2019年 石川県金沢市での挙式参列(^.-)☆ <2/22>

 

 

 玉泉院丸庭園の散策を終えますと、金沢城公園にと上がります。この金沢城公園は、石垣巡りが楽しいようですねぇ〜

 ◆金沢城公園

 天正11(1583)年、前田利家が金沢城に入り、その直後から本格的な城づくりが始められました。キリシタン大名として知られる高山右近を招き、築城の指導をを仰いだと伝えられています。
 西丁口から尾坂口へと大手が変更されたのもこの頃です。しかし、当時は城内に重臣たちの屋敷があり、決して広い城ではありませんでした。
 慶長7(1602)年、落雷により天守が焼失した後、天守は再建されず、本丸には三階櫓と二の丸には御殿が建てられました。
 寛永8(1631)年の火災の後、二の丸の拡大や辰巳用水の通水などにより城の構造が変化するなかで、武家屋敷も城外へと出されました。内堀を掘り、土を掻き上げて各曲輪が区画されていきました。

 宝暦9(1759)年の火災では、城のほとんどを焼失しました。その後の再建では、実用性を重んじ、二の丸を中心とした整備が行われ、本丸の櫓は再建されませんでした。
 細工所が新丸から堂形へ移されたのもこの時期です。現存する石川門は、この後天明8(1788)年に再建されたものです。

 平成13年に復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は、文化5(1808)年の二の丸火災の後再建され、明治14(1881)年の火災で焼失したもので、安政頃の景観を再現しました。

 ◆金沢城公園整備の概要

 ・事業の経緯

 金沢城の歴史は、古くは天文15(1546)年に本願寺が金沢御堂を創建したことに始まります。その後、天正8(1580)年に織田信長の命を受けた佐久間盛政が築城を始め、3年後の天正11(1583)年に前田利家が入城し、明治2(1869)年まで加賀藩前田家14代の居城として金沢城が置かれました。
 明治以後、終戦までは陸軍の拠点、その後、平成7年までは金沢大学キャンパスとして利用されてきました。現在、金沢大学は金沢市郊外の角間地区に移転しましたが、この総合移転計画に合わせ、平成3年8月に設置した「金沢大学跡地等利用懇話会」で検討を重ね、平成5年3月に「公園的、文化的利用を基本とする」との提言を受け、金沢城の公園化に向けた動きが始まりました。
 平成8年に金沢大学跡地を取得後、基盤整備や休憩施設など公園としての受け皿を整備し、平成13年に都市公園として開園しました。菱櫓や河北門、いもり掘など城郭施設の復元を進め、平成27年には、橋爪門の復元や玉泉院丸庭園の整備を行っています。

 ・事業の目的
 金沢城の貴重な歴史的文化遺産を後世に継承し、兼六園と並ぶ県都金沢のシンボル公園として、また、本県の歴史・文化・伝統を継承する「象徴」として、本県の豊かな文化土壌に一層の厚みを加えるとともに、県下の交流人口の拡大と都心地区の魅力向上を図ります。

 ・整備方針
 国史跡(平成20年指定)として貴重な文化遺産と良好な緑を保全しながら、江戸後期の城郭の地割りを基に、史実を尊重して公園を整備します。また、菱櫓など歴史的建造物の復元により、往時の城郭の雰囲気が感じられ、歴史を偲べる公園として整備することとしています。具体的な整備にあたっては、城郭、史跡などの専門家や有識者、県民の代表の方など多くの方々の意見を伺いながら進めています。

 ・石垣巡り
 金沢城では、前田利家の入城後、本格的な石垣づくりが始まりました。出入口や庭園といった場所に応じて、特殊な技術やデザインが工夫されたこと、また何度も修築が繰り返されたことなどから、現在、さまざまな種類の石垣を見ることができます。
 さらに、石垣づくりの秘伝書、石を切り出した丁場、石引き道の存在など、石垣に関する歴史資料や環境がそなわっていることをあわせ、金沢城は「石垣の博物館」と呼ばれています。
 ありし日の城の姿に思いをはせながら、金沢城の石垣を巡りますのは楽しいですネ(^.-)☆

 ◆金沢城

 金沢城(かなざわじょう)は、石川県金沢市丸の内にあった日本の城である。江戸時代には加賀藩主前田氏の居城だった。城址は国の史跡に指定されており、城址を含む一帯は金沢城公園(かなざわじょうこうえん)として整備されている。

 ・概要

 金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形に因む。台地先端を山の尾と見做した)。櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。

 この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である「尾山御坊(おやまごぼう、または御山御坊)」であった。寺とはいうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞でもあった。織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政を置いた。後に盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により討たれ、秀吉は金沢城を前田利家に与えた。利家は文禄元年(1592年)から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べた。兼六園は、加賀藩五代藩主前田綱紀が金沢城に付属してつくらせた大名庭園である。

 なお、金沢の地名は室町時代の文明年間には既に存在していたことが知られているが、尾山御坊時代は金沢の小立野台地の先端すなわち山尾(尾山)にあったことから尾山の呼称が使われていた。佐久間盛政が新城を築いた時に一向一揆の印象が強い尾山ではなく金沢を城名に用いたが、前田利家が入城すると羽柴秀吉(豊臣政権)に敵対して滅ぼされた盛政命名の金沢城ではなく自身の出身地の尾張国にも通じる尾山を採用した。だが、金沢の地名が広く知られていたために尾山城の名前は普及せず(豊臣政権の公文書でもほとんど用いられていない)、利家自身も再び金沢の城名を用い始めたと推測されている。
 城址は明治以降、存城とされて軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、第二次世界大戦後には金沢大学が平成7年(1995年)まで置かれていた。


 …と、WEB上で検索しますと、こんな金沢城公園のようであります(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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