2016年 12/11(日)は、久し振りに松山行きとなりました(^.-)☆ <9/14>

 

 

 

 

 

 

 

 黒門口登城道をユックリ上って来ましたので、さほどしんどくも無かったのですけど「待合番所跡」に到着しますと、暫し休憩となりました(^.-)☆

 ◆松山城・待合番所跡

 揚木戸門と大手門によって仕切られたこの区域には、待合番所という警備のための詰所がおかれていた。常時3人の兵が詰めて、警備をおこなっていたという。
 石垣上のいま柵となっているところは、石落(いしおとし)・鉄砲狭間(てっぽうざま)・矢狭間(やざま)を備えた渡塀(わたりべい)が続いていたらしい。


 ここでは、挙式を控えたカップルの前撮りなのでしょうねぇ〜たまたま遭遇ですから、チョッと失礼して後方からGONsanも撮らせて頂きました(^_^)v
 このお二人は、結局、ほとんどGONsanと同じコースで松山城を廻っておられました。
 ラッキーでしたネ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 松山城は、別名「金亀城」とか「勝山城」と呼ばれているようです。「金亀城」は、昔、お堀に金の亀が棲んでいたという言い伝えから。「勝山城」は、お城のある山の名前が「勝山」だから。
 今も、麓に「勝山町」という町名がありますようですネ(^.-)☆

 ◆伊予松山城(いよまつやまじょう)

 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に味方し、最前線で活躍した加藤嘉明は、その戦功により伊予国正木(松前)10万石から20万石に加増される。大封となった嘉明は足立重信を普請奉行に据え、道後平野中央の勝山に慶長七年(1602)から築城を開始した。翌八年(1603)十月には居を新城下に移し、松山という名称が初めて公にされたといわれる。
 その後も築城工事は続き、25年間かかって寛永四年(1627)にようやく完成。当時の天守は五重で偉容を誇ったといわれる。しかし、完成直前に嘉明は40万石に加増され会津に移封されてしまう。

 加藤嘉明に代わり24万石の領主として松山に入封してきたのが出羽・上山城主・蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)である。忠知は二の丸の整備に力を注ぎ完成させたが、寛永十一年(1634)二月に参勤交代の途中に京都で病没し蒲生家は嗣子なく断絶となる。
 その後、寛永十二年(1635)七月に伊勢・桑名から松平定行(徳川家康の異父同母弟の松平定勝の子)が15万石で松山に入封する。以後、親藩・松平(久松)家が明治維新まで代々居城した。寛永十九年(1642)定行は、三年の年月をかけ、築城当時五重だった天守を三重に改築した。地盤の弱さからとも幕府への配慮ともいわれている。

 その三重の天守も天明四年(1784)元旦に落雷で消失するが、安政元年(1854)に天守を復興させた。これが現在の天守で、親藩・松平氏が黒船来航の翌年に復興させたため、、わが国最後の完全な城郭建築となった大天守は現存12天守の中で唯一、築城主として葵の御紋が付された天守である。

 伊予松山城は松山平野中央部にあり、勝山(標高132m)の山頂に本丸がある連立式天守の平山城である。姫路城、和歌山城とともに日本三大平山城のひとつに数えられている。山頂に本丸、中腹に二之丸、山麓に三之丸を整備した広大な規模の城郭である。天守は安政元年(1854)再建と全国に12ある現存天守の中で一番新しいがその姿は重厚で美しい姿を見せてくれる。天守の他にも20棟が国の重要文化財に指定され、戦災や不審火で失われた建造物も木造で多く復元されている。また天守曲輪、本丸、二之丸の石垣がほぼ完全に残っており当時の縄張りもほぼそのままで、非常に見所の多い全国でも屈指の名城である。
 この城は観光用でロープウェイかリフトで本丸まで一気に行くことができ、そちらから登る人が非常に多いが、無料駐車場もある二之丸史跡庭園の下から登るのが城好きにはおすすめである。

 

 

 

 

 

 

 

 本丸広場で周辺の景観を画像に納めておりましたら、んっ!?…また前撮りカップルに遭遇です(^.-)☆
 でも、いつの間に追い抜かれましたのでしょう?
 まぁとにかく、どさくさに紛れてGONsanもパチリ(^_^)v

 ◆松山城の本丸広場

 松山城天守のある本丸広場は、都市公園となっているため、憩いの場として4月から10月は朝5時から夜21時までの間、11月から3月は朝5時半から夜21時までの間、開放されています。
 朝、ラジオ体操などをしている方もいます。

 ◆馬具櫓

 松山城の本丸中央付近の西側石垣の上に馬具櫓はあります。復元された櫓で、松山城の復元された建物は殆ど木造ですが、この馬具櫓のみ鉄筋コンクリートで復元されており、見ごたえは有りません。
 しかし、本丸の西石垣の上から馬具櫓越しに乾門等の城郭は見事なのでご覧ください。

 向かって左が「小天守」で、中央が「大天守」です(^.-)☆

 ・大天守(重要文化財)

 大天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築です。また、「現存12天守」の中で、唯一、築城主として瓦には葵の御紋が付されています。
 大天守、小天守、隅櫓を渡櫓で互いに結び、武備に徹したこの天守建造物群は、わが国の代表的な連立式天守を備えた城郭といわれている。
 大天守の全高は、本壇から20m(しゃちほこの高さを入れると21.3m)。本壇は本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高は約132mであることから、大天守の標高は約161mあることになります。これは「現存12天守」の平山城の中では最も高い城郭です。山の高さは、同じ平山城である姫路城の約3倍の高さです。

 ・現存12天守

 江戸時代には、全国に170箇所はあったとも言われるお城ですが、江戸末期から明治にかけての戦乱や明治政府による廃城令、また天災や第二次世界大戦での戦災などにより、数多くの城郭が失われ、今や江戸時代以前に建造された天守が現代に残っているのは、全国で12城しかありません。これを「「現存12天守」」といいます。
 これらの天守は、貴重な歴史的文化遺産として国により国宝や重要文化財の指定を受けています。該当する城郭は次のとおりです。「弘前城」、「松本城」、「丸岡城」、「犬山城」、「彦根城」、「姫路城」、「松江城」、「備中松山城」、「丸亀城」、「松山城」、「宇和島城」、「高知城」(「日本100名城」による順)。

 ・連立式天守

 連立式天守とは城郭の象徴である天守の構成分類の一つで、大天守・小天守・櫓を四方に配置し、多聞(たもん)櫓(長屋形式の櫓)でつなぐ形式をいいます。建物で仕切られた中庭ができるのが特徴で、厳重な防備手法であるため天守防衛の究極の姿であるとも言われており、「現存12天守」の中では、姫路城と同じ構成となっています。
 松山城は、日本で最後の完全な城郭建築(桃山文化様式)として、層塔型天守の完成した構造形式を示していると言われています。


 …と、こんな小天守・大天守のようですけど、今から天守に上がってみたいと思います(^.-)☆

 

 

 

 

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