備陽史探訪の会 バス例会
2019年 「吉田郡山城 & 多治比猿掛城」の山城歩き <7/8>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆御本丸跡

 「西日本最大級の中世の城」として知られる郡山城(広島県安芸高田市)。地名から「吉田郡山(よしだこおりやま)城」とも呼ばれます。このお城の最大のみどころは、標高390m、比高190mの山頂を中心として、放射状に築かれた270もの曲輪。山頂に築かれた本丸を中心として放射状に伸びる6本の尾根と、さらに尾根から分かれる支尾根が6本、合わせて12本の尾根が生かされています。さらに、12本の尾根の間にある12ヵ所の谷を曲輪や道路として利用。本丸を見上げながら、次から次へと遭遇する曲輪を歩いていると、その複雑な構造を実感できます。


 休憩も兼ねまして御本丸跡をジックリ見廻し、ここで集合写真をパチリとなりました。そして、元就公墓所へと下山です。
 御蔵屋敷跡を横目に下山で、元就公墓所を目前に「嘯岳禅師の墓」が…

 
◆嘯岳禅師の墓

 嘯岳禅師は元就によってこの地に招かれた高僧で、元就の菩提寺である洞春寺の開山となりました。毛利家墓所の上にあり、柊の大木のもと高さ2.7メートルの宝筐印塔が建っています。
 禅師は2度も明に渡り、帰朝後、京都の建仁、南禅両寺に歴任していましたが、元就の要請により三原妙法寺の住職となりました。毛利家の尊敬厚く、出陣毎に戦勝の祈とうを執行させました。
 元就逝去には葬儀の尊師を努め、3回忌には菩提寺洞春寺の開山となりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嘯岳禅師の墓から少し下りて来ました所に「毛利元就公墓所」が存在です。
 石段を上がりますと、右手に墓所。左手に「百万一心」の石碑が存在でありました。

 ◆毛利元就の墓(吉田町)

 元就は1571年(元亀2年)に城麓の御里屋敷で75年の生涯を閉じました。その墓は、郡山城跡山麓の洞春寺跡に残されています。
 郡山城の搦手(からめて)に建てられた洞春寺跡にあります。元就は元亀2年(1571)6月14日城麓の御里屋敷で波瀾万丈の生涯を閉じました。享年75歳の初夏でした。墓標には「はりいぶき」が植えられ、3回忌に菩提寺洞春寺が建立されました。
 墓所境内には毛利氏一族の墓、百万一心碑などがあります。

 ★【毛利公墓前祭】

 毛利元就は、中国地方をほぼ平定した元亀2(1571)年、75歳で没しました。墓標には、今は枯れていますが「ハリイブキ」が植えられ、菩提寺の洞春寺が建立されました。墓前の石灯籠の中には、吉田の名医土生玄碩や広島藩主浅野吉長から寄進されたものもあります。標樹近くに「贈従三位大江朝臣元就卿御墓」の墓碑があります。毎年7月16日には、現在の71代目毛利家当主を招き、墓前祭が行われます。
 いつもは、柵の外側からしかの見学できませんが、この日だけは中に入ることができ貴重な体験が出来ます。

 ◆百万一心碑(吉田町)

 元就は城拡張の際に、それまでの風習であった人柱に替えて「百万一心」と彫らせた巨石を埋めたと伝えられています。その拓本を模刻し建設したものです。
 毛利元就が郡山城を拡張するとき人柱に替えて姫丸壇の礎石に「百万一心」と彫らせ、それを埋めたと伝えられています。その拓本を長さ1.8メートル、幅0.6メートルの石に模刻し、建設したもので、町のモットーともなっています。

 ・百万一心(ひゃくまんいっしん)は、戦国時代の大名毛利元就が吉田郡山城(安芸高田市)の拡張工事(普請)の際に人柱の代わりに使用した石碑に書かれていた言葉。

 ・概要

 百万一心とは、「百」の字の一画を省いて「一日」・「万」の字を書き崩して「一力」とすることで、縦書きで「一日一力一心」と読めるように書かれており、「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」ということから、国人が皆で力を合わせれば、何事も成し得ることを意味している。吉田郡山城の改築で本丸石垣の普請が難航したときに、人柱に代えて、本丸裏手の「姫の丸」(姫丸壇)にこの句を彫り込んだ石を埋めたところ、普請は無事に終えられたと伝わる。同じく毛利元就の教えとされる三矢の教え(三子教訓状を参照)と共に、一致団結の大切さを訴えた教えとされている。
 この石碑は、文化13年(1816年)に長州藩士だった武田泰信が姫の丸で発見、拓本の要領で写しを取った後に、明治15年(1882年)に写し取った拓本を毛利元就を祀る豊栄神社(山口市)に奉納した。ただしこの逸話は、毛利家文書や閥閲録その他の一次史料には記載されていない。
 その後、吉田全町をあげて郡山全山を探索したものの、礎石の実物は発見されなかったため、観光パンフレットなどには「郡山城最大の謎」と書かれている。昭和6年(1931年)には、吉田郡山城跡の中にある毛利一族の墓所境内に、その拓本を元に模刻した石碑が建てられた。
 上述の通り、武田泰信の自書以外に史料が乏しいため、実際に元就がこの言葉を語ったかどうかは定かではない。また、百万一心の語は元々神道でも見られる言葉であることから、百万一心碑を人柱の代用にすること自体も含め、吉田郡山城が尼子詮久の大軍に包囲された吉田郡山城の戦いにおいて陶隆房と共に毛利の救援に駆けつけた、白崎八幡宮大宮司も兼ねていた大内家の武将・弘中隆包が、懇意にしていた元就に助言したことが始まりという説もある。

 ・逸話

 安芸高田市歴史民俗博物館(旧 吉田郷土資料館)で配布されている「百万一心のはなし」では、次のようなエピソードを紹介している。
 12歳の松寿丸(元就の幼名)が厳島神社を参拝したところ、泣き続ける5〜6歳ぐらいの少女を見つけた。この少女は母親と巡礼の旅をしていたが、ある城の築城で母親が人柱に選ばれてしまったという。幼い頃に父母と死に別れている松寿丸は少女に同情し、郡山城に連れ帰った。15〜16年の年月が経って、元服した元就が吉田郡山城主となった頃、本丸の石垣が何度築いても崩落するので困っていた。やがて、人柱が必要だという声があがったため、普請奉行は巡礼の娘を人柱にすることにした。娘自身も、元就に助けて貰ったお礼として喜んで人柱になると答えたが、元就は「その娘を人柱にしてはならぬ」と厳命。翌日、元就は「百万一心」と書いた紙を奉行に渡し、その文字を石に彫って人柱の代わりに埋めるよう命じた。そして、人柱を埋めずに人命を尊び、皆で心と力を合わせてことにあたるよう教えた。


 ふ〜ん、そぅなんですか…
 「百万一心」の礎石は、吉田全町をあげて郡山全山を探索されたようですけど、実物は発見されなかったのですねぇ〜
 未だに郡山城のどこかに埋まっているのでしょうけど、いつの日か、どなたかが発見されますと宜しいですネ(^-^)//"

 

 

 

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