2015/12/06 第3回「因島ウォーキング大会」 <4/6> |
観光用城型資料館であります「因島水軍城」への入館は、勿論、有料なんですけど、ウォーキング大会参加者はゼッケンの提示で無料なんです(^_^)v
ですから、勿論、GONsanも入館となりました(^_^)v
残念なのは、館内の撮影は不可でしたのが…
水軍城の見物を終え金蓮寺まで降りて来ますと、案内標識に従い、今度は村上水軍の墓地にお参りと言うか立ち寄りとなりました(^.-)☆
◆村上水軍の墓地
金蓮寺にある村上水軍(因島村上氏歴代)の墓。
金蓮寺は村上水軍の菩提寺で宝徳2年(1450)年、青陰城主村上備中守吉資の創立とされる。尚、金蓮寺はかつて中庄町の東南、外浦町の谷間にあったが、その後、現在地に移りそれまで分散していた石塔類を金蓮寺裏山に集めたと伝えられている。(このため各石塔について誰の墓塔であるかはわからなくなっている。)
この墓地には宝篋印塔十八基のほか五輪塔が整然と立ち並び、因島村上氏の一族及びその家臣を含めた墓石群と伝えられている。
★金蓮寺
宝鏡山金蓮寺[ほうきょうさんこんれんじ]は因島水軍家村上氏の菩提寺である。
『因島村上家文書』の金蓮寺棟札写によると、文安六年(一四四九)八月吉日に宮地妙光(みょうこう)と子息大炊助資弘が願主となって建立したことがわかる。
宮地妙光は備後鳴滝城主宮地弘躬(ひろちか)の嫡男で、鳴滝城が木頃(きごろ)石見守経兼(つねか)に攻められて落城したとき、因島に逃れて村上備中守吉資を頼ったことはすでに述べたが、宮地氏は主君吉資のために村上氏の菩提寺の建立を思い立ち、外浦(とのうら)にあった金蓮廃寺を現在地に移して再興したのである。したがって水軍時代には寺域も広大で立派な堂宇が建ち、近郷随一の寺格を誇っていた。
宮地氏は、尾道市吉和町の海に近い山城「鳴滝城」を居城とし、当時から海運などに影響を持つ一族だったと言われています。
…と、こんな金蓮寺・村上水軍の墓地でありますようです(^-^)//"
金蓮寺境内の一角に存在しますこのモミジ…ヤケにキレイでありました(^_^)v
因島水軍城にお別れしますと、次は白滝山に登る事に致しました(^.-)☆
本来なら「フラワーセンター」か「因島ペンション白滝山荘」に車を駐め、凡て歩いて白滝山まで登って行きますのがイィのですけど、今回はパス(^-^)
白滝山頂上近くの駐車場まで車で登る事となりました(^-^;
駐車場脇から参道を上り暫くしますと眺望が開けます。
向島〜因島を結びます因島大橋の主塔が眼に入りますけど、曇天ですから素晴らしい瀬戸内の景観も今一と言ったところでしたネ。
◆白滝山・五百羅漢
標高227メートルの白滝山は、もともと修験者の修行の場でした。
永禄12年(1569年)因島村上水軍6代当主、村上新蔵人吉充が布刈瀬戸の見張りどころとして観音堂を建立したと伝えられています。
江戸時代後期、重井の豪商・柏原伝六(1780〜1828年)が、神道、儒教、仏教に加え、当時禁制の基督教の四大宗教の共通理念を基礎に『一観教』を開き、白滝山上に清浄世界をあらわそうと、石像群の五百羅漢を弟子・柏原林蔵や尾道の石工たちとともに刻みました。文政10年(1827年)発願し、3年後の文政13年(1830年)完成しました。しかし伝六は、その途中、一揆を怖れる広島藩により文政11年(1828年)毒殺されました。
いま、仁王門から山頂まで大小約700体の石像仏群がところ狭しと並んでいます。
山頂の展望台からは360度、瀬戸内の大パノラマを楽しめます。その眺めのすばらしさに、歌人・吉井勇は、
白滝の山に登れば眼路広し
島あれば海 海あれば島
と詠んでいます。
★五百羅漢(ごひゃくらかん)
仏教で供養尊敬を受けるに値する500人の人々。
第1回、第4回の仏典編集会議に集った人々がそれぞれ500人であったことから両会議の参加者をさしていう。また、確かな根拠はわからないが、中国、日本の禅宗で五百羅漢の崇拝が行われ、それに関する美術品も多い。
…と、こんな白滝山。
GONsanにとりましては20数年振りに上ります白滝山となりますけど、何となく懐かしさを感じてしまいましたネ(^-^)//"
参道脇の石仏、紅葉、瀬戸の眺望…等に眼を向けながらノンビリと上っておりますと、ほどなく山門にと到着です。
駐車場には5台の車が駐まっておりましたから、山門をくぐりますと相応の方達が参拝しておられますのでしょうネ…
波も無く穏やかな瀬戸の海…眺めておりますと、実にノンビリとした気持ちに包まれましたねぇ(^-^)//"
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