2017年 紅葉を求めて「神勝寺」散策 <1/7> |
■2017年12月07日21:30
「天心山 神勝寺」散策…紅葉が大変キレイでありました(^.-)☆
後山公園の紅葉…期待して訪れましたのですけど、さほどでもありませんでした(^-^)
で、後山公園とお別れ致しますと、これまたせっかくだから…と、「神勝寺」まで足を伸ばす事に致しました(^.-)☆
◆天心山神勝寺
天心山神勝寺は、昭和40年(1965)12月2日益州宗進禅師(臨済宗建仁寺派第7代管長)に深く帰依された開基神原秀夫氏が禅師を開山に招請して建立された臨済宗建仁寺派の特例地寺院である。
神勝寺は亡くなられた方々の供養の場であると共に、境内には無明院や国際禅道場など多くの伽藍が建ち並び、また表千家不審庵の古図を忠実に再現した「秀路軒」などの茶室を設け、禅と茶道を根本として日本のみならず海外にも広く門戸を開き、臨済禅を通じて今まさに生きている方々が「今を生きる」ために己を見つめ共に研鑽する場である。
御本尊は弥勒菩薩、寺号は開基の父神原勝太郎に因る。
★神勝寺概要
山号 --- 天心山(てんしんざん)
創建 --- 昭和40年12月2日
本尊 --- 弥勒菩薩
鎮守 --- 弥勒里天満宮(太宰府天神を勧請して祀る)
宗派 --- 禅宗・臨済宗建仁寺派
寺紋 --- 梅鉢
★勧請開山
益州禅師(京都建仁寺派管長)
當山勧請開山益州禅師は、道号 益州、法諱 宗進、金剛窟と号す。俗称は土田のち竹田と改称。明治29年(1896)7月10日大分県国東半島に生を受け、11歳で滋賀県堅田町の祥瑞寺大友宗忠和尚について得度。大正4年5月に京都建仁寺僧堂に掛搭し、竹田黙雷及び竹田頴川両老師に参禅弁道、竹田頴川老師に嗣法する。
滋賀県祥瑞寺、京都大徳寺塔頭大仙院の両寺院住職や大徳寺執事長を経て、昭和19年からは建仁寺僧堂師家、同29年には建仁寺派管長(第7代)に就任し教化布教に務められ、昭和40年には當山の勧請開山となられた。平成元年6月20日に92歳で遷化。
★開基
神原秀夫英生(天勝院殿釈五徳秀嶺大居士前常石造船株式会社社長)
大正5年(1916)9月1日 父 神原勝太郎、母 ヒサの長男として出生。幾度もの戦役への出征を経験する。昭和14年(1939)立命館大学法学部卒業。除隊後は父の経営する会社に入社し、昭和19年(1944)瀬戸内海船舶株式会社(現 神原汽船株式会社)社長兼常石造船株式会社副社長に就任。昭和30年(1955)沼隈町初代町長に就任。昭和36年(1961)父の逝去に伴い、常石造船社長に就任。昭和40年(1965)12月2日神勝寺を建立(宗教法人認可)、開基となる。昭和52年(1977)2月16日神勝寺無明院を建立・落慶法要。無明院の落慶法要を目にすることなく3月12日、入院先の京都大学附属病院にて逝去。60歳。
…と、こんなお寺のようであります(^.-)☆
総門をくぐってまず眼に入りますのが、受付を行う寺務所の「松堂」です。
◆寺務所
寺務所では、受付をはじめ、グッズや、お土産の販売を行っております。
神勝寺のシンボリックとなる様、設計・建築された、藤森照信 建築の寺務所です。
・松堂 設計主旨
初めて現地を訪れた時、赤松が目に入った。山陽道と瀬戸内海は日本でも有数の赤松地帯なのである。日本に樹は数あれど、禅のイメージと一番近いのはやはり松であろう。岩山の上に寒風に耐えて生える一本の松の古木。
神勝寺を訪れた者が最初に出会う建物である寺務所のテーマは松がふさわしい。
名も<松堂>
こう決まると後は早い。岩山の松の古木をイメージして、手曲げ銅板で葺いた急傾斜の屋根の上に、近くの山から掘ってきた松を植える。
近くの山から伐り出してきた松丸太の表面を削り、歩廊の柱として立てる。松は自然の樹ならではの緩やかな曲がりを持つが、それを生かして並べよう。
キャラクターのはっきりした建築ではあるが、周囲の光景と溶け合う、そんな建物を作りたい。--- 藤森照信 ---
・藤森照信プロフィール
建築家、建築史家、工学院大学特任教授、東京大学名誉教授、工学博士。
1946年長野県生れ。東京大学建築学専攻博士課程修了、東京大学生産技術研究所教授・工学院大学建築学部教授歴任。建築作品に「赤瀬川原平氏邸(ニラ・ハウス)」(1997年日本芸術大賞)、「熊本県立農業大学校学生寮」(2001年日本建築学会作品賞)、オーストラリア・ライディング 「Stork House」(Austrian Tourism Innovation Prize 2014)等多数。著書『路上観察学入門』『建築探偵の冒険東京篇』など東京建築探偵団・路上観察学会研究調査活動により1986年日本文化デザイン賞、著書『明治の東京計画』『日本の近代建築(上)(下)』など日本近代の建築・都市の研究により日本建築学会論文賞(1998年)、他建築史関係著書多数。
…と、WEB上で検索致しますと、こんな記載がありました。
それではまた、紅葉を楽しみながら、眼に入りますものは極力漏らさず画像に納めてみたいと思います(^-^)//"
◆開山堂
神勝寺勧請開山益州宗進禅師の遺徳を偲ぶため建立された建物である。
神勝寺勧請開山益州宗進禅師は、道号 益州、法諱 宗進、金剛窟と号す。俗称は土田のち竹田と改称。明治29年(1896)7月10日大分県国東半島に生を受け、11歳で滋賀県堅田町の祥瑞寺大友宗忠和尚について得度。大正4年5月に京都建仁寺僧堂に掛搭し、竹田黙雷及び竹田頴川両老師に参禅弁道、竹田頴川老師に嗣法する。
祥瑞寺、大仙院の両寺院住職や大徳寺執事長を経て、昭和19年からは建仁寺僧堂師家、同29年には建仁寺派管長(第7代)に就任し教化布教に務められ、昭和40年には神勝寺の勧請開山となられた。平成元年6月20日に92歳で遷化。
建物は、鎌倉時代の名作といわれる高野山の不動堂を模したもので、堂内には茶席がしつらえられるよう考慮されており、また京都の陶工村田陶苑作の開山像を安置している。扁額は、元円覚寺派管長松尾太年老大師の筆である。
◆非佛堂
最初は、浄土信仰の象徴である阿弥陀如来を祀る「持佛堂」として建立された建物である。
堂内に安置された阿弥陀如来立像は、開基の念持仏である。
建物の設計は中村昌生氏によるもので、足利義政公の持佛堂であった銀閣寺東求堂を思わせる穏やかな姿に作られているが、銀閣寺のものよりはるかに大規模である。
開基によって「非佛堂」と名付けられ、扁額の「非佛」は開基の筆によるものである。
◆非佛堂
最初は、浄土信仰の象徴である阿弥陀如来を祀る「持佛堂」として建立された建物である。
堂内に安置された阿弥陀如来立像は、開基の念持仏である。
建物の設計は中村昌生氏によるもので、足利義政公の持佛堂であった銀閣寺東求堂を思わせる穏やかな姿に作られているが、銀閣寺のものよりはるかに大規模である。開基によって「非佛堂」と名付けられ、扁額の「非佛」は開基の筆によるものである。
★非佛堂のご案内
書道教室・華道教室など、幅広くご利用頂けます。ご希望の方は、ご一報ください。
貸切 -- 1日:30,000円、1時間:5,000円
※ ご留意事項 -- キャンセルは、前日までにお願い致します。
★中村昌夫(なかむらまさお)プロフィール
1927年、愛知県生まれ。茶室・数奇屋建築・研究の第一人者。専攻は日本建築。工学博士(京都大学)。
彦根工業専門学校(現滋賀大学)を卒業した後、京都大学工学部の研修員となる。同大学助手等を経て、京都工芸繊維大学教授。この間、文化財保護審議会専門委員や桂離宮整備委員、茶の湯文化学会会長等を歴任した。また、木造建築の伝統の継承と発展を目的とした京都伝統建築技術協会を1980年に設立。1991年に京都工芸繊維大学退官後は福井工業大学等でも教鞭を執る。
主な著書に、『茶の建築』『茶匠と建築』、作品集に『茶苑の意匠』など。
◆慈正庵
當山第一世再住建仁大光和尚大禅師(道号 大光 法諱 慈正 俗称 森。大正5年4月22日、愛知県出身)の遺徳を偲ぶために建立された堂宇である。昭和2年 11歳で、当時の建仁寺派管長 古渡庵 竹田潁川老師に就き得度、以降建仁寺僧堂内で徒弟生活を送る。大学卒業後、梅林寺専門道場に掛搭、昭和18年建仁寺塔頭霊源院の住職を拝命。
昭和31年には大学時代からの友人であった當山開基との縁により、パラグアイ共和国移民団の団長として渡海移住。昭和41年には新たに建立された當山兼任住職を拝命。爾来41年間に亘り霊源院並びに當山の檀信徒の教化 寺門の興隆に尽力。平成19年からは當山住職専任となり、90才を越えてもなお精力的に教化布教活動に取り組まれた。平成25年5月16日遷化 世寿98歳。
建物は、滋賀県 臨済宗永源寺派蔵六庵の旧本堂を移築再建した物である。堂内には、佛師 江ア明珠作の大光和尚坐像を安置している。
◆国際禅道場
臨済禅の教化布教の場として、国内のみならず広く海外にも門戸を開いた臨済禅の修行道場であり、日夜修行者が自己の研鑽に努めている。一般には非公開であるが、道場内には本堂 庫裏 禅堂(坐禅堂) 宿坊 開基堂などの伽藍が建ち並ぶ。
本堂と庫裏は、昭和40年(1965)の神勝寺開山当時の本堂および庫裏であった旧西念坊を移築再建したものである。
本尊として仏師 江崎明珠作の弥勒菩薩立像が安置されている。また禅堂は、神奈川県鎌倉市 建長寺専門道場の禅堂(大徹堂)を移築再建したものである。境内奥には神勝寺開基故神原秀夫氏を偲ぶ開基堂がある。
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