど、姪は挙式当日に金沢にヤッて来ましたので、翌日は、弟夫婦・姪・私達夫婦の5人で、またまた兼六園へ(^-^)
まぁGONsan夫婦は年齢的に入園料は無料ですから、何度出掛けても構わないのですけどネ(^-^)//"
兼六園の金沢城公園方向への出口付近に存在します、この防犯カメラ…色んな角度から狙っておりますから、別に悪い事をしていなくても、つぃ身構えてしまいますネ(^-^)
でも、園内の防犯カメラは、ここしか無かったような…GONsanが気が付きませんだけで、色んな場所に監視カメラの設置がありましたのかも…
兼六園を出ますと、金沢城公園にと向かいます。
こちらも既に昼間・夜間共に訪れていますので軽くスルーのGONsanでありました。
そして、玉泉院丸庭園にと下りて来まして庭園内を一廻りし、次に向かいましたのが尾山神社であります(^.-)☆
東神門(裏門)側から尾山神社境内へ。
ほどなく「井村徳二顕彰碑」が眼に入りましたけど、う〜ん、「井村徳二」sanとは何者なのでしょう?早速、WEB上で検索です(^.-)☆
◆井村徳二
井村徳二(いむら とくじ、1899年(明治32年)11月18日-1958年(昭和33年)10月27日)は、石川県出身の実業家、政治家。
創業者の井村徳三郎の後、宮一大丸の社長に就任し、合併に伴い大和の初代社長に就任。
衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。
父は井村徳三郎(大和の前身である宮市百貨店創業者)。息子は井村寿二(勁草書房創業者、元大和会長)、宮太郎(元大和社長)。
1953年(昭和28年)4月24日の第3回参議院議員通常選挙では林屋亀次郎が国務大臣として行った地元石川県の内灘試射場の用地接収(内灘闘争)を批判して組合を味方につけ、現職の国務大臣を破る大番狂わせを演じた。
当時林屋が旧丸越本店の場所で後に丸越となる百貨店を武蔵として経営し、井村が大和を経営していたため、このときの争いは「武蔵」と「大和」の内灘沖会戦と呼ばれたが、対立候補の林屋は1943年(昭和18年)12月21日に林屋が経営していた丸越との合併で大和となった際に林屋が初代会長で井村が初代社長を務めた関係でもあった。また、北陸鉄道の代表取締役社長を1949年から1954年まで歴任した。
…と、こんな地元の名士でありました(^_^)v
◆尾山神社
尾山神社(おやまじんじゃ)は、石川県金沢市尾山町に所在する神社。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。
主祭神は、加賀藩の藩祖前田利家で、創建は1873年。旧社格は、別格官幣社。境内摂社に歴代藩主を祀った金谷神社がある。神門は津田吉之助によって建てられたもので、重要文化財に指定されている。例祭は利家の命日である4月27日。
・歴史
慶長4年(1599年)に前田利家が没すると、前田利長はその霊を祀ろうとしたが、公然と祀るには憚るところがあったので、越中国射水郡の式内社物部神社(現 富山県高岡市東海老坂)に併祀されていた八幡神を勧請して金沢城の東に卯辰八幡社を建て、ここに合祀した。この神社は、幕末になると藩の財政が乏しくなり荒廃が目立つようになった。明治時代になって、1872年(明治5年)に教部省出仕加藤里路(元金沢藩の権大属・宣教掛で、のちに尾山神社の社司)と石川県参事桐山純孝が新たに藩祖を祀る神社を建てる計画をする。旧藩臣が集まり、前田土佐守家の前田直信が代表になり、1873年(明治6年)金沢城の金谷出丸の跡地に新たに建立することとなった。元の卯辰八幡社は明治11年(1878年)、宇多須神社となっている。
1873年(明治6年)3月に政府より神社創立許可が出て、同月14日に創建し、社号を尾山神社とした。同月30日に、1871年(明治4年)7月、卯辰山三社の一つである卯辰山天神社(卯辰神社、卯辰山天満宮)に一時的に遷座していた神像を尾山神社に遷座した。11月16日にはときの県令内田政風を始めとする官吏が参列して、卯辰山八幡宮より神霊遷座が行われた。当初、社格は郷社に列格され、翌年に県社に昇格する。
1873年(明治6年)11月には前田家当主前田斉泰の子の少教正・大聖寺藩知事前田利鬯(としか)が説教を行っている。次々と境内施設が整えられていくなか、1875年(明治8年)11月に特徴的な神門が造立されることとなる。この神門は長谷川準也・大塚志良により計画され、長谷川家出入りの大工・津田吉之助(1827年-1890年)によって建てられた。1879年(明治12年)7月には前田利長・前田利常が相殿に祀られる。同年9月には歴代藩主を祀る境内摂社として金谷神社が創建される。
1874年(明治7年)3月に石川県中教院が設置された。同年5月1日には中教院神殿の祭神4柱(造化三神・天照大神)の鎮座式が前田利鬯を祭主として県令・県下神職僧侶参列の上で行われた。
1902年(明治35年)4月26日、長年の昇格請願運動が実り、米沢の上杉神社と同時に別格官幣社に昇格している。7月3日から5日には昇格慶賀祭が行なわれた。
本殿と拝殿は1873年(明治6年)に建てたものである。
・祭神
尾山神社、相殿にそれぞれ次の神が祀られている。
尾山神社:贈従一位権大納言菅原朝臣利家(前田利家)
相殿:贈正二位権大納言菅原朝臣利長(前田利長)、権中納言従三位菅原朝臣利常(前田利常)
・祭礼
1891年(明治24年)は前田利家による金沢城修築(1592年(天正20年))より300年目であったため、初代金沢市長稲垣義方らが金沢城修築三百年祭を行なうことを提案し、同年10月11日-15日に行なわれた。11日の祭典には、前田利嗣夫妻も出席して執り行われた。
祭典費として利嗣は1,000円を寄付している。また天皇は幣帛料20円を下賜している。13日には初めての神輿渡御がかつての前田家行軍式(備押)を模して行なわれた。
1899年(明治32年)は、前田利家の死後300年にあたり、前田家の旧家老八家であった本多政以・横山隆平・長克連らの計画で、前田利家三百年祭(封国祭)が行なわれた。期間は4月27日から5月3日の7日間であった。29日に前田利嗣を祭主に、前田利同を副祭主にして祭祀が執り行われた。石川県知事・志波三九郎が奉幣使として参列した。神輿渡御が1日2日に行われたが、大盛況だったという。
現在毎年6月中旬に行なわれている百万石まつりは1923年(大正12年)より封国祭にあわせて金沢市祭として行なわれるようになった奉祝行事に起源するものである。終戦により、尾山神社奉賛会が主催となり市祭としては行なわれなくなったが、1952年(昭和27年)より金沢市と金沢商工会議所が中心となって行なわれている。
◆東神門
もともとは、金沢城二の丸御殿で利用されていた。二の丸御殿はたびたび火事にあっているが、その際この門は一度も燃えなかった。その理由としては、立派な龍の彫刻が施されており、この龍が水を吹いて火災を免れたという伝説がある(作者名は不明)。
その後、金沢城は廃城となり、金沢城跡が陸軍の拠点となると、訓練などに支障が出るとして卯辰山の寺院に移動された(なお、この後にも陸軍が二の丸御殿で火事を起こしている)。卯辰山の寺院がなくなると、尾山神社に移され、現在は裏門として利用されている。
そして、眼に入りましたのが、何となく奇抜な「母子順風之像」でありました。
これも、WEB上で検索してみますと、こんな記載が…ですが、詳しい記載は見当たりませんでしたネ。
・神社の境内にあるのがなんとも言えない母子順風之像。母子順風之像〜参拝者の度肝を抜かすアクロバティック母子〜
・「報恩感謝」の崇高な理念が込められているという銅像。
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