友人が地震調査で熊本に… <2/2> |
■2016年06月08日
本日、熊本から届きました友人の画像は、江津湖の景観と宇土市役所でありました。
こんなメッセージ添付で…
>お早うございます
>江津湖のサギも一人ぽっちです
>でも威厳をかんじるなー
>宇土市役所です
江津湖と言えば友人の宿泊ホテルの近くですから、早朝散策の際に撮られましたのでしょうねぇ〜言われてみれば、独りぼっちで寂しそうにも感じられますネ。
今回の地震で仲間を失いましたのかも…
宇土市役所も仲々悲惨な状況のようですねぇ〜4階部分は潰れておりますネ(^-^;
WEB上で「宇土市役所」を検索してみましたら、こんな記載がありました。
◆宇土市役所は建て替えアンケート発送当日に被災
--- 産経ニュース 2016.5.1 07:00 ---
熊本地震では、災害対応の司令塔となるべき自治体庁舎そのものが、大きな被害を受けた。熊本県宇土市役所も崩壊寸前となり、市は隣接する市民体育館などで、救援物資の受け入れや罹災(りさい)証明書発行の受け付けなどの業務を続ける。耐震性の低さは以前から指摘され、紆余(うよ)曲折の末、建て替え議論がようやく動こうとした最中の被災だった。(中村雅和)
同市役所本庁舎(鉄筋コンクリート造、地上5階建て)は、高度成長期の昭和40年5月に完成した。
老朽化が進み、今回の熊本地震で大きな被害が出た。4階部分が押し潰され、立ち入り不可能になった。
市庁舎の耐震性にはもともと、疑問符が付いていた。
平成15年実施の耐震診断では、「震度6強程度の地震で大きな被害を受ける可能性が高い」と指摘されるほどだった。建物の構造が複雑なことから、耐震補強ではなく、改築(建て替え)を勧められた…
…との、こんな記載が。
奇しくも「宇土市役所は建て替えアンケート発送当日に被災」とは…
地震発生時に、建物内にどなたかおられましたのか否か…GONsanには知る由もありませんけど、こんな画像を拝見する度に胸に痛みを感じてしまいますネ…
改めて今回の地震の大きさを感じてしまいます…
■2016年06月10日
熊本滞在の友人から本日届きましたのは、またまた熊本城の画像でありました(^.-)☆
>現在の熊本城です
との事ですから、
おっ、また熊本城ですネ(^.-)☆
こんなアングルから撮っておられますところをみると、未だ城内には立ち入り出来ませんのでしょうねぇ〜
私が熊本城を訪れましたのは、一番直近で2007年でしたか…この時には、多分、天守手前の建物かどぅか分かりませんけど、今から建物建設で基礎工事を始めています箇所がありましたような…
その建物もとっくに完成していますのでしょうけど、建築間もなく今回の地震で被害は出ています事でしょうねぇ〜
実に勿体ない事であります(^-^)/
これらの画像も、今夜の絵日記に頂きですぅ〜
…と、LINEで連絡入れますと、
>これは熊本市役所の14階から撮影したものです。流石にお城は広いですね。
との返信でありました(^.-)☆
ふん、ふん、そぅでありましたか…熊本市内のアチコチで復旧に向け救援活動が続いていますのでしょうけど、熊本城の復元には随分な時間を要しますのでしょうねぇ〜
何と言いましてイィものやら…胸が痛みますネ(^-^)//"
■2016年06月16日
んっ!?…うん、うん、今回の休養日は雲仙行きでありましたか(^.-)☆
届きました画像を拝見致しますと、「雲仙国立公園・中川安五郎氏顕彰碑」ですネ。
石碑には、下記の内容が刻まれておりますようです。
◆雲仙国立公園「中川安五郎氏顕彰碑」
雲仙は昭和9年3月16日、日本最初の国立公園の一つとして指定された。
これは雲仙に日本を代表する国立公園としての条件がそなわっていたので、当然の事であったとはいえ、その決定に至るまで、当事者および地元の方々はいうまでもなく、雲仙を愛する有志の方々の努力は並々ならぬものがあった。
特に九州の一角にある雲仙を天下に周知させることは、当時としては容易なことではなかった。
そのかくれた功労者の一人として われわれは中川安五郎氏を忘れることはできない。
氏は明治12年 雲仙の麓である南高来郡土黒村に生まれ 23歳のとき、長崎に文明堂を創設し、以来60有余年の間 菓子産業振興に尽し、今日では長崎カステラを世界的な銘菓として声価をからしめた人である。
昭和2年 国立公園法が制定されると 同年4月9日、大阪毎日新聞、東京日日新聞の主催で、日本新八景を全国民の投票により選定する計画が発表された。
氏は この機 逸すべからずと 長崎県公園係と連絡を取り、東奔西走、雲仙の名山であることを天下に遊説して その当選に尽力された。
投票の結果、雲仙は山嶽部において圧倒的な最高点の381万8,721票を獲得し、第2位を266万2,099票引離し 第1位の栄冠をおさめたことにおいて、雲仙が全国の多くの人々に支持されている事実を明らかにし国立公園指定のための有力な一つの根拠をきずいたのである。
氏は国立公園指定を祝い、普賢神社の一部を寄進して記念とした。
爾来、雲仙は国立公園として 名実ともに歳を追うてその声価をめ、現今の隆盛を来しているのを見ると 全く欣快に堪えない。
時あたかも 中川安五郎氏は 米寿を迎えてなお矍鑠。
ここに因縁深い雲仙の地を選び 碑を建て、氏の功績を銘刻して後世に伝えるものである。
昭和36年10月
発起者 長崎県知事 佐藤勝也
長崎市長 田川務
長崎県観光協会会長 中部悦良
小浜町長 本多大一
雲仙観光協会長 七条達夫
…と、こんな記載のようですネ。
そして、平成新山の画像も。
◆平成新山(へいせいしんざん)
長崎県の島原半島にある雲仙岳の火山群の一つ。普賢岳の噴火(1990〜96)によってできた溶岩ドームで、災害終息後の1996年、島原市と小浜町が命名した。
容積約 1億?。標高 1,486m。
ふ〜ん、そうですか…普賢岳の噴火から、既に16年の月日を経ますのですねぇ〜
GONsanも10数年前の普賢岳の噴火後と、中学生時代の修学旅行で雲仙を訪れておりますけど、「中川安五郎氏顕彰碑」の記憶はありません。
眼に入りませんでしたのかも…
いゃぁ、とにかく懐かしく拝見してしまいましたネ(^-^)//"
■2016年06月17日
おっ、雲仙の次は諫早湾ですか(^.-)☆
珍しく、こんなメッセージが添付されておりました(^_^)v
>今、諫早湾に来ています
>広いもんですね
>諫早湾の中間に来ました
>淡水部分と海水との色の違いが見えました
う〜ん、確かに広大ですネ(^.-)☆
で、あの堰と言うか河口堰も随分長い距離ですけど、あの堰は車で走行可能なのかなぁ〜もし可能なんでしたら、走行してみたい気持ちに駆られますねぇ〜と、以前から思っておりましたGONsanなんです。
が、やはり走行出来ますのですねぇ〜
我が家近くには芦田川河口堰が存在しますから、河口堰自体は珍しくもありませんけど、あの諫早湾の堰の長さには圧倒されますよ(^.-)☆
いぃなぁ〜私も車で走行してみたいですねぇ(^-^)//"
■2016年06月18日
熊本から届きました画像は、また熊本城でありました(^.-)☆
前回同様に熊本市役所からの眺望なのでしょうねぇ〜
優先順位から熊本城の修復は後廻しなのかと思っておりました。が、今回届きました画像を、よくよく見てみますと何名かの人影が…
何やら作業しておられますように見えますネ。
いつまでも手付かずでもイケませんから、徐々に修復作業に入っておられますのかも…
何度もTVニュースでも眼に入りました、この建物の下の部分。
実に衝撃的でありましたけど、未だに、僅かな部分で支えられ崩壊を免れていますようですねぇ〜いくらか補強はされてますのかも…
でも、いつ崩れましてもおかしくありません状態のようにも見えますし…
この状態のままで補強工事を行い、このまま残しますのもイィようにも感じますけど、観光客の皆様をお迎えしますには、やはりダメなのかも…
う〜ん、何とも…
■2016年06月18日
本日、熊本から届きました画像は、「本妙寺」&「清正神社」でありました。
我が家の菩提寺は日蓮宗でありまして、日蓮宗の皆様は大概、この本妙寺にはお参りしておられます。
ですが、「本妙寺」と言いますよりも「清正公山(せいしょうこうさん)」と言います方が、日蓮宗の皆様にはピンと来られますのかも(^.-)☆
私は、もぅ15〜6年前の事になりますでしょうか…
我が町・水呑町と言いますと「総法華」と言われます通り、地の方は大概「日蓮宗」ですから、この方達と「日蓮由緒寺100ヶ寺巡り」を計画しまして、九州から東北までの由緒寺100ヶ寺を制覇しましたのが一昨年の事なんです。
大概、金曜日の夜に出発しまして帰福は日曜日の深夜近く。
九州であろうと東方であろうと凡てバス旅行。
大型観光バスで、参加者は毎回20〜25人程度ですから、二人掛けシートに一人で、結構ユッタリしますバス旅行。
年に一度出掛けまして、一回の旅行で6ヶ寺〜7ヶ寺お参りします。
ですが、日蓮宗の正式な参拝団ですから、どちらのお寺に出掛けましても、ご住職は丁重に迎えて下さいます。
勿論、私達は本堂での読経では白衣を着用。
そして、読経を終えますと白衣に「朱印」を押印して頂きます。ですから、100ヶ寺巡りますと、もぅ白衣には朱印の押し場に困るほどですよ(^.-)☆
この白衣は、亡くなりました時に着用してあの世に旅立ちますのですけどネ(^-^)
こんな100ヶ寺巡りですから、達成しますのに丁度15年の月日を要してしまいましたよ。
某企業への出向で、日本を1.5周。この100ヶ寺巡りでほぼ日本を1.5周。と言う事は、私は日本を3周したことになりますネ。
こんな私だからこそ言えるのですけど、「日本は大変狭かった」ですねぇ(^.-)☆
まぁそのような事はさて置きまして、この100ヶ寺巡りで「清正公山(せいしょうこうさん)」を訪れましたのが、2007年の5月22日でありました。
届けて頂きました画像を拝見し、地震の被害が結構出ておりますので、少々ショックな気持ちは隠せません。
ところで、「清正神社」は本妙寺内にあるのでしょうか?私の記憶には、清正神社が出て来ませんから…「加藤神社」は熊本城内にありましたけど…
また機会がありましたら、友人に清正神社の所在を尋ねてみたいと思います(^-^)//"
◆本妙寺(熊本市)
本妙寺(ほんみょうじ)は、熊本市西区の熊本城北西にある日蓮宗六条門流の寺で大本山本圀寺から「六条門流九州総導師」の特別寺格を与えられている。山号は発星山。
本尊は十界曼荼羅。親師法縁。日蓮宗の熱心な信者であり肥後熊本藩の初代藩主・加藤清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)があることで知られる。浄池廟の奥には長い石段があり、これを上ると清正の銅像がある。
・概要
境内入口の巨大な仁王門は鉄筋コンクリート造で、出雲大社の大鳥居などでも知られる小林徳一郎の寄進で1920年(大正9年)に建立された。国の登録有形文化財に登録されている。門をくぐると桜並木の長い参道が続き、両側に12の塔頭が並ぶ。
参道を進むと右手に本妙寺の大本堂(勅願道場)がある。そこから先には胸突雁木(むなつきがんぎ)と呼ばれる176段の急勾配の石段があり、その中央に信者から寄進された多数の石灯籠が並んでいる。
これを登ったところに浄池廟があり、境内の宝物館には清正の遺品や加藤・細川家に関する文書・書画・工芸品・鎧兜等、国の重要文化財を含む約1,400点が収蔵、展示されている。
かつては宿泊する参拝客も多かったというが、今は浄池廟の手前に1軒だけ古い旅籠が残る。さらに浄池廟の裏手から300段の石段を登ると、鑓を持ち長烏帽子形兜を被った清正像が立っている。ここからは熊本市内をよく見渡すことができる。
毎年清正の命日である7月24日の前夜、僧侶や信者が写経した法華経を奉納する頓写会(とんしゃえ)が行われ、10万人の参拝客で賑わう。
清正の一周忌に本妙寺第三世日遥が法華経一部八巻を一夜で写経し、追善供養したことが起源とされる。
・歴史
1585年(天正13年)、加藤清正の父・清忠の冥福を祈るため、日真の開山により大阪に開創されたのに始まる。
清正が熊本城主になった後の1600年(慶長5年)、熊本城下に創建されていた瑞龍院に移された。1611年に清正が没し、遺言により中尾山上の浄池廟に清正像を奉安した。
1614年(慶長19年)、火災で焼失した本妙寺を浄池廟下の現在地に移転した。
明治時代の神仏分離令によって浄池廟と本妙寺は神社と寺として分けられ、1871年(明治4年)に社殿だけが熊本城内に移され、加藤神社となった。浄池廟の拝殿も撤去された。
その後、西南戦争で焼失した大本堂と同時に浄池廟の建物も再建され(明治27年)、現在の姿になった。
■2016年06月19日
忙中閑あり…で、珍しく熊本からまとまった画像が届きました(^.-)☆
天気が良くなく、本日・日曜日はお休みなのでしょうねぇ〜観光日でしたのかも(^-^)
まず最初に届きましたのが、「細川墓陵」でありました(^.-)☆
◆細川墓陵
熊本藩主細川家墓所(泰勝寺跡 たいしょうじあと)
熊本市黒髪4-610
・立田自然公園(泰勝寺跡 たいしょうじあと)
この公園は、細川家の菩提寺として建立された泰勝寺跡(国史跡)です。
寛永14(1637)年、細川三代藩主・忠利が泰勝院(泰勝院とは初代藩主・藤孝の法名)として建立。四代藩主・光尚の時、京都より大淵和尚を住職として招き泰勝寺と改めました。
ここには、細川初代藩主・藤孝夫妻と二代・忠興、その妻ガラシャの墓である『四つ御廟(ごびょう)』をはじめ、藩主や住職の墓、細川家にゆかりのある宮本武蔵の供養塔などがあります。
その他、苔園、国指定天然記念物の立田山八重クチナシ、茶室『仰松軒(こうしょうけん)』などがあり、昭和38(1963)年には県の名勝及び史跡に指定されています。
・四つ御廟(ごびょう)
寛永9(1632)年、肥後54万石の領主となって入国した細川忠利は、寛永14年に現在地に泰勝院を建立し、祖父・細川藤孝(幽斉)と祖母・光寺院および母・秀林院の廟を建立した。泰勝院は藤孝の法名である。
忠利は寛永18年になくなって北国の妙解寺に葬られたが、正保2(1645)年に、その父・忠興(三斉)がなくなると、当主の光尚は忠興をその夫人秀林院の廟の隣に葬り、ここに四つの廟が出来上がった。
正保3年に光尚は泰勝院を瑞雲山泰勝寺と改称して独立の菩提寺としたが、綱利の頃、山号を龍田山と改められた。
寺は明治2年の神仏分離によって廃寺となったが、細川家中典の祖である藤孝・忠興両夫妻を祀る四つの廟は大切に維持されてきた。
しかし第二次大戦後の世情によって手入れが行き届かず大破に及んだ。昭和48年度大修理を実施して旧に復した。
廟はいずれも二間四方の方形造で四隅の鬼瓦はなお古式を伝えており、前面には大正時代に設けられた向拝(ごはい)がついている。
・ガラシャ夫人の手水鉢(ちょうずばち)
『関ヶ原の戦い』が始まる7月、石田三成は細川忠興を西軍に引き込むためにガラシャを人質にとる作戦に出る。
大坂玉造邸にいたガラシャは人質を拒み、屋敷に火を放って最後を遂げた。
この手水鉢は、命をたつ直前、手水鉢を水鏡にして最後の身支度を整えたと伝えられている。
辞世の句
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
ガラシャの父・明智光秀は主君・織田信長に謀反して本能寺の変で信長を自刃をおいやった。その後、ガラシャは味土野(現・京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉。
その後、秀吉に許され大阪玉造の細川家に戻るが、最後は人質を拒み、家老の小笠原秀清少斎に槍で部屋の外から胸を貫かせてなくなった。
戦国の世を生きたガラシャ。時代に翻弄され…この時代、女も戦っていた。
…と、WEB上にはこんな記載がありました(^.-)☆
■2016年06月19日
続いて届きましたのが、「花岡山・仏舎利塔」でありました(^.-)☆
◆花岡山・仏舎利塔
JR熊本駅の北側にある標高133mの山です。熊本市で一番夜景が美しいと言われています。
山頂にはインドのネール元首相から世界平和の祈願をこめて寄贈された御仏舎利(お釈迦様の骨)を祀った白い仏舎利塔があります。
また、加藤清正が熊本城を築くための石を山から切り出す時に腰掛けていたという腰掛石や兜岩、鐘掛松などもあります。熊本城築城に際して、花岡山と南へ続く万日山一帯の岩石を切り出して運びました。陣頭指揮をとった清正が合図の鐘を松の枝にかけて打ち鳴らし、兜を脱いでその岩の上に置き、腰掛けて憩をとった由緒の岩ということです。
広場の南の端に出ると、「熊本バンド・奉教乃碑」があります。花岡山を歩くと、熊本の歴史の由緒と名残が埋もれているのに出会います。
◆花岡山
花岡山(はなおかやま)は、熊本県熊本市西区にあり標高132.2メートルの山である。山頂からは熊本市街が見渡せる。
・概要
JR熊本駅の北西側に位置する山で、金峰山の末端部が断層によって切り離されて形成されたと考えられている。南側には万日山があり地形的には繋がっている。
・呼称
かつては朝日山や勢高山などと呼ばれていた。979年(天元2年)に祇園神社(現在の北岡神社)が鎮座してからは祇園山と呼んだ。さらに1869年(明治2年)には桜を植樹したことから花岡山と呼ぶようになった。
◆花岡山にある施設
・花岡山公園
山頂を中心とするエリアは公園として整備されている。熊本市の特殊公園(風致公園)として1972年(昭和47年)4月1日に開設された。面積120,827u。
・頂上
仏舎利塔--世界平和の祈願をこめて建設された。1947年(昭和22年)9月21日に地鎮祭が行われ、約6年後の1953年(昭和28年)3月に完成。同年4月2日、完成後初の法要が行われた。
仏舎利はインドのジャワハルラール・ネルー首相から、尖塔の黄金コタはスリランカのコテラ・クラ首相から送られた。
…と、こんな「花岡山・仏舎利塔」のようであります(^-^)//"
■2016年06月19日
そして、本日最後に届きましたのが「霊巌洞」の画像でありました(^.-)☆
◆霊巌洞(れいがんどう)
熊本市の西方、金峰山(きんぽうざん)山麓にある洞窟。
うっそうと茂る樹木におおわれ、神秘的な霊場として知られる雲巌禅寺(うんがんぜんじ)の裏山にあり、洞窟内には岩戸観音(いわとかんのん)の名で知られる観音像が安置されています。
晩年の5年間を熊本で過ごした宮本武蔵(みやもとむさし)が、この洞窟にこもって兵法書「五輪書(ごりんしょ)」を著したことは、あまりにも有名。霊巌洞の歴史は寺より古く、いい伝えによれば異国から観音像を運んでいるときに舟は転覆しましたが、観音像だけは板にのって流れ着き、霊巌洞に安置されたといいます。この洞窟には武蔵だけでなく、平安期の歌人・桧垣(ひがき)も訪れています。
雲巌禅寺から霊巌洞に至る岩山を削った細道には、五百羅漢が安置されており、さまざまな表情を見せてくれます。
・クチコミ情報(No.1)
最寄りのバス停は、データにあるように、「岩戸観音入口」で、霊巌洞まで20分の急な坂道(車道、約1キロ)です。夏など、ちょっときつい。便数が少ない(2時間に1本位)のは仕方ないとして、霊巌洞の前まで、バスの運行を延長することはできないのでしょうか。
近年、熊本城を訪れる観光客はすごく多いですが、歴史に関心がある人が大半。晩年の宮本武蔵が五輪書を書いて過ごした山奥の洞窟なら、一度は訪れたいと思うはず。簡単に歩いていける距離の、熊本城と遊楽施設間に無料バスが走っている熊本なら、難しいこととも思えません。
某ネット上のランキングで、熊本の観光地ベストワンに選ばれた(!)ところなので、現状クルマでしか行けないのは少しもったいない。観光地が人気化すると、どうしても俗化してしまいますが、それを危惧しているのかなーと思っています。
・クチコミ情報(No.2)
ひんやり涼しかったです。思ってたよりも洞は浅めでしたが、圧巻でした。
五百羅漢の方にも書いたんですが、五百羅漢も霊巌洞も辿るルートが少し乱れてます。手すりが金属製だったので、日差しが当たっている部分が熱くて掴めないです。お年寄りや体の不自由な人にはハードルのちょっと高い観光地だと思います。
★霊巌洞
霊巌洞(れいがんどう)は、熊本県熊本市西区松尾町の雲巌禅寺の裏山にある洞窟。
宮本武蔵がこの洞窟に籠もって「五輪書」を書いたことで有名。洞窟内には岩戸観音の名で知られる観音像がある。宝物館には、巌流島で使用した木刀、自画像などが展示してある。
★雲巌禅寺
雲巌禅寺(うんがんぜんじ)は、熊本県熊本市西区松尾町平山にある曹洞宗の寺院。山号は宝華山または岩殿山。
通称は岩戸観音。これは、境内奥の院の洞窟・霊巌洞(れいがんどう)に安置された本尊・石体四面の馬頭観音像にちなむ。
・歴史
南北朝時代、中国寧波より渡来した元の禅僧・東陵永?(とうりょうえいよ、「よ」は王篇に「與」)により建立されたと伝えられる。
本尊の観音像自体は、寺の建立以前から洞内に安置されていたと言い、世阿弥の謡曲「檜垣」により、平安朝の歌人・檜垣がこの観音を日参したという故事でも知られる。
また、剣聖・宮本武蔵が晩年、霊巌洞に参籠し、二天一流の極意書「五輪書」を著したことは特に著名である。
・境内及び周辺
寺は金峰山の西麓に所在する。
境内は1975年(昭和50年)、熊本県指定史跡名勝に指定され、裏山には江戸中期につくられた十六羅漢、五百羅漢の石像が並ぶ。
隣接する宝物館には、宮本武蔵が巌流島で佐々木小次郎との決闘に使用したとする木剣や武蔵の自画像などが収蔵されている。
奇岩や紅葉の名所として肥後耶馬渓と呼ばれる寺の周辺は、岩戸の里公園として整備されており、園内の黒岩展望台は有明海を挟み雲仙普賢岳を臨む。
…と、こんな霊巌洞のようであります(^.-)☆
GONsanは、今回届けて頂きました場所には、いずれも出掛けた事がありませんので、次回、熊本行きの機会に恵まれましたら、是非とも出掛けなくちゃぁ!!
それにしましても友人が羨ましいですねぇ〜
日々過酷な勤務が続いておられますのでしょうけど、こぅした長期滞在でもありませんと、こぅした熊本市内の名所をユックリと楽しむ訳にもいきません。
いゃぁ、とにかく羨ましいですねぇ(^-^)//"
■2016年06月20日
地震調査で、4/21に熊本入りしておりました友人から届きました、多分、これが最後の画像なんだと思います。
拝見してみますと、う〜ん、あの千場歯科sanの画像なんですねぇ〜
こんなメッセージが添付されておりました。
>お早うございます。
>今日で熊本とお別れします。
>傾いた歯医者ビルも綺麗に撤去され着々と再建されています。
>甚大な被害はありましたが新しい息吹を感じます…
と、こんなメッセージでありました。
ふ〜ん、そぅなんですか…4/21から熊本滞在でしたから、丁度、丸2ヶ月の熊本滞在。
業務遂行は何かと大変でしたのでしょうけど、お疲れ様でございました。この間には一度も、広島には帰られませんでしたのでしょうねぇ…本当にお疲れ様でございました。
千場歯科sanの建物ですけど、建物を持ち上げ補強工事の上、元に戻されるのかも…と思っておりましたら、凡て解体。撤去となりましたようですネ…
ご覧の画像の通り、ほぼ更地となっておりますけど、その工事の真っ最中と言ったところでしょうか…
こんな感じで、熊本市内のアチコチで再建・復旧に向け作業が進行していますようですネ。
こんな状況の中、友人は熊本を後にされますようですけど、さぞお名残惜しいお気持ちも生じておられます事でしょう…
とは言いましても、いつまでも熊本に滞在する訳にも行きませんでしょうし…どこかで一区切り付けませんと…
滞在中には色んな画像を届けて頂きました。
GONsanは何にもお役に立てませんけど、被害に遭われました皆様が復旧への困難を克服され、お元気に日々歩まれますよう祈念致したいと思います(^-^)//"