2016年 12/11(日)は、久し振りに松山行きとなりました(^.-)☆ <8/14> |
それから、廃墟の外に何気なく存在します4段重ねの石…鉄製の棒で?がれておりますけど、これも何かのオブジェなんでしょうか…
そして、何気なく山の上に眼を向けますと大きな石像が(^_^)v
きっと弘法大師sanなのでしょうねぇ〜でも、何を見つめておられますのでしょうねぇ〜
それではまた、地下マントラを通って石手寺に戻る事に致します(^.-)☆
出口付近で左に横穴も存在しますから、今度は左折し進行です。T字路に当たりますとまた左折し進行。
すると行き止まりとなりまして、その薄暗い行き止まりの場所には小さな石仏が無数に存在です。此処は、どんな場所なんでしょう…
薄気味悪さに何枚か画像に納め退散となりましたが、直進しますと前方に明るい光が…出口にと到達ですけど、何処に出ますのでしょう…
マントラから出て来まして、居場所を確認致しますと、なんと「らくがき堂」の真ん前でした(^.-)☆
地底マントラは入り口を入ってすぐに道が分かれていたので、帰路はその分かれ道にと進行。
往路の地下マントラは平成7年の竣工ですけど、こちらのマントラは昔から存在しましたようですネ。また、コチラの道の脇にあるお地蔵さんの下には、四国八十八ヶ所の各寺の砂があり、踏めば八十八ヶ所を廻ったことになるそうだ。51番札所だけで、88ヶ所廻った事になるのですから、時間的余裕の有りません方にとりましては仲々便利ではあります(^-^)//"
地底マントラから出て来ますと、そろそろ退散です。
初めて訪れました石手寺なんですけど、仲々不思議なお寺でありました(^.-)☆
また機会がありましたら、訪れてみたい気が致します。
それでは、今度は、松山城の散策を(^-^)//"
石手寺を後にし、また松山市中央部にと舞い戻りです(^.-)☆
そして、松山城二之丸史跡公園下の駐車場に車を駐め、いざ登城となりました。
堀之内公園に一歩踏み込みますと、スグに「城山公園」の案内表示板が(^_^)v 今からGONsanが上りますのは「黒門口登城道」と言うのですねぇ〜
黒門口登城道をWEB上で検索致しますと、こんな記載が…
@堀之内公園(旧三之丸・明治17年から兵営が置かれ連隊跡地)から黒門口登城道を利用し歩いて本丸をめざします。およそ20分の行程。
A車でお越しのお客様は二之丸史跡庭園駐車場(専用)に駐車し、庭園入園後に本丸を目指してください。
Bツヅラ折れの道中、こんな反り返った石垣もあり楽しみも人一倍。
C黒門口から約1分半、ツヅラ折れが終わると左右に分かれ道があります。右は二之丸・左は黒門口登城道です。
D二之丸庭園は敷地1.6haを史跡庭園として平成4年5月に開園し、庭園内部は古い絵図や発掘調査に基づき遺構の上に表現され、部屋の間取りの中に各種の柑橘や草花を植えた「表御殿跡柑橘・草花園」と部屋の間取りの中で水が流れる「奥御殿跡・流水園」と大きく2つに分かれています。
…と言う事は、本丸登城より先に二之丸史跡公園に入園しなければならないのでしょうけど、GONsanはそのまま本丸にと向かい、下山時に入園スル事に致します(^-^)
挿入の画像の下段左端は「二之丸庭園の北門」ですけど、城主も登城時にはこの門を潜って登られましたようですネ(^_^)v
そして暫く上りますと「槻門跡」の表示板が…
槻門(けやきもん)は本丸大手門と二之丸搦手門との分岐点に位置する重要な門で、城内最大の櫓門が有ったそうです(^-^)//"
この「黒門口登城道」が本丸への最短コースなのではありますけど、上から降りて来られます方には遭遇しません(^-^)
皆さんロープウェイの利用なのだろうなぁ〜と思っておりましたら、ヤッと上から人影が(^.-)☆
うん、うん、この登城道を楽しまれます方もおられます(^_^)v
そして、「松山城山樹叢(まつやましろやまじゅそう)」の表示板が…
んっ、「松山城山樹叢」って何なんでしょう?WEB上で検索しますと、こんな記載が…
◆松山城山樹叢(じゅそう)について
・文化財の区分 -- 愛媛県指定天然記念物
・指定(登録)年月日 -- 昭和24年9月17日 指定
・所在地及び所有者(管理者) -- 松山市丸之内 松山市
・解説
松山城山は道後平野の中心地、松山の市街地の中央に位置した標高131.1m、周囲約4km、県中部地域の暖帯林として、景観はもとより、植生も優れた山で、植物の種類も豊富である。
慶長7年(1602年)、加藤嘉明がこの山に築城をはじめた頃は、はげ山であったが、その後、アカマツが植林されて、山一面を覆い、松の山になったと伝えられている。
ここに生育するシダ植物、種子植物は550余種類、それらの中には帰化植物と逸出植物(始め栽培、後放置のもの)が50余種類ある。植物の自然分布から考えると、この地方は暖帯であるから、暖地性植物が多く、シダ植物のヒメウラジロ、イシカグマ、アマクサシダ、トキワトラノオ。
種子植物のイヌマキ、ヤマモモ、ウバメガシ、ホソバイヌビワ、ムベ、ハスノハカズラ、オガタマノキ、カゴノキ、ヒメユズリハ、ホルトノキ、カクレミノ、ヤツデ、タイミンタチバナ、オオハンゲ、ヤブミョウガ、ハナミョウガ、コクランなどがある。
一方、本来の低山、山地性の植物もあり、シダ植物のヒカゲノカズラ、トウゲシバ、オニトウゲシバ、ウチワゴケ、クラマゴケ、オオバノイノモトソウイロハイヌワラビ、ヤマイタチシダ、ハリガネワラビ、ヘラシダ。
種子植物のメヤブマオ、アカガシ、イヌシダ、ヒメキンミズヒキ、ハリギリ、シラキ、ケケンポナシ、シラヤマギク、ガンクビソウ、アブラススキホウチャクチョウなどがある。
また、この山は現在の海岸から直線距離で約6km離れた地点にあるが、海岸性の植物も生育しており、それらはオニヤブソテツ、ツクシケマン、トラベ、ハマヒルガオ、ハマクサギ、コイケマ、ハマスゲである。
つぎに城山の植物の植生状態から考えると、ツブラジイ林:ツブラジイ(コジイ)が高木層を形成しているもので、城山の最も広い面積を占めている。5月上旬には一斉に黄色い花をつけて城山全体が明るくなる程である。アラカシ・タラヨウ・ネザサ・ベニシダなどがある。
アラカシ林:アラカシ・アベマキ・クスノキ・モチノキなどが混生して高木層を形成している林である。他にアオキ・ヤブツバキ・モチノキ・ベニシダなどがある。
クスノキ・ホルトノキ林:クスノキ・ホルトノキは城山全域に生育しているが、高木層の優先種となっているのは北斜面のみである。他にカラカシ・アオキ・カゴノキ・ベニシダなどがある。
ウバメガシ林:小面積ではあるが、西斜面下方にあり、ウバメガシを主とし、他にアカマツ・ゴキダケ・コシダなどがある。
アベマキ林:アベマキを主とし、他にアラカシ・コジイ・ハゼノキ・ネザサ・ヤブコウジ・ヒトツバなどがある。この林は城山の各地にみられるが、いずれも面積は小さく、かつ減少傾向にある。
…と、こんな説明でありました(^.-)☆
◆伊予松山城
・所在地 -- 愛媛県松山市丸之内1
・築 城 -- 伊予国正木城主であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いで東軍に属し戦った戦功により慶長7年(1602年)伊予国20万石を与えられ、それを機に道後平野の中心部にある城山(勝山)山頂に新しい城を築き始めます。最終的には山頂の本丸、山麓に二の丸、三の丸を設けた広大な平山城となりました。
嘉明は翌年の慶長8年(1603年)に伊予正木から勝山に移り地名を「松山」と改め、城も松山城となります。寛永4年(1627年)に一応の完成をみたのですが当時の天守は五層で威容を誇っていたと伝えられています。しかし嘉明は松山城の完成直前に会津藩へ加増転封となり、そのあとへ出羽上山藩の蒲生忠知が入り松山城の完成に力を注ぎました。
寛永12年(1635年)伊勢桑名藩主松平定行が入封、伊予松山15万石の藩主となります。これ以降松平家が明治維新まで続きました。
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