2018年 某協会福山支部の皆様と「京都方面研修旅行」行きでした(^.-)☆ <7/11>

 

 

 

 

 

 

 それでは、本能寺を拝観です(^.-)☆
 境内に入りますと、まず眼に入りますのが本堂です。仲々立派な本堂であります。

 ◆本堂

 工学博士天沼俊一先生の設計になる。室町時代の枠を集めた木造大建築。7間7面単層入母屋造本瓦葺、総建坪587.4u(178坪)の総けやき材で創立当時の面影を残す。

 ・本能寺の縁起

 本能寺は景勝の地京都鴨川のほとりに法華宗の法灯を掲げ続けている。しかし本能寺が日蓮大聖人の教えを弘める法華宗本門流の大本山であることは以外と知られていない。
 本能寺は日隆聖人を御開山と仰ぎ『法華経』の根本義と日蓮大聖人の真意を説き明かし、お題目を唱えて信じ行ず大霊場である。

 日蓮大聖人の教えの真意は、『「法華経」の本門八品に説かれた上行所伝本因下種の「南無妙法蓮華経」に全身全霊を捧げ、本門のお題目を信じ唱えるほか私どもの成仏の道はない』という教えである。
 人々に「南無妙法蓮華経」を信奉させ、口に唱えさせることが日蓮大聖人の生涯の念願であった。
 御開山の日隆聖人は応永22年(1415年)伯父にあたる日存・日道両聖人と共に妙本寺(現在の妙顕寺)の綱紀の粛清に務めたが志を遂げられず同寺を去った。
 そして油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を建立し、日蓮大聖人の念願である人々の口に「南無妙法蓮華経」を唱えさせるべく教化を始めた。

 本能寺は1415年から1432年までは「本応寺」と寺名を使い、1433年から現在まで「本能寺」を使用している。
 その理由は「本門八品相応能弘之寺」の言葉より本応寺・本能寺という寺名にした。また現在能という寺をに替えて使用しているが、これは五度も火災に遭遇したので匕(火)を嫌いの字に替えたものである。
 上杉本の「洛中洛外図屏風」では「本能寺」と書かれている。

 ◆信長公廟(本能寺)

 信長の三男信孝は、本能寺の変の直後、信長の遺骨を収集。本能寺を信長の墓所と定め、信長所持の太刀も納めた。信長の墓所は、玉鳳院(妙心寺塔頭)、総見院(大徳寺塔頭)、阿弥陀寺(寺町通今出川上ル)、大雲院(円山公園南)にもある。

 ◆本能寺の火伏のイチョウ

 河原町四条から河原町通りを北に歩くと左手に「本能寺のイチョウ」の案内板があります。細い路地を抜けるとビルの谷間の狭い空間に「本能寺のイチョウ」がありました。このイチョウは、「火伏せのイチョウ」と呼ばれており、天明の大火(1788年)の際、猛火に追われた人々が境内に身をひそめていた折、突如このイチョウの木から勢いよく水が噴出し、木の回りに集まった人々を救ったと伝えられています。
 本能寺は、歴史上名高い織田信長が明智光秀の謀反により自刃したあの「本能寺の変」で有名な法華宗の大本山で、応永22年(1415年)に日降聖人により建立されました。しかし、本能寺の変をはじめとする五度の焼失と七度の再建を繰り返し、現在の堂宇は1928年の造営です。


 ふ〜ん、信長の三男信孝は本能寺の変の直後、信長の遺骨を収集したのですネ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本能寺を後にしますと、御池通りを鴨川に掛かります御池大橋方向へ…
 その途中で眼に入りましたのが「此付近加賀藩邸跡(このふきんかがはんていあと)」の表示板。ふ〜ん、そぅなんですねぇ〜ここに加賀藩邸が存在しましたようです(^.-)☆
 そしてまた暫く進みますと「夏目漱石の句碑」が…

 ◆加賀藩邸跡

 加賀藩前田家の藩邸は、天明8(1788)年焼失し、その後再築された。慶応2(1866)年、鳥羽伏見の戦に出兵したが、幕軍の敗北を知り引き返した。戊辰戦争には官軍につき北越で戦った。藩邸は明治維新後は上地され、一時は府知事邸となっていたが、太平洋戦争末期に建物疎開で御池通の一部となった。

 ◆御池大橋西詰の漱石句碑

 木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに
 春の川を 隔てゝ 男女哉
 -- 漱石 --


 京都ネタを紹介しているいろいろなサイトでもたびたび取りあげられている有名なシロモノなのだが、少しだけ掘りさげてみる。
 まずは刻まれている俳句それ自体について。俳句というとパブ犬的に五七五と言ってしまうが、この句はそうした定型には沿っていない。内容からなら六・四・八の自由律であり、定型風に捉えるなら、春の川を(6)隔てゝ男(7)女哉(5)となって第一句の字余りである。字余りとなる「を」が必要だった理由はよくわからないが、もしかすると推敲すれば削られてしかるべき一文字だったが、即興の一句だったのでこうなったというのが本当なのかも知れない。作られた時の事情が詳しく紹介されていることも併せて考えると、この句は、これだけで自立しているというよりはシチュエーションと合わせて味わう一句ともいえる。

 そんな中身はさておき、気になるのは句碑のある場所についてである。シチュエーションが云々と言ったが、傍らに設置されている駒札によれば、句碑のある御池大橋西詰の南側は「句にゆかりの現地」らしい。当時漱石が投宿していた北大嘉という宿がこの場所にあったということなのだ。大友のお多佳さんとちょっとした諍いごとがあったことを踏まえ、鴨川を隔てた大友へ送った一句がこれで、祇園白川と木屋町という鴨川を間においた位置関係に味が出てくるわけである。
 ただし、実は駒札には「木屋町御池の旅館『北大嘉』」とあるだけで、句碑のある御池大橋西詰の南側がピンポイントで北大嘉の場所だったとは書いていない。御池通が広くなったのや御池大橋が架けられたのは、漱石の時代よりはるか後のことなので、当時の地形を現在の道路の形状とぴったり重ね合わせるのは難しいことを考えると、だいたいこのあたりということで設置されたのだろう。


 …と、WEB上には、それぞれこんな記載がありました(^.-)☆

 鴨川の河原を覗いてみますと、早朝から若者の皆様のグループが…何の集まりなのでしょうねぇ〜
 御池大橋から少し戻り、今度は「木屋町通」を歩いてみます事に…そして「四条通」から鴨川の河原へ…
 木屋町通とは打って変わって、ノンビリとした散策となりました(^-^)//"

 

 

 

 

 

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