2019年 石川県金沢市での挙式参列(^.-)☆ <4/22>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暑い日差しの中、早足で金沢城公園内を一通り巡りましたけど(一通りと言いますより、一部と言った方が良いのかも)、さすが加賀百万石ですから大変立派な公園でありました\(^o^)/
 数々の石垣は、仲々見応えがありました。
 後で知りましたけど、お願いしましたら地元のボランティアガイドさんに無料で案内して貰えたとの事。ガイドさんの案内で金沢城公園内を廻りましたら、さぞ、有意義に知識吸収も出来ましたのでしょうけど…
 どなたかがWEB上で、地元のボランティアガイドさんの説明を綴っておられましたので、引用しますと、

 ◆金沢城と兼六園の見どころを地元ガイドと巡る!加賀百万石の魅力に迫ってきた

 --- 2019.02.14 更新 ---

 石川県金沢市の中心部に位置し、加賀百万石の歴史と文化を今に伝える「金沢城」と「兼六園」。ともに金沢を代表する観光スポットとして、多くの人に親しまれています。そんなふたつの文化遺産を知り尽くす地元のボランティアガイドさんと一緒に、見どころをたっぷりと巡ってきました。

 ・国の史跡「金沢城跡」と日本三大名園「兼六園」

 江戸時代に「加賀百万石」として名を馳せた加賀藩。その藩主・前田氏の居城であった「金沢城」は、隣接する「兼六園」とともに金沢を代表する観光スポットです。度重なる火災で建物の大半を焼失しましたが、平成に入ってから復元作業が進み、平成8(1996)年より「金沢城址公園」として一般公開されるように。平成20(2008)年には「金沢城跡」として国の史跡に指定されました。
 一方の「兼六園」は、前田家5代・綱紀(つなのり)が金沢城に付属して造らせた大名庭園。日本三名園のひとつとして、国の特別名勝に指定されています。
 そんなふたつのスポットを地元のボランティアガイドさんが無料で案内してくれると聞き、行ってきました。

 ▲ボランティアガイドの受付場所は、兼六園に最も近い金沢城の入口「石川門」を入ってすぐ。事前予約はできず、待機しているガイドに希望を伝えます。

 金沢城の高度な建築技術と日本最大級の大きさに注目!
 コースはお客さんの希望によって自由にアレンジできますが、一般的なのは、金沢城と兼六園それぞれを約50分間で巡るコース。今回もこのコースで案内していただきました。

 ▲今回案内してくれた「城と庭のボランティアガイドの会」会長の山崎輝雄さん。会は平成16(2004)年に設立し、2019年2月時点で約130名の会員がいるのだそう。

 「金沢城は明治時代の火災でほとんどを焼失し、全て木造で復元されたことから、明治以降に建てられた木造城郭建築物としては日本最大規模を誇ります」と山崎さん。
 ガイド受付がある「石川門」から入ると、すぐ目の前に「三の丸広場」という芝生広場が広がります。その奥に見えるのが、「五十間長屋(ごじっけんながや)」という大きな建物。長屋というと住居を想像しがちですが、武器や食料を保管する倉庫として利用されたもので、城を守る城壁としての役割も兼ねていたそうです。

 ▲五十間長屋。五十間(約90m)の長さがある建物で、平成13(2001)年に120年ぶりに復元されました。

 よく見ると、屋根瓦が白く見えます。これは一般的な土瓦とは異なり、鉛の板で葺いた「鉛瓦(なまりがわら)」と呼ばれるもの。従来の屋根の上に薄い鉛板を張り付けて造られているそうです。
 「雨や雪などによる化学反応で鉛が白くなったもので、白化現象とも呼ばれています」と山崎さん。この鉛瓦は雪が多い北陸で、重量低減と長寿命化の対策として考えられたものだそうです。五十間長屋だけでなく、金沢城の櫓(やぐら)や塀などの建造物にも使用されているのだとか。

 ▲近くで見ると屋根瓦の白さがよくわかります。

 さらに城郭の壁に施された、美しい海鼠(なまこ)壁も金沢城の特徴。正方形の黒瓦を互い違いに敷き詰め、その隙間を漆喰で盛り上げています。これは寒冷地ならではの耐久性に加えて美観も意識されたもの。歴代藩主の美的センスが窺えますね。

 ▲白い鉛瓦と海鼠壁のバランスが美しい!

 五十間長屋の北端(三の丸広場を背に右側)にあるのは、防衛の要となった物見櫓「菱櫓(ひしやぐら)」の復元。その名前は、建物を真上から見ると菱形(四隅の内角がそれぞれ80度と100度)になっていることに由来しているそう。
 「こうすることで、外側から見ると目の錯覚によって建物が大きく見えるのです」と山崎さん。

 ▲建設には非常に高度な技術を要したと考えられている菱櫓

 なお、ツアーの出発点となった「石川門」は、直角に設けられたふたつの城門と城壁で囲まれた枡のような形状が特徴である枡形門。度重なる大火に見舞われながらも江戸時代中期から現存している貴重な建造物であることから、国の重要文化財に指定されています。

 ▲城門の内側にL字形の城壁を設け、ふたつの門を通ることで防御性を高めた枡形状の石川門

 「枡形門は大阪城や丸亀城にも見られますが、江戸時代から現存しているのは石川門だけ。約230年前の姿そのままで残っているんですよ」と山崎さん。

 ツアーがスタートしてすぐの三の丸広場から見える建物だけでも、こんなにも特徴的な工夫が施されていたり歴史的な意義があったりして面白いですね!
 芸術的な石垣群にも注目!
 山崎さんによると、「金沢城の魅力は多種多様な石垣でもある」のだそう。別名「石垣の博物館」ともいわれており、積み方や素材の違う石垣を一堂に見ることができます。
 例えば石川門は、左右の壁面の石垣が異なる積み方になっています。一方は四角く切り出した石をきっちりと積んだ「切石積み」で、もう一方は割石の形をある程度だけ整えて積んだ「粗加工石積み」。「主要な石垣の積み方2通りが同時に見られる、大変珍しい場所ですよ」と山崎さん。石垣もこのように注目してみると面白いものです。

 ▲左右の石積みが明らかに違うのがわかります

 ▲五十間長屋の石垣は、地元の戸室(とむろ)山から削り出された赤と青の戸室石(安山岩)を交互に積み上げたもの。モザイクアートのようです。

 ▲「東の丸北面石垣」は、古い技巧である自然石積みによって造られた金沢城初期の貴重なもの

 なお、金沢城には天守閣がありません。前田氏の祖として知られる前田利家が入城した約20年後の慶長7(1602)年、落雷で天守閣を焼失。その約160年後の宝暦9(1759)年、江戸時代中期にも金沢大火で城のほとんどを焼失し、実用性を重んじて、本丸ではなく二の丸を中心とした整備が行われたためです。

 ということで、五十間長屋に沿って城郭をぐるりと一周し、公園の中心に位置する二の丸広場へと向かいます。石垣から庭園まで見どころたくさんの二の丸周辺。
 ここでも、やはり注目したいのは石垣です。表情の異なる多彩な石垣に出合え、その違いを見比べるだけでも楽しめます。
 「最も玄人好みする石垣」と山崎さんが紹介してくれたのが、江戸時代初期に改修された「二の丸北面石垣」。石川門の石垣でも見られた「粗加工石積み」という手法を取り入れており、この手法の中でも最も完成されたものだといわれています。

 ▲ある程度整えて積んだ「粗加工石積み」ながら、この「二の丸北面石垣」は石の大きさも形も全て統一されていて、まるでレンガ積みのよう。春は桜並木となり、それもまた見事なのだとか。

 続いてたどり着いたのが、かつて大奥だった場所にある「数寄屋敷(すきやしき)石垣」です。女性の住居なので威圧感がないよう、長方形の石が横積みになっています。
 なお、こちらの石垣は刻印(石に刻まれた記号)が彫られているのも特徴。一説によると、石材の採掘場や職人ごとに石垣を割り振り、積む際の目印にする目的があったと考えられています。概ね1600年代に積まれた石垣に刻印が使われているそう。


 …と、こんな記載で、予備知識も何にもありませんGONsanですから、何にも分からず観て廻っただけでしたのかも分かりませんねぇ〜
 公園内の散策を終え、印象に残っていますモノの一つが、この画像の石段なんです(^.-)☆
 「この石段は、何で、高さや幅がバラバラなんだろう?…」と不思議に感じながら画像に納めておりましたけど、『三十間長屋へと通じる「本丸附段(ほんまるつけだん)」の階段は、敵が攻めてきても上がりにくいよう段の高さや幅がバラバラに組まれています』からなんですネ(^.-)☆
 いゃぁ、とにかく『加賀百万石』を充分に感じさせます「金沢城公園」でありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 金沢城公園とお別れし兼六園に向かおうとしますと、着物姿の女性お二人が兼六園からお帰りでした(^.-)☆
 思いがけない予期しない光景ですから、眼を向けておりますと、暑さも吹き飛び涼しさを感じてしまいましたネ\(^o^)/
 それにしましても、金沢城公園同様に兼六園でも外国人観光客の多いこと(^-^)
 ツアーでヤッて来ておられますのかも…世情を反映し、韓国の方は見掛けませんで英語圏の観光客の皆様が大変多いようでした。入園料は、65歳以上は無料でありましたから、翌日もまた散策しなくては(^_^)v

 ◆兼六園

 兼六園(けんろくえん)は、石川県金沢市に存在する日本庭園である。国の特別名勝に指定されている。広さは約11.7ヘクタール。
 17世紀中期、加賀藩によって金沢城の外郭に造営された藩庭を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園であり、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の1つに数えられる。2009年3月16日発売の『ミシュラン観光ガイド』では、最高評価の3つ星に選ばれた。

 園名は、松平定信が『洛陽名園記』を引用し、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名した。四季それぞれに趣が深く、季節ごとにさまざまな表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩となっている。県内でも随一の桜・梅・紅葉の名所でもあり、日本さくら名所100選にも選ばれている。
 金沢市の中心部に位置し、周辺には成巽閣、石川県立美術館、金沢21世紀美術館、石川県政記念しいのき迎賓館などの観光地があり、道路(百間堀通り)を隔てて橋一本で金沢城公園とも繋がっている。入園は後楽園、栗林公園と同じく有料となっているが、早朝や年末年始・観桜期・金沢百万石まつりの日・お盆・文化の日などの時期は無料開放されている。また、兼六園の県民観賞の日(毎週土曜日・日曜日)などの各種入場料免除制度もある。

 ★歴史

 ・江戸時代

 1676年(延宝4年)、加賀藩4代藩主の前田綱紀が、金沢城に面する傾斜地にあった藩の御作事所を城内に移し、その跡地に自らの別荘である「蓮池御殿(れんちごてん)」を建ててその周りを庭園化したのが兼六園の始まりである。庭は当時は蓮池庭(れんちてい)と呼ばれ、歴代藩主や重臣らが観楓の宴などをする場として使われていたが、1759年(宝暦9年)4月10日に発生した宝暦の大火で焼失した。それから15年後の1774年(安永3年)、10代藩主前田治脩によって蓮池庭が再興され、同年に翠滝と夕顔亭、1776年(安永5年)には内橋亭を造り、庭園が整備された。また、蓮池庭上部にある平坦な場所で当時は空き地になっていた千歳台に藩校である明倫堂と経武館を建てた。

 11代藩主の前田斉広は、1819年(文政2年)に37歳で隠居を表明した後、千歳台で自身の隠居所の建設を始め、藩校は現在のいしかわ四高記念公園の場所に移した。3年後の1822年(文政5年)には建坪4,000坪・部屋数200を超える隠居所「竹沢御殿(たけざわごてん)」を完成し、この年に白河楽翁(松平定信)によって兼六園と命名された。
 斉広の死後、竹沢御殿は12代藩主前田斉泰によって取り壊されるが、斉泰は1837年(天保8年)に霞ヶ池を掘り広げたり、栄螺山を築いたり、姿形の良い木を植えるなどして庭を拡張・整備し、1860年(万延元年)には蓮池庭との間にあった塀を取り壊して、現在の形に近い庭園を築いた。

 ・明治時代以後

 長らく殿様の私庭として非公開だったが、1871年(明治4年)から日時を限っての公開が開始。同年に園内の山崎山の下に異人館が建てられ、噴水前には理化学校が開設された。1872年(明治5年)には異人館は成巽閣とともに国内初の博物館である金沢勧業博物館となった。同館は1909年(明治42年)に廃止されるが、その間1879年(明治12年)に図書館、1887年(明治20年)に金沢工業学校(後の石川県立工業高等学校)が附属されるなど、大規模なものに拡張された。
 1874年(明治7年)5月7日から正式に一般公開され、1876年(明治9年)には兼六園観光案内組合が組織され、積極的な観光利用の歴史が始まった。24時間開放されていたが、石の持ち去りや灯籠の破壊などが後を絶たず、保存徹底の声が上がるようになり、維持・保存費用捻出も兼ねて1976年(昭和51年)から有料とし、時間を限って公開されるようになった。1985年(昭和60年)に特別名勝に指定された。


 …と、こんな兼六園ですけど、昭和51年まで24時間無料開放されていましたとは、少し意外ですネ。
 もっと早くから保存管理に注力しておられましたら良かったのに…とも思ってしまいますネ(^-^)//"

 

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